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七話目

 梅雨の足音が、そこまで近づいていた。

 五月の終わりから六月にかけての風は、日を追うごとにその内側に含んだ水分の量を増していく。

 健康な生徒たちにとっては、ただ「少し蒸し暑くなってきた」「制服のブラウスが肌に張り付いて不快だ」という程度の季節の移ろいに過ぎない。しかし、結城紬の脆弱な肺にとって、空気中の湿度が上がることは、目に見えない真綿(まわた)でゆっくりと首を絞められるような、明確な「負荷」を意味していた。

 息を吸い込むたびに、肺の奥底に重たい泥水が溜まっていくような感覚。

 主治医である黒崎から『絶対に無理をするな』と厳しく釘を刺されたあの定期健診の日から、紬は自身の体調管理をさらに徹底するようになっていた。

 朝、目覚めた時の心拍数。階段を上る時の足の重さ。少しでも異常を感じれば、立ち止まって深く深呼吸を繰り返す。妹の糸が作ってくれたかすみ草の刺繍のポーチには、常に頓服薬(とんぷくやく)が忍ばせてあり、それがお守りのように紬の心を支えてくれていた。

 なんとしても、学校に通い続けるために。

 この眩しい日常から、一日でも長く、一秒でも長く引き剥がされないようにするために。

 紬は、誰にも悟られないよう、静かに、そして必死に、自分の命のペース配分を行っていた。


 その日の昼休み。

 いつものように、紬と栞の席に、藤原樹と瀬野陽向が机をくっつけてきて、四人での昼食が始まった。

 この光景は、すっかりクラスの中でも見慣れたものになっていた。初めこそ、大人しい図書委員の二人と、クラスの中心にいるような陸上部のエースとお調子者の組み合わせを奇異の目で見る者もいたが、樹の持ち前のコミュニケーション能力と、陽向の誰に対しても変わらないフラットな態度のおかげで、今では誰も不自然に思うことはなくなっていた。

 しかし、今日の昼休みの空気は、いつもとは決定的に違っていた。


「……でさ、うちの上の兄貴が、いきなり金髪にして帰ってきやがって。親父がブチギレて、昨日の夜、家の中が修羅場だったんだよね。俺、巻き込まれるの嫌だから、ずっと部屋でヘッドホンしてギター弾いてたわ」


 樹が、いつも通り身振り手振りを交えながら面白おかしく話し、購買で買ってきたであろう焼きそばパンを頬張る。

 普段であれば、ここで栞が「お兄様もご家族も、思慮が足りないわね。藤原くんのその適当な性格は、ご家庭の環境に起因していることがよくわかるわ」と冷徹なツッコミを入れ、陽向が「お前んち、相変わらず騒がしいな」と呆れながら笑う、というのがお決まりのパターンだった。


「……」


 しかし、陽向は黙ったままだった。

 彼は大きなタッパーに入った弁当の白米を、箸でただ無意味につついているだけで、全く口に運ぼうとしない。彼の視線は机の木目に落ちたまま、どこか遠くの、自分にしか見えない暗闇を睨みつけているようだった。

 その顔には、いつもの飄々(ひょうひょう)とした余裕はなく、微かな苛立ちと、どうしようもない焦燥感が張り付いている。

 眉間には深い皺が刻まれ、顎の筋肉が微かに硬直しているのが、向かいに座る紬にははっきりと見て取れた。


「……おい、陽向? 聞いてるか?」


 樹が、少しだけ心配そうな声を出しながら、陽向の顔を覗き込んだ。


「あ? ……ああ、聞いてるよ。兄貴が金髪にしたんだろ。くだらねえ」


 陽向はぶっきらぼうにそう吐き捨てると、乱暴な手つきでタッパーの蓋を閉めた。まだ半分以上、白米もおかずも残っている。


「ごちそうさん。俺、ちょっと先戻るわ」


 陽向は椅子を乱暴に引いて立ち上がると、そのまま教室の後ろのドアから足早に出て行ってしまった。

 残された三人の間に、気まずい沈黙が落ちる。


「……なんだよ、あいつ。機嫌悪すぎだろ」


 樹が、残された陽向の弁当箱を見つめながら、困ったように頭を掻いた。彼特有の明るい空気も、今ばかりは機能していないようだった。


「瀬野くん、最近少し様子がおかしいわね」


 栞が、自分のお弁当を丁寧にハンカチで包みながら、冷静な声で言った。


「昨日も、数学の小テストの時、ずっと貧乏ゆすりをしていたし。それに、あんなに食事を残すなんて、アスリートとしては異常事態よ。何か、思い悩むようなことでもあるの? 藤原くん、親友なら聞いていないの?」


 栞の鋭い指摘に、樹は重いため息をついた。


「いや、俺もなんとなくは聞いてるんだけどさ……。あいつ、部活でちょっと壁にぶち当たってるみたいで」


「壁、ですか?」


 黙って話を聞いていた紬が、思わず口を挟んだ。

 壁。あんなに風のように自由に、力強く走っていた彼が。


「うん。もうすぐ、インターハイに繋がる地区大会があるんだけどさ。あいつ、最近タイムが全然伸びないらしいんだ。むしろ、ちょっと落ちてるくらいで。顧問の先生にも色々言われてるみたいだし、期待されてる分、プレッシャーも半端ないんだろうな」


 樹は、飲みかけのいちごミルクのパックを指先で弄りながら、心配そうに目を伏せた。


「あいつ、走ることに関してはバカみたいにストイックだからさ。俺なんかが適当な言葉で励ましても、逆効果になるってわかってるし。どう接していいか、ちょっと迷ってんだよね……」


 あの明るい樹にここまで言わせるほど、今の陽向が抱えている闇は深く、重いということだ。

 紬の胸の奥が、ズキリと痛んだ。

 病気の痛みではない。彼が苦しんでいるという事実が、紬の心臓を物理的に締め付けているのだ。

 去年の春。中庭のベンチで、彼がスパイクを握りしめながら『足が、前に進まないんだ』と自嘲するように笑った、あの時の絶望に満ちた顔が、脳裏にフラッシュバックした。

 彼はあの時、紬の言葉をきっかけに再び走り出した。見事にスランプを脱却し、誰もが憧れる圧倒的なエースの座を手に入れたはずだった。

 しかし、高みを目指せば目指すほど、壁はより高く、より分厚くなって立ちはだかる。

 彼が今、どれほどの孤独の中でその壁と戦っているのか。想像するだけで、紬は自分のことのように息が詰まりそうになった。


「……私」


 紬は、膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。


「私、今日の放課後、少しだけグラウンドに行ってみる」


「えっ、紬? でも、今日は少し湿度が高いわ。外の空気は体に障るんじゃない?」


 栞がすかさず心配の声を上げる。彼女の眼鏡の奥の瞳が、紬の体調を瞬時にスキャンしようと細められた。


「大丈夫だよ、栞ちゃん。苦しくなったらすぐに帰るから。……ただ、少しだけ、瀬野くんが走るのを見たいの」


 紬の真っ直ぐな、けれどどこか祈るような視線に、栞は小さく息を吐き出し、「……無理だけは絶対にしないでね」とだけ言って、それ以上の追及を諦めた。

 樹は、そんな二人のやり取りを見て、どこか安心したように柔らかく微笑んだ。


「結城さん。陽向のこと、見ててやってよ。あいつ、結城さんが見てると調子いい気がするって、前に図書室で言ってたんだろ? 今のあいつには、俺の冗談よりも、そういう『光』みたいなのが必要なのかもしれないからさ」


 樹の言葉に、紬はただ静かに頷いた。

 自分が彼の「光」になれるなんて、そんな傲慢なことは思っていない。

 ただ、彼が苦しんでいるのなら、その苦しみから少しでも目を逸らさないでいたい。

 それが、限られた時間しか生きられない自分にできる、唯一の戦い方のような気がしたから。



 放課後。

 梅雨入り前の空は、どんよりとした薄灰色の雲に覆われ、初夏特有のじっとりとした湿気を帯びた風が、グラウンドの土を重く湿らせていた。

 太陽の光が遮られているため、気温こそそれほど高くはないが、この重い空気は紬の肺にとって決して心地の良いものではなかった。

 それでも、紬はいつもの藤棚の下のベンチに座り、カーディガンの襟元を軽く引き寄せながら、トラックを見つめていた。

 陸上部の練習は、すでに熱を帯びていた。

 部員たちの荒い掛け声、スパイクがタータンを叩く音、顧問のホイッスルの音。

 その中で、瀬野陽向の姿は、ひときわ異彩を放っていた。

 しかしそれは、以前見たような「生命力に溢れた圧倒的な美しさ」という意味での異彩ではなかった。

 今日の彼は、まるで目に見えない重い鎖を引きずっているかのように、その走りにいつもの伸びやかさが欠けていた。


 スタートブロックに足をかけ、前を見据える姿勢。

 その目には、獲物を狙う鷹のような鋭さはある。しかし、肩の筋肉が不自然にこわばり、余計な力が入ってしまっているのが、素人の紬の目から見てもわかった。


 ――パーンッ!


 ピストルの音が鳴り響き、陽向が飛び出す。

 速い。確かに速い。他の部員たちをあっという間に置き去りにしていくそのスピードは、依然としてエースの風格を保っている。

 だが、中盤から後半にかけての加速。いつもなら、そこからさらにギアが上がり、重力から解き放たれたように「風」になる瞬間がある。

 しかし今日の彼は、空気を切り裂くのではなく、まるで泥沼の中をもがくように、力任せに地面を蹴っていた。

 必死に、顔をしかめ、歯を食いしばりながら、空気の壁を壊そうと足掻いている。

 痛々しいほどの、生身の感情のむき出し。


「……っ」


 紬は、胸の奥がきつく締め付けられるのを感じた。

 彼が苦しんでいる。

 かつて自分が「綺麗だ」と称賛したあの走りを、彼自身が必死に取り戻そうとして、空回りしている。


 陽向が、ゴールラインを駆け抜けた。

 顧問の教師が、手元のストップウォッチを確認し、険しい顔で首を振ったのが見えた。

 陽向はゆっくりとスピードを落とし、トラックの端に立ち止まると、激しく肩で息をしながら、空を仰いだ。

 そして。


「……っそぉ!!」


 怒りと苛立ちに満ちた叫び声とともに、彼は足元のタータンを、スパイクで激しく蹴り上げた。

 周囲の部員たちが、一瞬ビクッと肩をすくめ、彼の方を見る。しかし、誰も声をかけることができない。陽向から発せられる、誰も寄せ付けないような強烈な拒絶のオーラが、そこにあった。

 陽向は両膝に手をつき、深くうなだれたまま、動かなくなった。

 彼の背中が、呼吸に合わせて激しく上下している。

 その背中から立ち上る焦燥と絶望の熱気を、紬は遠く離れた藤棚のベンチから、はっきりと感じ取っていた。


(……瀬野くん)


 ノートを開く気には、とてもなれなかった。

 今の彼を言葉で切り取ることは、彼の苦しみを消費するような気がして、どうしてもペンを握れなかった。

 ただ、祈るように見つめることしかできない。

 私は、彼の苦しみを代わってあげることはできない。私が持っている「時間」を、彼に分けてあげることもできない。

 

 ――無力だった。


 自分の命が限られていること以上に、誰かのために何もできない自分の無力さが、紬を深く傷つけていた。


 やがて、部活の終わりのミーティングが行われ、部員たちが三々五々、部室へと引き上げていく。

 空はさらに暗さを増し、いつ雨が降り出してもおかしくないほどの重い雲が垂れ込めていた。

 グラウンドには、もう誰もいない。

 ただ一人、瀬野陽向を除いて。

 彼は、用具の片付けが終わった後も、一人だけトラックに残り、スタートラインのあたりで地面を見つめたまま立ち尽くしていた。

 その孤独なシルエットは、あまりにも小さく見えた。


 紬はベンチから立ち上がり、カーディガンの前を合わせると、ゆっくりと、彼の方へ歩き出した。

 湿った風が、彼女の茶色いボブヘアを揺らす。

 急がないように。心臓に負担をかけないように。

 一歩一歩、彼と自分の間にある距離を縮めていく。


 陽向は、近づいてくる小さな足音に気づき、ハッと顔を上げた。

 彼の目は少し赤く充血しており、日焼けした頬には、汗なのかそれ以外のものなのかわからない水滴が光っていた。

 彼は、近づいてきたのが紬だとわかると、一瞬だけ驚いたように目を丸くし、すぐに視線を逸らしてしまった。


「……結城。まだいたのか」


 掠れた、ひどく低い声だった。

 いつもなら、少しぶっきらぼうだけれど温かい響きを持つ彼の声が、今はまるで、ひび割れたガラスのように痛々しく響いた。


「うん。……今日の練習、見学させてもらってたの」


「……」


 陽向は何も言わず、再び視線を足元のトラックへと落とした。

 彼の手には、脱いだばかりのスパイクが、指の関節が白くなるほど強く握りしめられている。

 去年の春、中庭で彼と出会った時と同じだ。

 彼は今、再び、深い暗闇の底で迷子になっている。


「……不様なとこ、見られたな」


 長い沈黙の後、陽向が自嘲するように笑った。


「あんな走り、お前に『綺麗だ』って言ってもらった俺の走りじゃねえよな。……泥臭くて、重くて、前に進んでる気がしねえ」


「そんなこと――」


「タイムが、伸びないんだ」


 陽向は、紬の言葉を遮るように、絞り出すような声で言った。

 それは、彼が誰にも、親友の樹にさえも言えなかった、心の底からのSOSのように聞こえた。


「あと零点一秒。たった零点一秒が、どうしても縮まらない。体が、筋肉が、今まで通りに動いてくれない。頭ではわかってんのに、足が地面を捉える感覚が、全部ずれてる気がするんだ。……いくら走っても、いくら練習しても、まるで水の中を走ってるみたいに重くて……息が、詰まりそうになる」


 陽向の言葉が、初夏の重い空気に溶けていく。

 水の中を走っているみたいに重くて、息が詰まりそうになる。

 その感覚を、紬は誰よりも知っていた。

 毎朝起きるたびに感じる、鉛のような肺の重さ。階段を数段上るだけで、酸素が脳に行き渡らなくなる恐怖。

 健康で、何不自由なく体が動くはずの彼が、今、私と同じような息苦しさを感じている。


「地区大会が、もうすぐなんだ」


 陽向は、空を見上げて深く息を吐き出した。


「ここでタイムを出さなきゃ、インターハイには行けない。俺、陸上しかねえからさ。走ることしか、自分を証明できるもんがねえんだよ。それなのに……俺、なにしてんだろ。こんなところで足踏みして、周りの期待だけが重くなって……本当は、走るのが怖いのかもしれねえ」


 走るのが、怖い。

 あの瀬野陽向が、弱音を吐いている。

 彼がどれほど自分を追い詰め、どれほどのプレッシャーの中で孤独に戦っていたのか。

 紬は、陽向のすぐ横に並んで立った。

 彼の体から発せられる熱気と、スポーツドリンクの微かな甘い匂いが鼻をかすめる。


「……瀬野くん」


 紬は、ゆっくりと口を開いた。


「私には、走ることの専門的な技術も、タイムを縮めるための方法も、何もわからない。瀬野くんがどれだけ苦しい思いをして練習しているか、本当のところは、私には理解できないのかもしれない」


 陽向は、うつむいたまま何も答えない。

 紬は、彼のその大きな背中を見つめながら、言葉を探した。

 慰めの言葉は、今の彼には意味をなさない。

「頑張って」という言葉は、すでに限界まで頑張っている彼を、さらに追い詰めるだけだ。


「でもね」


 紬の澄んだ声が、静かなグラウンドに響いた。


「瀬野くんが、たった零点一秒の壁を越えるために、どれだけの思いを込めてグラウンドを蹴っているか。その姿がどれだけ真剣で、嘘偽りのないものか。……それは、ずっとここから見ていた私には、はっきりとわかります」


 陽向の肩が、微かに震えた。


「タイムが伸びない時間は、きっと、瀬野くんにとって真っ暗なトンネルの中にいるようなものだと思う。自分がどこに向かっているのか、本当に前に進んでいるのか、不安で仕方なくなると思う。……でも、瀬野くんは、走るのをやめなかった。今日だって、最後まで、誰よりも悔しそうにグラウンドを走っていたじゃないですか」


 紬は、一歩だけ彼に近づいた。


「私は、知っています。瀬野くんの走る姿が、どれほど私の胸を熱くしてくれるか。瀬野くんが立ち止まりそうになっても、何度でも前を向こうとするその強さが、どれほど私に勇気をくれているか」


 紬の言葉に、陽向はゆっくりと顔を上げた。

 彼の目には、様々な感情が入り混じっていた。驚き、戸惑い、そして、ほんの少しの救い。


「私にとっての零点一秒と、瀬野くんにとっての零点一秒は、きっと全然違う重さを持っているんだと思います。……でも、瀬野くんがその零点一秒と戦っている姿は、決して不様なんかじゃありません。……どんな時だって、瀬野くんは、私にとっての眩しい光です」


 光。

 その言葉を聞いた瞬間、陽向の瞳の奥で、張り詰めていた何かの糸がフッと切れたような気がした。

 彼は深く息を吸い込み、そして、長く、長く息を吐き出した。

 まるで、肺の奥底に溜まっていた泥水のような焦燥感を、すべて外に吐き出すように。


「……お前ってやつは」


 陽向は、乱暴な手つきで自分の顔を覆い、天を仰いだ。


「本当に……ずるいよな。俺が一番言ってほしい言葉を、いっつもそうやって、真っ直ぐにぶつけてきやがる」


 顔を覆う彼の手の隙間から、少しだけ水滴がこぼれ落ちたのを、紬は見逃さなかった。

 彼は泣いているのだろうか。

 それとも、汗が流れただけなのだろうか。

 どちらでもよかった。

 彼が今、自分の中に溜め込んでいた感情を、こうして外に吐き出せているのなら、それで十分だった。


「……ごめん。情けねえとこ見せた」


 しばらくして、陽向は手を下ろし、紬の方を向いた。

 彼の顔はまだ少しだけ強張っていたが、先ほどの、触れれば切れそうなほどの悲痛な焦燥感は、少しだけ薄れているように見えた。


「ううん。私でよかったら、いつでも愚痴くらい聞くから。……私、座って見てることしかできないけど」


 紬がふわりと微笑むと、陽向は少しだけ照れくさそうに首の後ろを掻いた。


「……ありがとな、結城。お前と話してたら、なんか少しだけ頭が整理できた気がするわ」


 陽向は、足元に置いていたスポーツバッグを拾い上げ、肩にかけた。


「壁が高いなら、よじ登るまで走るしかねえよな。俺、もう少しだけあがいてみるわ」


「うん。……ずっと、応援してるからね」


 陽向は小さく頷き、「じゃあな」と背を向けて歩き出した。

 その背中は、まだ少しだけ重たそうだったが、絶望の淵に立っていた先ほどよりは、確実に前に進む意志を取り戻しているように見えた。


 紬は、陽向の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

 彼が去った後のグラウンドには、冷たい初夏の風が吹き抜けている。

 胸の奥が、重苦しく痛んだ。

 私は彼に、綺麗な言葉を並べただけだ。

 彼の本当の苦しみを、その筋肉の悲鳴を、私が肩代わりしてあげることはできない。

 私のような、いずれ消えてしまう病人が、彼の人生の壁の前で、どれほどの力になれるというのだろう。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。

 私は、彼の光になりたい。

 彼が私を照らしてくれたように、私も、彼の足元を照らす小さな光になりたい。


 空から、ポツリと、冷たい水滴が落ちてきた。

 頬に当たったその雨粒の冷たさに、紬はハッと我に返った。

 梅雨の始まりを告げる雨だ。

 紬は鞄を頭の上に掲げ、ゆっくりと歩き出した。

 早く帰らなければ。雨に濡れて体を冷やせば、また糸や母を心配させてしまう。

 歩きながら、紬の心の中では、ある一つの決意が静かに固まりつつあった。


 ――言葉の力。


 私には、走る足も、重いものを持ち上げる力もない。

 でも、言葉を紡ぐことならできる。

 ノートに書き留めてきたあの言葉たちを、今度は自分のためではなく、彼を励ますために紡ごう。

 不器用で真っ直ぐな彼に、一番届く言葉を。


 結城紬の時間は、削り取られていく。

 しかし、その限られた時間の中で、彼女の魂は、誰かを救うために、熱く、確かな鼓動を打ち始めていた。

 降り始めた雨の冷たさも忘れるほどに、彼女の胸の奥は、静かな決意の炎で燃えていた。

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