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五話目

 学校から自宅までの道のりは、大人の足であれば十五分もかからない程度の、ありふれた住宅街の景色だった。

 しかし、結城紬の歩幅と心肺機能では、その倍の三十分近くを要する。急な坂道はないものの、緩やかな傾斜が続くアスファルトの道は、彼女の心臓にじわじわと静かな負荷をかけていく。

 普段であれば、この帰り道はただ「体力を消費するだけの単調な作業」に過ぎなかった。息が上がらないように、胸の奥で燻る火種が燃え上がらないように、ただひたすらに自分の呼吸と足元だけを意識して歩く時間。

 だが、今日の帰り道は違った。

 初夏を思わせる少し強めの風が、住宅街の生垣を揺らして吹き抜けていく。その風が頬を撫でるたび、紬の脳裏には、昼休みに四人で囲んだあの机の上の光景が鮮やかに蘇ってきた。

 藤原樹の底抜けに明るい笑い声。三島栞の冷静で的確なツッコミ。そして、瀬野陽向の、不器用だけれど照れくさそうな横顔。

 彼らが作り出す空気は、圧倒的な「生」のエネルギーに満ちていた。その輪の中に自分が混ざり、当たり前のように言葉を交わし、笑い合えたこと。それは、紬にとって世界がひっくり返るほどの、静かで強烈な革命だった。


(楽しかったな……)


 オレンジ色に染まり始めた空を見上げながら、紬は小さく息を吐き出した。

 吐き出した息は、いつもより少しだけ熱を帯びている気がした。

 四人で過ごした昼休み、そしてその後の午後の授業中も、紬の心臓は心地よい興奮状態にあった。それは精神的には至福の時間だったが、肉体的には確実に負担を強いていた。今こうして一人になって歩いていると、足取りがいつもより鉛のように重く、肺の奥に薄い膜が張ったような、特有の息苦しさが顔を出し始めているのがわかる。


 ――無理はしないこと。少しでも異常を感じたら、すぐに休むこと。


 主治医である黒崎の、氷のように冷たく淡々とした声が耳の奥で蘇る。

 紬は立ち止まり、道端の電柱にそっと手をついた。

 目を閉じ、大きく、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。吸って、吐いて。胸の奥の重苦しさが通り過ぎるのを、嵐が去るのを待つようにして静かに耐える。

 大丈夫。発作というほどではない。ただ、少しだけ「生きる」ことのスピードを上げすぎただけだ。普通の高校生と同じペースで走ろうとすれば、必ずこうして体が悲鳴を上げる。自分の限界のラインは、自分が一番よく知っている。

 五分ほど休むと、呼吸は元の静かなリズムを取り戻した。

 紬は再び歩き出す。

 家まで、あと少し。

 あたたかな夕飯の匂いと、過保護な家族が待つ、あの安全な箱庭へ。



 「……遅い」


 結城家のリビングで、ソファに体育座りをした結城(ゆうき)(いと)は、壁掛け時計の秒針を睨みつけながらギリッと奥歯を噛み締めた。

 現在、時刻は午後四時四十五分。

 普段の姉の帰宅時間より、すでに二十分以上が経過している。

 たかが二十分。健康な高校生であれば、友達と立ち話をしていたり、本屋に寄ったりしていればあっという間に過ぎる誤差のような時間だ。

 だが、結城家において、姉の「二十分の遅れ」は、常に最悪の事態を想定させるほどの重みを持っていた。


「糸、そんなに時計ばかり見てないで。お姉ちゃん、今日は少し歩くペースがゆっくりなだけよ。それに、栞ちゃんも一緒だろうから大丈夫」


 キッチンで夕食の準備をしていた母の咲良が、包丁の手を止めることなく言った。今日は姉の消化に良いようにと、白身魚の煮付けと、大根を極限まで柔らかく煮込んだスープを作ってくれている。

 その声は努めて明るく、穏やかだったが、長年一緒に暮らしている糸には、母の背中が微かに強張っているのが痛いほどによくわかった。母もまた、内心では不安で押し潰されそうになっているのだ。

 幼い頃から、姉の紬は入退院を繰り返してきた。

 学校から帰ってこないと思ったら、道端で倒れて救急車で運ばれていたこと。

 夜中に突然息ができなくなり、青ざめた両親が姉を抱き抱えて夜間救急へ駆け込んだこと。

 家に残された糸が、一人暗いリビングで、ただひたすらに姉が死なないことを祈りながら朝を迎えたこと。

 それらの記憶が、トラウマのように糸の細胞に染み付いている。


「……栞先輩が一緒だとは限らないじゃん。あのお姉ちゃんのことだから、一人で平気な顔して歩いてて、途中で苦しくなって動けなくなってるかもしれないし。それに、最近調子がいいって調子に乗ってるから、絶対無理してるに決まってる」


 糸は、わざとトゲのある口調で言い放ち、膝に抱えていたクッションに顔を埋めた。

 中学二年生の糸は、姉の紬と顔立ちは似ているものの、長めの髪をポニーテールにまとめ、目つきも少し吊り上がり気味で、姉の柔らかさとは対極にある活発な印象を与える少女だった。

 彼女は、姉のことが一番に大好きだった。

 誰よりも優しく、いつも微笑んでいて、どれほど自分が苦しくても周囲を気遣う、自慢の姉。

 しかし、同時に、彼女は姉の存在が恐ろしくもあった。

 姉は、あまりにも脆い。まるで、少し力を込めて触れただけで粉々に砕け散ってしまう薄氷の細工のようだ。

 両親の関心は、物心ついた時から常に「病弱な姉」に向いていた。それは仕方のないことだと頭では理解している。自分が健康であることに感謝しなければならないとも思っている。

 けれど、「健康な自分がしっかりしなければ」という過剰な責任感と、「お姉ちゃんばかりずるい」と一瞬でも思ってしまう自分への無意識の罪悪感が、糸の心を常にがんじがらめにしていた。

 だから、彼女は姉に対して、素直に優しく接することができない。

 心配であればあるほど、不安であればあるほど、その感情は「怒り」という形に変換されて口から飛び出してしまうのだ。


「……もう、迎えに行ってくる」


 糸が我慢の限界に達し、ソファから立ち上がろうとしたその時だった。


 ――ガチャリ。


 玄関の扉が開く音が、静かな家の中に響き渡った。

 糸の心臓が、大きく跳ねる。

 母の咲良も、ハッとしてキッチンの入り口から顔を出した。


「ただいま……」


 玄関から聞こえてきたのは、いつもと変わらない、少しだけかすれた、けれど穏やかな姉の声だった。


「お姉ちゃん!」


 糸はリビングを飛び出し、玄関へと向かった。

 そこには、ローファーをしっかりとそろえて脱ぎ、綺麗に妹の糸の靴を綺麗に並べている紬の姿があった。顔色は少し白いが、倒れそうになっているわけでも、呼吸が乱れているわけでもない。

 無事な姉の姿を見た瞬間、糸の胸を満たしていた巨大な不安は、一気に安堵へと変わり、そして、規定路線のように「怒り」へと反転した。


「遅いっ!!」


 糸の鋭い声が、玄関に響き渡った。

 紬はビクッと肩を揺らし、驚いたように目を丸くして妹を見た。


「い、糸ちゃん……ただいま。ごめんね、遅くなっちゃって」


「謝るくらいなら、もっと早く帰ってきてよ! 今、何時だと思ってるの!? 高校生だからって、寄り道していい体じゃないことくらい自分でわかってるでしょ!?」


 (せき)を切ったように言葉が溢れ出す。本当は「無事でよかった」「心配した」と抱きつきたいのに、口から出るのは姉を責める言葉ばかりだ。


「寄り道なんてしてないよ。ただ、今日は少しお天気が良くて風が気持ちよかったから、ゆっくり歩いてきたの。途中で一休みもしたし」


「一休みしたってことは、苦しかったんでしょ!? ほら、やっぱり無理してるんじゃない! お母さんだってずっと心配してキッチンでソワソワしてたんだからね!」


「こらこら、糸。お姉ちゃんが帰ってきた途端にそんなに怒らないの。紬、おかえりなさい。体調は大丈夫? 息苦しくない?」


 母の咲良が慌てて割って入り、紬の背中を優しく撫でた。


「お母さん、ただいま。ごめんなさい、心配かけちゃって。でも、本当に大丈夫だから。苦しくもないよ」


 紬は、糸と母に向けて、いつものような柔らかい、周囲を安心させるための完璧な笑顔を浮かべた。

 その笑顔を見ると、糸はなぜか余計に腹が立ってくるのだ。

 姉はいつもそうだ。自分が一番苦しいはずなのに、他人が心配する前に先回りして「大丈夫」と笑う。その笑顔の裏にどれほどの痛みを隠しているのか、家族である自分たちにはわかるからこそ、余計に苦しくなる。


「……ふん。大丈夫ならいいけど。早く着替えてきなよ。手、ちゃんと洗ってうがいしてよね」


 糸はプイッと顔を背け、足音を荒立ててリビングへと戻っていった。


「ごめんね、糸。ありがとう」


 背中にかけられた姉の優しい声が、糸の胸をチクリと刺した。


 自室に戻った紬は、鞄を机に置き、制服のリボンをゆっくりと解いた。

 部屋の中は、西日が差し込んでオレンジ色に染まっている。ベッドの横には酸素吸入器が置かれ、机の上には何種類もの薬が整然と並べられたピルケースがある。これらが、結城紬という人間の「日常」を支える命綱だった。

 カーディガンを脱ぎ、ブラウスのボタンを外していく。

 鏡に映る自分の体は、十六歳の少女としてはあまりにも細く、あばら骨が浮き出ていた。肌は透けるように白く、健康的な赤みというものが一切ない。

 先ほどの昼休み、藤原樹や瀬野陽向と机を並べていた時、彼らの日に焼けた健康的な肌と、自分のこの幽霊のような肌のコントラストに、少しだけ気後れしたことを思い出す。


(瀬野くん、私のこと、どう思ってるんだろう……)


 ブラウスを脱ぎながら、ふとそんな考えが頭をよぎり、紬は慌てて首を振った。

 何を期待しているのか。

 彼にとって、自分は「言葉をかけてくれたクラスメイト」であり、それ以上の何者でもない。あんなに眩しく、未来に向かって真っ直ぐに走っている彼と、いずれ確実に命の期限を迎える自分とでは、住んでいる世界が違いすぎる。

 人と深く関われば関わるほど、別れの時の痛みは大きくなる。

 それは、自分自身への痛みというよりも、残される側――家族や栞、そして彼らへの痛みを意味していた。

 だから、線を引かなければならない。

 これ以上、自分の存在を彼らの中に深く刻み込んではいけないのだ。

 頭ではそう強く理解しているのに、心は全く別の動きをしていた。

 明日もまた彼らと話したい。あの笑顔を見たい。あの不器用な優しさに触れたい。

 そんな相反する感情が、紬の胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、静かな熱を生み出していた。


 部屋着のゆったりとしたワンピースに着替え終わった時、コンコン、と控えめなノックの音がした。


「お姉ちゃん、入るよ」


 返事を待たずにドアが開き、糸が入ってきた。

 彼女の手には、小さなお盆に乗せられた温かい麦茶と、薬の入った小さな袋が握られている。


「ありがとう、糸ちゃん」


 紬が机の前の椅子に座ると、糸はお盆を机の上にコトリと置き、そのままベッドの縁に腰を下ろした。


「……ねえ」


 糸の視線が、紬の机の上に置かれた鞄に向けられていた。正確には、鞄の隙間から少しだけ顔を出している、紬のお気に入りのノートに。


「今日、なんかあったの?」


 探るような、鋭い声だった。

 紬は心臓がドキリとするのを悟られないように、麦茶のコップを両手で包み込んだ。


「え? ううん、何もないよ。普通に授業受けて、帰ってきただけ」


「嘘。お姉ちゃんの嘘なんて、私には一瞬でわかるんだから」


 糸はポニーテールを揺らし、じっと紬の顔を見据えた。

 その目は、獲物を狙う鷹のように鋭く、ごまかしを一切許さない強さがあった。


「帰ってきた時、少し息が上がってた。それはわかる。でも、顔色はそこまで悪くなかったし、何より……」


 糸は言葉を切り、紬の目を真っ直ぐに射抜いた。


「目が、キラキラしてた。いつもみたいに『周りを心配させないための作り笑い』じゃなくて、本当に内側から楽しいことがあったような、そういう顔してた」


 その指摘の正確さに、紬は言葉を失った。

 親友の栞でさえ、昼休みの自分の様子を「にやけてる」と表現したにとどまったのに、妹の糸は、帰宅した一瞬の表情から、紬の心の奥底の変化を完璧に見抜いていたのだ。

 幼い頃から、ずっと紬の顔色や呼吸のわずかな変化を監視し続けてきた彼女だからこそ持つ、恐ろしいほどの観察眼。


「……糸ちゃんには、敵わないな」


 紬は観念したように小さく笑い、麦茶を一口飲んだ。


「別に、嘘をつくつもりはなかったんだけど……。ただ、今日は少しだけ、嬉しいことがあったの」


「嬉しいこと?」


「うん。お昼休みね、いつも栞ちゃんと二人でお弁当食べてるでしょ? でも今日は、クラスの男の子たちが二人、一緒に食べようって席をくっつけてきたの。藤原くんと、瀬野くんって言うんだけど」


 紬がその二人の名前を出した瞬間、糸の眉がピクリと動いた。


「男の子? お姉ちゃんが、男の子と一緒にご飯食べたの?」


「うん。藤原くんがすごく明るくて面白い人で、瀬野くんは……ちょっとぶっきらぼうだけど、真っ直ぐで優しい人。四人で色んな話をして、なんだかすごく、普通の高校生みたいだなって思って。それが、すごく嬉しかったの」


 紬は、思い出すだけで自然と口角が上がってしまうのを抑えきれなかった。

 しかし、対する糸の表情は、みるみるうちに険しいものへと変わっていった。

 彼女はベッドから立ち上がり、紬の目の前まで歩み寄った。


「……その人たち、お姉ちゃんの病気のこと、知ってるの?」


 低く、冷たい声だった。


「えっと……詳しくはお話ししてないけど、体育を見学してるのは知ってるし、体が弱いことはなんとなくわかってると思う」


「『なんとなく』? そんなの、知ってるうちに入らないじゃない!」


 糸の声が、急に大きくなった。


「お姉ちゃん、自分がどういう状態かわかってるの!? ちょっと調子がいいからって、普通の高校生ごっこして、もし急に発作が起きたらどうするの!? その男の子たちは、お姉ちゃんが倒れた時、適切に処置できるの? 救急車を呼んで、黒崎先生に連絡できるの!?」


「糸ちゃん……」


「できないでしょ! それに……もし、もしその人たちが、お姉ちゃんのこと『普通の子』だと思って好きになったりしたら……」


 糸の言葉が、震え始めた。

 彼女の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。


「お姉ちゃんは、いつか絶対にいなくなっちゃうのに……! そんなの、お姉ちゃんも、その人たちも、絶対に辛くなるだけじゃない! なんでそんな、自分から傷つくようなことするの!」


 それは、糸の心の底からの叫びだった。

 姉を失うことの恐怖。

 姉がこれ以上世界に未練を残して、死ぬ時に苦しむのではないかという恐怖。

 そして、自分が姉にとっての一番の理解者であり、一番の保護者であるという自負が、得体の知れない「クラスの男子」という存在によって脅かされることへの恐怖。

 そのすべての感情が入り混じり、糸を泣かせていた。


 紬は、胸が張り裂けそうだった。

 自分が少しだけ「光」に手を伸ばしたことで、一番大切にしなければならない家族を、こんなにも深く傷つけてしまった。

 やはり、自分は彼らと関わるべきではなかったのだ。

 この閉ざされた箱庭の中で、静かに、誰にも波風を立てずに消えていくべきだったのだ。


「……ごめんね、糸ちゃん」


 紬は立ち上がり、震える妹の体を、両腕でそっと抱きしめた。

 糸の体は、紬よりも少しだけ筋肉がついていて、力強い命の温かさがあった。


「心配かけて、本当にごめんなさい。……でもね、私、彼らのことが好きになっちゃうとか、そういうんじゃないの。ただ、彼らが楽しそうに笑っているのを見ていると、私まで生きているって実感できる気がして……」


「嘘だ……!」


 糸は紬の腕の中で、首を横に振った。


「お姉ちゃん、さっきその『瀬野くん』って人の名前出した時、顔赤くなってたもん……! 私にはわかる。お姉ちゃん、その人のこと、特別な目で見てる」


 紬は息を飲んだ。

 自分でも気づかないうちに、そんな表情をしていたのだろうか。

 陽向の存在が、すでに自分の内側でそれほどまでに大きく、隠しきれないものに成長していたという事実に、紬自身が一番驚いていた。


「……いかないでよ」


 糸が、紬の背中に回した手にギュッと力を込めた。


「私の知らない世界に、いかないでよ。ずっと、ずっと一緒にいるって約束したじゃん。私が、お姉ちゃんのこと守るって決めたのに……」


 子供のように泣きじゃくる妹の背中を、紬はただ静かに撫で続けた。

 妹の過剰な愛情と束縛は、すべて紬の病気が原因だ。健康に産んであげられなかった自分の体が、妹の青春の時間を歪め、姉を守るという重い十字架を背負わせてしまっている。


「糸ちゃん……。ありがとう。私、どこにも行かないよ。ずっと、糸ちゃんのお姉ちゃんだよ」


 紬は優しく語りかけた。

 けれど、その言葉の裏側で、あまりにも残酷な真実が黒い影を落としていることを、二人ともが理解していた。

「どこにも行かない」という約束は、長くは守れない。

 いずれ確実に、紬はこの世界から消えていなくなる。その事実から目を背けるために、二人はこうして強く抱き合い、お互いの体温を確かめ合うしか方法がなかったのだ。


 しばらくして、糸の泣き声が収まり、彼女はゆっくりと紬から離れた。

 乱れたポニーテールを整え、手の甲で乱暴に涙を拭う。いつもの「勝気な妹」の顔に、無理やり戻ろうとしているのがわかった。


「……ごめん。私、ちょっと感情的になった。疲れてるのかも」


「ううん。私のほうこそ、不安にさせてごめんね」


 糸は少しだけバツが悪そうに視線を泳がせ、やがて、自分のエプロンのポケットから、小さな布の塊を取り出した。

 それは、パステルブルーの布地に、白い糸で可憐なかすみ草の刺繍が施された、手作りの小さなポーチだった。


「これ……」


 糸は、それを紬の机の上に乱暴に置いた。


「お姉ちゃん、いつも薬をプラスチックのケースに入れて持ち歩いてるでしょ。それ、可愛くないし、落としたら割れそうだから。……そのポーチ、サイズ合わせて作ってみた。別に、お姉ちゃんのためにわざわざ作ったわけじゃないからね。家庭科の課題の余りの布で、ついでに作っただけだから」


 見事なまでのツンデレの口上に、紬は思わず目頭が熱くなった。

 かすみ草の花言葉。それは「清らかな心」「無邪気」「親切」。そして、「感謝」。

 不器用な妹が、どれほどの時間をかけて、どれほどの祈りを込めてこの刺繍を刺してくれたのか。その針のひと突きひと突きに込められた愛情の深さを思うと、胸が苦しくなるほどだった。


「……ありがとう、糸ちゃん。すごく可愛い。大切に、宝物にするね」


 紬がポーチを両手で包み込むようにして胸に当てると、糸は耳まで真っ赤にして「勝手にすれば!」と叫び、逃げるように部屋を出ていった。

 バタン、とドアが閉まる音が、静かな部屋に響き渡る。

 残された紬は、ベッドに腰を下ろし、手の中のポーチを見つめた。

 柔らかな布の感触。丁寧な刺繍の糸の凹凸。

 家族の愛は、深く、重く、そして果てしなく温かい。

 私は、こんなにもたくさんの愛に囲まれて生きている。


 机の上の薬を、新しいポーチに一つ一つ移し替える。

 ピンク色の錠剤。白いカプセル。それらがポーチに収まると、まるでお守りのような不思議な力を宿したように見えた。

 窓の外は、すでに完全に日が落ちて、夜の闇が世界を包み込もうとしていた。

 紬は机に向かい、鞄からノートを取り出した。

 昼休みに書いたページの続きに、今日という日の締めくくりを書き留めるために。


 ペンを握る右手が、ほんの少しだけ震えていた。

 妹の涙。彼女の叫び。


『なんでそんな、自分から傷つくようなことするの!』


 その言葉が、耳の奥で反響している。

 わかっている。彼らと深く関われば、絶対に傷つくことになる。

 私が彼らと同じ未来を生きられないと確信した時。

 彼らが私の死に直面した時。

 その絶望は、関わりが深ければ深いほど、残酷に彼らを切り裂くだろう。


 それでも。

 それでも私は、あの眩しい光から、目を逸らすことができない。


 紬は、大きく深呼吸をしてから、ノートにペンを走らせた。



『妹の涙は、私の罪の証。私の存在そのものが、愛する人たちを傷つけているのだと、突きつけられる瞬間。私はガラスの箱に閉じこもって、ただ静かに終わりの日を待つべきなのかもしれない。けれど、あの光を知ってしまった今、私はもう、暗闇に戻ることはできない。神様、どうかお許しください。傷つくこと、傷つけることを恐れずに、あともう少しだけ、彼らと同じ景色を見たいと願う、この傲慢な私を。』



 ペンを置き、ノートを閉じる。

 窓の向こうの夜空には、春の霞の奥に、いくつかの星が微かに瞬いていた。

 結城紬の時間は、確実に削り取られていく。

 しかし、その限られた時間の中で、彼女の魂はこれまでにないほどの熱を帯び、強く、美しく燃え上がろうとしていた。

 明日もまた、朝が来る。

 彼らのいる、あの眩しい教室へと向かうために。

 紬は新しいポーチをそっと胸に抱きしめ、静かに目を閉じた。

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