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四話目

 図書室での出来事から数日が過ぎた。

 季節は、桜が完全に葉桜へと変わり、吹き抜ける風が心地よい初夏の温度を孕み始める頃合いを迎えていた。

 結城紬にとって、その数日間は、これまでの高校生活――いや、彼女の十六年間の人生において、最も劇的で、最も静かな変化をもたらした時間だった。

 教室の空気が、少しだけ違って感じられるのだ。

 相変わらず、彼女の席の斜め前方には瀬野陽向の背中がある。彼は授業中、よく頬杖をついて窓の外を眺めたり、時には堂々と居眠りをして教師にチョークを投げられたりしている。その後ろ姿自体は、入学当初から何一つ変わっていない。

 けれど、今の紬には、彼がただの「陸上部のエース」や「クラスメイト」ではなく、自分と同じように悩み、苦しみ、そしてそれを乗り越えて走ることを選んだ、一人の不器用で真っ直ぐな少年であることがわかっていた。

 時折、授業の合間やプリントが後ろに回ってくる瞬間など、ふとした拍子に彼と視線が交差することがある。

 そんな時、陽向は少しだけ気まずそうに、しかし確かに、紬に向けてわずかに口角を上げるのだ。それは、他の誰にも気づかれないほどの、本当に些細な表情の変化だった。

 そのたびに、紬の心臓はトクンと甘い音を立てて跳ねた。


 ――自分と彼との間にだけ共有されている、秘密の記憶。

 

 図書室のオレンジ色の光の中で、彼がこぼした感謝の言葉と、自分が流した涙。

 それは、紬の胸の奥底で、誰にも触れられない宝物のようにキラキラと輝き続けていた。


「……紬」


 不意に、隣の席から静かな声がかかった。

 ハッとして顔を向けると、三島栞が、銀縁の眼鏡の奥からジトッとした視線を送ってきていた。現在は四時間目の日本史の授業中だ。年配の教師が黒板に向かって延々と年号を書き連ねている隙を突き、栞は教科書を立てて口元を隠しながら囁いた。


「さっきから、瀬野くんの方ばかり見てるわよ。にやけてるし」


「えっ!?」


 紬は慌てて両手で自分の頬を覆った。顔がカッと熱くなるのがわかる。にやけていただなんて、自分では全く無自覚だった。


「に、にやけてないよ……。ただ、黒板を見てただけで……」


「黒板を見る角度じゃなかったわ。完全に瀬野くんの後頭部を観察する角度だったわよ」


 栞の容赦ない論理的な指摘に、紬は返す言葉を失い、うつむいて教科書の端を小さく折り曲げた。


「……ごめんなさい」


「謝ることじゃないけど。でも、あまり隙だらけだと、変な虫が寄ってくるわよ。紬はただでさえ無防備なんだから」


 栞はそう言って小さくため息をつき、再び黒板へと視線を戻した。彼女の横顔には、親友をからかうような色合いと、同時に、どうしようもない過保護さが滲み出ている。

 図書室でのあの一件以来、栞は陽向と紬の間に流れる空気の変化を、誰よりも鋭く察知していた。しかし、彼女は何も聞いてこない。紬が自分から話すまでは踏み込まないという、彼女なりの優しさであり、矜持なのだろう。

 紬はそんな栞の優しさに甘えるように、小さく「ありがとう」と心の中で呟き、ノートに日本史の板書を写し始めた。


 やがて、午前中の授業の終わりを告げる、待ちに待ったチャイムが校舎に鳴り響いた。

 その瞬間、教室の空気は一気に沸点へと達した。

 教師が「号令」と言うか言わないかのうちに、生徒たちは椅子をガタガタと鳴らして立ち上がり、購買部へダッシュする者、弁当箱を取り出す者、他のクラスの友人の元へ駆け出す者と、教室はあっという間に無秩序な熱狂の渦に包まれた。

 四時間目終わりの昼休み。それは、高校生にとって一日の中で最も自由で、最も活気に満ちた時間だ。


「さ、お弁当にしましょ。今日の紬の体調はどう? 食欲はある?」


 栞が手際よく自分の机を紬の机にピタリとくっつけながら尋ねる。


「うん、バッチリだよ。今日はお母さんが、私の好きな鶏のそぼろ煮を入れてくれたから、すごくお腹空いてるの」


 紬がカーディガンの袖を少しまくり上げ、パステルカラーの可愛らしい弁当箱を机の上に置いた、その時だった。


「おっす! 結城さん、三島さん、今からお昼? 奇遇だな、俺たちもなんだわ!」


 不意に、太陽のように明るく、少しばかり無遠慮な声が頭上から降ってきた。

 見上げると、そこには明るく染めた茶髪に少しパーマをかけた、クラスのムードメーカー、藤原樹が満面の笑みで立っていた。彼の手には、購買部で争奪戦を勝ち抜いて手に入れたらしい、焼きそばパンとメロンパン、そして紙パックのいちごミルクが握られている。

 そして、その樹の背後には、首根っこを掴まれるようにして無理やり連行されてきた瀬野陽向の姿があった。


「おい、樹。ふざけんな、お前が勝手にこっちに来ただけだろ……」


 陽向はひどく居心地が悪そうに顔をしかめ、樹の腕を振り払おうとしているが、樹は全く意に介さず、陽向の背中をバンバンと叩いた。


「いいじゃんかよ! いつも男ばっかでむさ苦しい弁当食ってんだから、たまには華のある女子と一緒に食いたいお年頃なんだよ、俺は。な? 結城さんたち、ここ、俺たちも混ぜてくんない?」


 樹のその提案に、真っ先に反応したのは栞だった。

 彼女は銀縁眼鏡のブリッジを中指でスッと押し上げ、絶対零度とも言える冷たい視線を樹に向けた。


「お断りします。私たちは二人で静かに食事を楽しみたいの。藤原くんたちのように騒がしい人種が混ざると、消化に悪いわ。それに、紬はほこりが舞うと咳き込むかもしれないから、あまりバタバタしないでちょうだい」


 有無を言わさぬ、見事なまでの拒絶。

 普通の男子であれば、この栞の氷のような態度に恐れをなして引き下がるだろう。しかし、樹は「普通」の枠には収まらない、類まれなるコミュニケーション能力の持ち主だった。

 三兄弟の末っ子として兄たちに揉まれて育った彼は、人の心の機微に敏く、どんなに冷たい態度を取られても、それが本気の悪意かどうかの境界線を正確に見極める天才なのだ。


「うわっ、三島さん相変わらず辛辣! 言葉のナイフが鋭利すぎるって! でも大丈夫、俺、食事中は意外と静かだから。喋りながら食べるとむせちゃうし。それに、ほこりも立てないように、抜き足差し足で椅子運ぶからさ。ね? ほら、陽向もそう言ってるし!」


「俺は一言も言ってねえよ!」


 陽向が吠えるが、樹は素早い動作で近くの空き席から机と椅子を二つ引きずってきて、あっという間に紬と栞の机の向かい側にセッティングしてしまった。しかも栞の警告をしっかり守り、床に音を立てないように絶妙なバランスで持ち上げるように。


「ほーら、陽向も座れ座れ。結城さんも、いいでしょ? 俺たち、絶対お行儀よくするから!」


 樹の人懐っこい、子犬のようなキラキラとした瞳で見つめられ、紬は思わず吹き出してしまった。


「ふふっ。うん、私は構わないよ。一緒に食べよう?」


 紬が笑顔で承諾すると、栞は「はあ……」と深く長いため息をつき、「紬がそう言うなら、仕方ないわね。でも、少しでも紬の体調に障るような騒ぎ方をしたら、即刻退場してもらうから」と釘を刺した。

 こうして、結城紬、三島栞、藤原樹、そして瀬野陽向という、クラス内でも接点があまり少ないと思われていた異色の四人が、一つの机を囲むという奇妙な陣形が完成したのである。


 座り位置は、紬の向かいに陽向、栞の向かいに樹。

 陽向はドカッと椅子に腰を下ろすと、まだ少しバツが悪そうに頬をポリポリと掻きながら、小さく「……わりぃな、こいつが無理やり」と紬に向かって呟いた。


「ううん、全然。私、大勢でお弁当食べるの、初めてだから……ちょっと嬉しいかも」


 紬が正直な気持ちを伝えると、陽向はピタッと動きを止め、それから顔を逸らして「……そっか」とだけ短く返した。彼の耳の裏が、微かに赤く染まっているのを紬は見逃さなかった。

 そんな二人の初々しいやり取りを、樹はニヤニヤしながら見つめ、栞はジト目で監視している。

 それぞれの弁当を広げ、四人の昼食が始まった。


 机の上に並んだ食事は、見事なまでに四人の個性を表していた。

 樹の陣地には、無造作に封を開けられた焼きそばパンとメロンパン、そしてなぜかいちごミルクという、カロリーと糖分の暴力のような炭水化物セット。

 栞の前には、曲げわっぱの美しい弁当箱に、彩り豊かな野菜の肉巻きや卵焼き、綺麗に形作られたおにぎりが整然と、まるで一つの芸術作品のように並べられている。

 陽向の弁当箱は、とにかく巨大だった。黒いプラスチック製のタッパーのような容器が二段重ねになっており、上段には山盛りの白米、下段には鶏の胸肉のソテー、ゆで卵、ブロッコリーなど、筋肉を育てるためだけに構成されたストイックなアスリート飯がぎっしりと詰まっていた。

 そして紬の前には、母の咲良が丹精込めて作った、小さな小さなパステルカラーの弁当箱。消化の良い柔らかめに炊かれたご飯に、そぼろ煮、茹でたほうれん草の胡麻和え、そして飾り切りされたリンゴ。量は少ないが、愛情と栄養計算が隅々まで行き届いた、優しさの塊のような弁当だった。


「うわ、三島さんの弁当すげえ綺麗! それ自分で作ってんの?」


 樹が焼きそばパンを頬張りながら、目を丸くして尋ねた。


「ええ。両親が共働きだから、自分の分は自分で作っているわ。藤原くんのその購買のパンも手軽でいいと思うけれど、栄養バランスという観点から見れば、十段階評価でマイナス2くらいね」


「マイナス!? ゼロ振り切ってんじゃん! でもいいの、俺は今、この炭水化物を脳にぶち込まないと午後の数学を乗り切れない体になってるんだから」


「ただの言い訳ね。だからいつも数学の小テストで赤点スレスレなのよ」


「うぐっ……痛いところを。三島さん、容赦なさすぎ……」


 大げさに胸を押さえてうなだれる樹と、それを冷ややかに見下ろす栞。まるで長年連れ添った夫婦漫才のようなテンポの良い掛け合いに、紬はたまらずクスクスと声を上げて笑った。

 そんな紬の様子を、向かいに座る陽向が静かに見つめていた。


「結城」


「ん? なに、瀬野くん」


 陽向は箸でブロッコリーを突きながら、紬の小さな弁当箱を顎でしゃくった。


「お前、そんな量で足りんのかよ。俺の弁当の、三分の一もねえじゃん」


 その率直すぎる問いかけに、紬は一瞬だけ言葉に詰まった。

 普通の女子高生なら「ダイエット中だから」とでも誤魔化すところだろうが、陽向に対して嘘をつくのは、なんだかとても申し訳ない気がした。

 それに、病気のことを隠し通すつもりはなかったが、あえて声高に同情を引くようなこともしたくない。紬は、少しだけ考えてから、柔らかく微笑んで答えた。


「ううん、私にはこれで十分なの。あまりたくさん食べると、午後から体が重たくなっちゃうから。お母さんが、私が一番美味しく食べきれる量にしてくれてるんだ」


 それは嘘ではない。胃腸に負担をかけると、それが直接心肺機能への負担に直結してしまうからだ。

 陽向は紬の顔をじっと見つめ、何かを察したのか、それ以上は踏み込んでこなかった。


「……そっか。まあ、無理して食うもんでもねえしな。残さず食えるならそれが一番だ」


 そう言って、陽向は自分の山盛りの白米を大きな口を開けてかき込み始めた。

 その食べっぷりの良さ、生命力に満ちた咀嚼の動きを見ているだけで、紬はなんだか自分までエネルギーを分けてもらったような心地になり、自然と箸が進んだ。

 母の作った鶏のそぼろ煮は、いつも通り優しくて、ほんのりと甘い味がした。


「そういやさ」


 いちごミルクにストローを刺しながら、樹が思い出したように口を開いた。


「結城さんって、趣味とかあんの? 三島さんが読書狂なのは知ってるけど。いつも図書室にいるし」


「読書狂って言い方はやめてちょうだい。知識の探求者と言って」


 栞のすかさず入る訂正を無視して、樹は紬に興味津々の視線を向ける。


「私の趣味……?」


 紬は手元に置いた鞄を一瞥した。その中には、いつも持ち歩いているカバーをかけた小さなノートが入っている。

 自分の感情や風景、美しいと思った言葉を書き留めること。それが趣味だと言って、この明るいクラスメイトは理解してくれるだろうか。少しだけ恥ずかしさが先立った。


「えっと……私も本を読むのは好きだよ。あとは、日記みたいなものを書いたり……とかかな」


「へえ、日記! なんか結城さんっぽいな。字とかめっちゃ綺麗そう。お淑やかオーラ出てるもんね」


「お淑やかだなんて、そんなことないよ」


「いやいや、出てるって。うちのクラスの女子、結城さん以外みんなゴリラみたいに元気だもん。なあ、陽向?」


「お前、それクラスの女子に聞かれたら命ねえぞ」


 陽向が呆れたようにツッコミを入れる。


「藤原くんの趣味は? ギターを弾くって、前になんかの自己紹介で言ってた気がするけど」


 紬が話題を変えるように尋ねると、樹の顔がパッと輝いた。


「おお! 覚えててくれた!? そうそう、俺、アコギ弾くのが趣味でさ。休日は駅前で路上ライブみたいなこともやってるんだよね。全然人集まんないけど!」


「路上ライブ? すごい、本格的だね」


「いやいや、まだまだ趣味の延長って感じ。でもさ、音楽ってすげえよ。言葉にしなくても、音だけで空気が作れるっていうか。みんなの表情がパッと明るくなる瞬間を見るのがたまんねえんだわ」


 その瞬間、樹の顔からいつものおちゃらけた雰囲気が消え、一人の「表現者」としての真剣な熱が垣間見えた。彼がなぜ、これほどまでに人の空気を読み、場を和ませる天才なのか。それは、彼が常に他者の心と「音」を通じて向き合おうとしているからなのだと、紬は一人で納得した。


「今度、結城さんたちも聴きに来てよ! 特等席用意するからさ」


「本当? ぜひ行ってみたい!」


 紬が目を輝かせると、隣で栞が冷や水を浴びせるように言った。


「私は遠慮しておくわ。駅前は人が多くて騒々しいし、何より藤原くんの音楽性が私に合致するとは思えないもの」


「うわっ、出た! 三島さんの絶対零度! まだ一音も聴いてないのに全否定! 冷たい、冷たすぎる! 陽向、俺の心が凍傷になりそうなんだけど!」


「自業自得だろ。うっせえから少し静かに食え」


 泣き真似をする樹を、陽向が卵焼きで口を塞ぐようにあしらう。

 そのやり取りがたまらなく可笑しくて、紬はまた声を上げて笑った。

 涙が出るほど可笑しいわけではないのに、笑いが止まらなかった。

 まるで、胸の奥底に溜まっていた暗くて重い泥水が、彼らの底抜けの明るさと、遠慮のない言葉の応酬によって、綺麗な真水へと洗い流されていくような感覚だった。

 これが、「普通の高校生」の昼休み。

 これが、私がずっと憧れていた「日常」。

 幼い頃から、病室のベッドの上で、窓の外から聞こえてくる学生たちの笑い声を遠く聞きながら、自分が決して手に入れることはできないと諦めていた世界。

 それが今、すぐ目の前にある。

 手を伸ばせば届く距離に、笑い合える友人たちがいる。

 向かいには、見つめるだけで胸が熱くなる、眩しい「光」がいる。


(……ああ、神様)


 紬は、心の中でそっと祈った。

 この時間が、永遠に続けばいいのに。

 私の時計の針が、このままここで、永遠に止まってしまえばいいのに。


「……結城?」


 不意に、陽向が箸を止め、少し心配そうな目で紬を覗き込んだ。


「どうした? なんか、急に黙り込んで。気分悪いか?」


 彼のその鋭い観察眼と、不器用な優しさに、紬はハッと我に返った。

 いけない。ここで感傷に浸って、暗い顔を見せてはいけない。彼らに気を遣わせてしまったら、この奇跡のような空間が壊れてしまう。

 紬は、とびきりの笑顔を作って、首を横に振った。


「ううん、何でもないよ。ただ……すごく楽しいなって、思ってただけ」


「……そっか。なら、いいけど」


 陽向は少しだけ照れたように視線をそらし、再び弁当に向かった。その横顔を見つめながら、紬は小さく息を吸い込む。

 その時、胸の奥で、チクリと小さな痛みが走った。

 鉛のような重さが、ほんの一瞬だけ肺を圧迫する。

 それは、彼女の体内に巣食う病魔が、「お前は彼らとは違うのだ」と、残酷な現実を突きつけてくるサインだった。

 紬は顔色を変えず、誰にも気づかれないように、机の下でギュッと自分のカーディガンの裾を握りしめた。

 痛みを、押し殺す。

 呼吸を、静かに整える。

 ――大丈夫。まだ、大丈夫。私には、まだ彼らと笑い合うための時間が残されている。

 隣では、栞が樹のいちごミルクの飲み方について論理的なダメ出しをしており、樹が「うるせー! これが一番美味いんだよ!」と反論している。陽向は「お前らいい加減にしろ」と呆れながらも、口元には微かな笑みが浮かんでいる。

 誰も、栞でさえも、紬の体に起きた一瞬の異常には気づいていない。


「ごちそうさまでした」


 紬は、最後に残った飾り切りのリンゴを口に運び、両手を合わせた。

 小さな弁当箱は、綺麗に空っぽになっていた。


「おお、完食! 結城さん、えらい!」


 樹がまるで子供を褒めるように拍手をする。


「うん、すごく美味しかった」


 昼休みの終わりを告げる予鈴が、校舎に鳴り響いた。

 魔法の時間が終わる合図。

 生徒たちが慌ただしく弁当箱を片付け、午後の授業の準備を始める。


「じゃあ、俺ら席戻るわ。三島さん、結城さん、また明日な!」


 樹が立ち上がり、自分の椅子を持って元の席へと戻っていく。


「……じゃあな」


 陽向も立ち上がり、少しだけ名残惜しそうに紬を見た後、短く告げて背を向けた。

 嵐が去った後のような、少しだけ静かになった空間。

 栞が、空になった紬の弁当箱を見て、ふっと表情を和らげた。


「全部食べられたわね。偉かったわ」


「うん。……ねえ、栞ちゃん」


「なに?」


「私、今、すごく幸せだよ」


 紬の突然の言葉に、栞は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの冷静な、けれどどこまでも優しい親友の顔に戻った。


「そう。……それは、瀬野くんたちが一緒に食べてくれたから?」


「それもあるけど……栞ちゃんも一緒にいてくれたからだよ。四人で笑い合えたのが、すごく嬉しかったの」


 栞は小さく息を吐き出し、眼鏡の位置を直した。


「本当に、騒がしい人たち。……でも、悪くはなかったわね」


 その不器用な肯定が、栞なりの最大の賛辞であることを紬は知っていた。


 午後の授業が始まるまでの数分間。

 紬は鞄からノートを取り出し、新しいページを開いた。

 シャーペンの芯が、真っ白な紙の上を滑っていく。

 胸の奥にまだ微かに残る痛みを無視して、今この瞬間に感じた光の暖かさを、永遠に定着させるために。



『新しい居場所ができた。少し騒がしくて、遠慮がなくて、でも、とびきり暖かい場所。論理と優しさを持つ親友。音と空気で心を和ませる天才。そして、前だけを見て走る、眩しい光。私はこの四角い机の上で、確かに「生きている」ことを実感した。いつか来る終わりがどんなに恐ろしくても、今日という日のこの笑い声が、きっと私を強くしてくれる。』



 ペンを置き、窓の外を見上げる。

 初夏に向かう春の空は、どこまでも高く、澄み切った青色をしていた。

 結城紬にとって、高校二年の春は、これまで生きてきたどの季節よりも濃密で、残酷なほどに美しい輝きを放ちながら、加速していく。

 かけがえのない、この眩しい日常を駆け抜けるために。

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