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六話目

 消毒液と、微かに漂う薬品の匂い。そして、空調設備が吐き出す無機質で冷たい空気。

 総合病院の正面玄関をくぐり抜けた瞬間、結城紬の肺を満たしたのは、学校に溢れていたあの瑞々しい初夏の風とは似ても似つかない、徹底的に管理された「静寂」の匂いだった。

 月に一度の定期健診。

 紬にとって、それは自分が決して「普通の高校生」ではなく、死と隣り合わせの「患者」であることを強制的に再認識させられる、冷酷な厳儀(げんぎ)の日である。

 平日の午前中。学校は公休扱いとして欠席している。今頃、瀬野陽向や藤原樹、そして三島栞たちは、あの騒がしくも温かい教室で二時間目の授業を受けているはずだ。窓から差し込む太陽の光、チョークが黒板を叩く音、誰かの忍び笑い。それらの眩しい日常が、この分厚いコンクリートの壁に阻まれて、まるで遠い異国の出来事のように感じられた。


「紬、寒くない? 病院の中、少し冷房がキツいかもしれないから、カーディガンしっかり羽織っておきなさいね」


 隣を歩く母の咲良が、紬の肩をそっと抱くようにして言った。

 自宅では常にエプロン姿で、柔らかな笑いじわを浮かべている咲良だが、今日のような通院の日には、決まって少しきちんとしたブラウスとスカートを身に纏っている。しかし、その服装の端正さとは裏腹に、彼女の顔には隠しきれない緊張と疲労が張り付いていた。

 咲良が握りしめている診察券や予約票の入ったクリアファイルは、彼女の指先に力がこもっているせいで、微かに歪んでしまっている。


「大丈夫だよ、お母さん。ちっとも寒くない」


 紬は、母の不安を少しでも和らげるために、いつものようにふわりと微笑んでみせた。

 しかし、その笑顔を作ることさえ、今日は少しだけ労力を要した。

 病院という空間が持つ特有の重力が、紬の体を、そして心を、じわじわと下へと引っ張っていくのだ。

 すれ違う人々は皆、一様に伏し目がちで、足取りが重い。点滴スタンドを引きずりながら歩くパジャマ姿の入院患者。車椅子を押す疲れ切った表情の家族。白衣を翻して早足で通り過ぎる医師や看護師たち。

 ここは、「生」と「死」の境界線が、オブラートに包まれることなく、むき出しになっている場所だ。

 そして何より、紬自身が幼い頃、一年の大半をこの白い壁に囲まれて過ごしてきたという事実が、トラウマのように細胞に染み付いている。夜中に発作を起こし、息ができずにのたうち回った記憶。酸素マスクを押し当てられ、薄れゆく意識の中で両親の泣き叫ぶ声を聞いた記憶。

 それらの暗い記憶が、この匂いを嗅ぐだけで、パブロフの犬のようにフラッシュバックしそうになるのを、紬は必死に心の奥底へと押し込めていた。


 呼吸器内科の待合室は、すでに多くの患者でごった返していた。

 壁掛けの大型モニターには、環境映像の静かな滝の映像が音もなく流れており、その横にある電子掲示板に、次々と診察室へ呼ばれる患者の受付番号が赤いデジタル文字で表示されていく。

 ピンポーン、という無機質な電子音が鳴るたびに、待合室にいる人々の肩が微かに揺れる。


「……ひとまず座りましょうか。まだ少し時間がかかりそうね」


 咲良に促され、紬はパイプ椅子のような冷たい感触のベンチに腰を下ろした。

 鞄から、いつもの小さなノートを取り出そうとして、――やめた。

 ここでは、言葉が浮かんでこない。

 学校のグラウンドで陽向の走る姿を見た時や、図書室で彼と見つめ合った時に溢れ出してきたような、あの光に満ちた美しい言葉たちは、この無菌室のような空間では、息を潜めて凍りついてしまうのだ。

 代わりに、紬は自分の膝の上で両手を静かに組み合わせた。

 指先が、少しだけ冷たい。

 自分の体内を流れる血の温度が、この病院の空気に同化して下がっていくような錯覚。


(……瀬野くん)


 心の中で、無意識にその名前を呼んでいた。

 暗闇の中で、唯一の道標となる灯台の光を探すように。

 彼なら今頃、退屈そうに窓の外を眺めているだろうか。それとも、机の下でこっそりと陸上の専門誌でも読んでいるだろうか。

 彼が纏うあの強烈な生命力、圧倒的な「生きている」という熱量を思い出すだけで、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……結城紬さん。一番の診察室へお入りください」


 不意に、看護師の声が待合室に響いた。

 ビクッと咲良の肩が跳ねる。紬はゆっくりと立ち上がり、「行こう、お母さん」と優しく声をかけた。


 診察室の重いスライドドアを開けると、そこには、無駄なものが一切置かれていない、整然とした空間が広がっていた。

 部屋の中央に置かれたデスク。その向こう側で、カルテを表示したデュアルモニターを見つめている一人の男性医師。

 結城紬の主治医であり、この総合病院の呼吸器内科のエースでもある、黒崎(くろさき)誠一郎(せいいちろう)だった。

 四十二歳。高身長で、少し白髪が混じり始めた黒髪をきっちりと整えている。白衣の下には、今日も隙のないグレーのスリーピースのスーツを着込んでおり、ネクタイの結び目には一ミリの緩みもない。

 彼は、紬たちが部屋に入ってきても、すぐにはモニターから視線を外さなかった。キーボードを叩く乾いた音が、静かな診察室に響く。


「失礼します、黒崎先生。今日もよろしくお願いします」


 咲良が深く頭を下げ、紬もそれに倣って一礼した。

 タイピングの音が止まり、黒崎がゆっくりと椅子を回転させてこちらを向いた。

 彼の目は、現実主義者特有の、冷たく、深く、一切の感情を排したような鋭い光を放っている。愛想笑い一つ浮かべず、ただ事実だけを見極めようとするその眼差しは、初めて彼に出会った患者であれば、冷酷だと感じて震え上がってしまうかもしれない。

 しかし、紬は知っていた。

 彼が言葉数が少なく、決して患者と馴れ合おうとしないのは、冷たいからではない。むしろ、患者の命に対する責任感が、常軌を逸するほどに強すぎるからなのだ。若手時代に同年代の患者を亡くしたという過去を持つ彼は、感情移入という「医師にとっての毒」を徹底的に排除することで、己の冷静な判断力を保ち続けているのだと、いつだったか看護師が噂しているのを耳にしたことがある。


「結城さん、お掛けなさい」


 低く、よく通る声だった。

 紬が丸椅子に腰を下ろすと、黒崎は手元のバインダーに挟まれた本日の検査結果に視線を落とした。先ほど血液検査やレントゲン、心電図を終わらせてきたばかりのものだ。


「調子はどうですか。先月から、何か変わったことは?」


「いえ、特には。食欲もありますし、夜もよく眠れています」


 紬が穏やかな声で答えると、黒崎はペンを指先でくるくると回しながら、モニターに映し出されたレントゲン画像へと視線を移した。


「……そうですか。胸の音を聞きます。後ろを向いて」


 紬は言われるがままに丸椅子を回転させ、背中を向けた。カーディガンを少しずらし、ブラウスの背中越しに、黒崎が聴診器を当てる。

 金属の冷たい感触が、背筋を這い上がる。


「大きく吸って。……吐いて。もう一度吸って。……はい、結構です」


 ほんの数十秒の沈黙。その間、咲良は息をするのも忘れたように、ただ祈るような目で黒崎の横顔を見つめていた。

 黒崎は聴診器を外し、首にかけ直すと、再びモニターに向き直った。


「結論から言います」


 黒崎のその前置きは、いつも咲良の寿命を縮めさせる。


「血液検査の炎症反応、および心肺の機能を示す各種数値、心電図の波形。いずれも、先月と比べて大きな変化はありません。数値は横ばいです」


 その言葉を聞いた瞬間、咲良の口から「ああ……っ」という、安堵の深いため息が漏れた。

 横ばい。悪化していない。それは、結城家にとっては何よりの吉報だった。

 しかし、紬の胸の奥には、冷たい泥水のようなものが静かに沈殿していく感覚があった。


(横ばい……)


 それはつまり、「決して良くはなっていない」ということの裏返しだ。

 奇跡的に症状が安定しているとはいえ、それは崩れかけたジェンガが絶妙なバランスで一時停止しているに過ぎない。崩れかけたブロックが元に戻ることは、二度とない。黒崎も、紬も、その残酷な事実を完璧に理解している。


「よかったわね、紬。先生、ありがとうございます。この子が毎日無理をせずに過ごしてくれているおかげです」


 咲良が涙声で黒崎に頭を下げる。

 しかし、黒崎の表情は微動だにせず、むしろその鋭い眼差しは、咲良を通り越して、真っ直ぐに紬の瞳を射抜いていた。


「……本当に、無理はしていませんか?」


 黒崎の声のトーンが、一段階低くなった。

 紬の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。


「結城さん。数値は横ばいだと先ほど言いましたが、心電図の波形に、ごくわずかですが、日常的な負荷の蓄積によるストレスサインが見られます。あなた自身の自覚症状としてはどうですか。階段を上る時、あるいは少し長く歩いた時。以前よりも、息切れを感じるまでの時間が短くなっていませんか?」


 見透かされている。

 紬は、膝の上のスカートの布地を、無意識に強く握りしめた。

 最近、昼休みに彼らと笑い合ったり、放課後に図書室で言葉を交わしたりした帰り道。確実に、体は重くなっている。心臓への負担は、誤魔化しきれない形で蓄積されていた。


「……少しだけ。本当に、少しだけですが、帰りの道で立ち止まることが増えたかもしれません」


 紬が正直に白状すると、隣で咲良が「えっ……」と息を呑み、血の気を引かせた顔で紬を見た。


「紬、あなた、私にはそんなこと一言も……!」


「お母さん、心配かけたくなかったの。ごめんなさい。でも、少し休めばすぐに治る程度の……」


「お母様、少し静かに」


 黒崎が、ピシャリと咲良の言葉を遮った。冷たく聞こえるかもしれないが、そこには不要なパニックを防ぐための、医師としての毅然としたコントロールがあった。

 黒崎は、組んだ両手の上に顎を乗せ、深く、静かに紬を見据えた。


「結城さん。あなたが念願だった高校生活を謳歌したいという気持ちは、私も理解していますし、最大限尊重したいと考えています。だからこそ、こうして自宅療養と通院での生活を許可している」


 彼の言葉は、淡々と、感情の起伏を持たずに紡がれていく。


「しかし、あなたの体は、健常者と同じペースで生きるようには設計されていません。あなたが他の生徒と同じように笑い、同じように歩き、同じように心を動かすことは、あなたの心臓にとって『全力疾走』をしているのと同じ負荷をもたらします」


 ――全力疾走。


 その言葉を聞いて、紬の脳裏に、グラウンドを駆け抜ける陽向の姿がフラッシュバックした。

 彼は、自らの意志で、自らの筋肉を駆使して全力疾走をしている。

 しかし私は、ただ「普通の日常」を送るだけで、命をすり減らす全力疾走を強制されているのだ。


「絶対に、無理はしないように」


 黒崎の言葉が、氷の刃のように紬の胸に突き刺さった。


「あなたが引かれている境界線は、極めて脆い。その境界線を一歩でも越えれば、次は『横ばい』では済まない。最悪の場合、そのまま病状は最終段階へと進行し、二度と学校に戻ることはできなくなります。……わかっていますね?」


 それは、脅しではなく、医学的な事実に基づく冷酷な予言だった。

 命のリミットが、すぐ足元まで迫ってきている。

 少しでも羽目を外せば、少しでも「光」に近づきすぎれば、私は焼き尽くされてしまう。


「はい……。わかっています。気をつめます」


 紬は、震えそうになる声を必死に押し殺し、完璧な笑顔を作って頷いた。

 周囲に気を遣わせまいとする、彼女の防衛本能だった。

 黒崎は、その紬の「作り笑い」を、悲しそうな、けれど何も言えないというような複雑な瞳で一瞥し、短く息を吐き出した。


「次回の診察は四週間後です。薬はこれまでと同じものを処方しておきます。何かあれば、次回の予約を待たずにすぐに連絡してください」


「ありがとうございました」


 診察室を出ると、咲良はすぐに紬の肩を強く抱き寄せた。


「紬……ごめんなさいね。お母さん、あなたが無理してることに気づいてあげられなかった。これからは、学校への行き帰り、お母さんが車で送迎するから。ね? そうすれば、歩く負担は減るでしょう?」


「お母さん、大げさだよ。そんなことしなくて大丈夫。ちゃんと自分でペースを考えるから……。少し、トイレに行ってきてもいい? お母さんは先にお会計済ませておいて」


「そう? ……わかったわ。待合室の前のソファーで待ってるからね」


 咲良の心配げな視線から逃れるように、紬は足早に廊下の奥へと向かった。

 トイレには入らず、そのまま人気のない中庭に面した自動販売機のコーナーへと足を向ける。

 胸の奥が、重くて、苦しかった。

 病気のせいではない。黒崎から突きつけられた現実と、家族にかけてしまう迷惑への罪悪感が、彼女の心を締め付けていた。

 自分は、生きているだけで誰かを傷つけている。

 糸を泣かせ、咲良の心をすり減らし、そしていずれ……彼らにも。


「……結城さん」


 不意に、背後から声をかけられ、紬はハッと振り返った。

 そこには、診察室にいるはずの黒崎誠一郎が立っていた。

 彼は白衣のポケットに片手を手を突っ込み、もう片方の手には、見慣れた銘柄の缶のブラックコーヒーが握られている。休憩時間に入ったのだろうか。


「黒崎先生……」


「外来の午前枠が終わってね。一息つこうかと」


 黒崎はそう言うと、自販機の横にあるパイプ椅子に腰を下ろし、プルタブをカシュッと開けた。ブラックコーヒーの苦い香りが、漂ってくる。


「先生、ブラックコーヒー好きなんですか?」


「これしか飲まない。甘いものは、頭を鈍らせる」


 黒崎は缶に口をつけ、ゴクリと喉を鳴らした。その姿は、診察室で見せる絶対的な「医師」という鎧を少しだけ脱ぎ捨てた、一人の「人間」のように見えた。

 紬は、なんとなくその場を立ち去り難く、黒崎から少し離れた窓際の壁に寄りかかった。

 中庭には、点滴台を引いた老人が、ゆっくりと散歩をしている姿が見える。


「……先生」


 気づけば、紬の口から言葉がこぼれていた。


「私、わがままでしょうか」


「……何がだ」


「わかってるんです。私が無理をすれば、お母さんや妹がどれだけ悲しむか。先生がどれだけ心配してくれているか。……でも、私は、学校に行きたい。友達と笑い合いたい。誰かに、必要とされたい。……それは、死んでいく人間の、ただのわがままでしょうか」


 自嘲気味な紬の問いかけに、黒崎はしばらく無言だった。

 彼は缶コーヒーの冷たい表面を指先でなぞり、やがて、ぽつりと口を開いた。


「……私は、現実主義者だ。医学という絶対的なデータと事実に基づいて、患者の生存確率をコンマ一パーセントでも引き上げるのが私の仕事だ」


 黒崎の声は、淡々としているが、どこか深い海の底から響いてくるような重みがあった。


「医学的に言えば、君の望みは愚行だ。絶対安静を守り、リスクを徹底的に排除することが、君の命を一日でも長く引き延ばす唯一の最適解だからな」


 わかっていた答えだ。

 紬がうつむこうとした時、黒崎は言葉を続けた。


「だが……人間は、データや数値だけで生きているわけじゃない」


 黒崎が、紬を見た。

 その瞳の奥には、彼がかつて救えなかった命に対する深い悔恨と、祈りにも似た感情が揺らめいているように、紬には見えた。


「生き延びることと、生き切ることは違う。私は医者として、君に『絶対に無理をするな』と何度でも釘を刺す。君の命を一日でも長くこの世に留め置くために、私は憎まれ役になり続ける。……だが、結城紬という一人の人間が、どう『生き切る』かを選択するのは、君自身の権利だ。……それを、わがままだと断罪する権利は、誰にもない」


 黒崎は缶コーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。

 空き缶を専用のゴミ箱に捨て、白衣の襟を正す。再び、隙のない「医師・黒崎誠一郎」の顔に戻っていた。


「ただし。君の体は、君が思っている以上に限界に近い。ロウソクの火は、燃え尽きる直前が一番明るく輝くというが……君は今、その状態に近いのかもしれない。だから、急いで燃やし尽くすような真似だけはするな。……いいな」


 それは、厳しい警告でありながら、彼なりの最大限の優しさとエールだった。

 紬は、深く、深く頭を下げた。


「はい。……ありがとうございます、先生」


 黒崎は何も答えず、靴音を響かせて廊下の奥へと消えていった。

 残された紬は、窓の外の中庭を見つめた。

 急いで燃やし尽くすような真似はするな。

 その言葉を胸の中で反芻する。

 私の命のロウソクは、もう長くは持たない。

 ならば、その火をどう使おうか。

 ただガラスの箱の中で消えるのを待つのではなく、私は、私の意志で、あの大切な人たちを照らすために使いたい。


 翌日。

 季節外れの強い日差しが照りつける、初夏のグラウンド。

 紬は、藤棚の下のベンチで、いつものように体育の授業を見学していた。

 昨日の病院での出来事が、冷たく重い夢であったかのように、学校には圧倒的な「生」のエネルギーが満ち溢れている。

 体育館からはバスケットボールの音が響き、グラウンドでは女子たちがバレーボールに興じている。

 そして。


「……瀬野くん」


 グラウンドの外周を、風のように駆け抜けていく瀬野陽向の姿があった。

 彼は今、クラス対抗のリレーの練習で、アンカーとして走っている。前を走る生徒たちを次々とごぼう抜きにし、圧倒的なスピードでトラックを支配するその姿は、やはり残酷なまでに美しかった。

 彼の筋肉の躍動、飛び散る汗、大地を叩く足音。

 そのすべてが、結城紬には決して手に入らない、眩しすぎる「生」の証明だ。

 昨日、黒崎から突きつけられた「横ばい」という残酷な現実。

 私の体は、いずれ確実に動かなくなる。

 でも、だからこそ。

 今、この瞬間に彼を見つめているこの時間は、奇跡のように尊い。


 紬は、膝の上のノートを開いた。

 昨日の夜、糸が作ってくれたかすみ草の刺繍のポーチが、鞄の中で静かに寄り添ってくれているのを感じながら。

 震えないように、しっかりとペンを握る。



『生き延びることと、生き切ることの違いを、私は昨日知った。私の時計の針は、やっぱりもうすぐ止まってしまうかもしれない。でも、あなたが風を切って走るその軌跡を見つめている間だけは、私も一緒に、未来へ向かって全力疾走しているような気がするのです。どうか、もう少しだけ。この眩しい光のそばにいることを、許してください。』



 陽向が、ゴールテープを切った。

 その瞬間、クラスメイトたちから割れんばかりの歓声が上がる。藤原樹が誰よりも早く駆け寄り、陽向の背中をバンバンと叩いて笑い合っている。

 その光景を見つめながら、紬は静かに、けれど心の底から、幸せな笑みを浮かべていた。

 初夏の風が、ノートのページを優しく揺らした。

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