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十三話目

 九月の終わり。

 校舎を包み込む空気は、昨日までの焦燥と混沌が嘘のように、一種の神聖な熱を帯びていた。

 文化祭、前日。

『前夜祭』という言葉が持つ魔法のような響きに、生徒たちは誰もが浮き足立ち、普段の学校生活では決して見せないような無防備な笑顔を浮かべて廊下を走り回っていた。

 二年C組の教室もまた、準備の最終段階を迎え、圧倒的な達成感と疲労感が入り混じった心地よい熱気に満たされていた。

 黒板にはチョークで色鮮やかな『星空カフェ』の看板アートが描かれ、机には紺色のテーブルクロスが被せられている。窓という窓は分厚い暗幕で完全に塞がれ、昼間でありながら教室の中は夜の静寂を保っていた。

 プロジェクターから放たれた光が、天井から吊るされた数百個の金色の星々に反射し、教室全体に銀河の海を作り出している。


「……よし、これで完璧だろ。おい樹、入り口の立て看板、ちゃんと固定したか?」


 脚立の上から最終確認を終えた瀬野陽向が、床に飛び降りながら声をかけた。


「ばっちりだって! 俺の計算し尽くされたガムテープワークにより、震度五の地震が来ても倒れねえよ!」


 藤原樹が、手に持ったガムテープをマイクに見立てて得意げにポーズを決める。その横で、三島栞が冷ややかな視線を落とした。


「あなたの計算ほど当てにならないものはないわ。念のため、私が後で補強しておくから、あなたはもう何にも触らないでちょうだい。せっかくの星空が台無しになるわ」


「うわっ、三島さん容赦ねえ! 俺もこの銀河の創造主の一人なのに!」


 いつもの漫才のようなやり取りが、星降る暗闇の中で響き渡る。

 結城紬は、教室の最後列、プロジェクターの光の軌道を邪魔しない、一番端の席に座り、その光景をただ静かに見つめていた。

 彼女の特等席。

 栞が「装飾係の最終調整席」という名目で、クラスメイトたちに文句を言わせないよう完璧に根回しして確保してくれた、紬のための安全地帯だった。


「……結城」


 不意に、暗闇の中から陽向が歩み寄ってきた。

 彼は、紬の隣の空いている椅子を引いて腰を下ろすと、ペットボトルの水を一口飲み、大きく息を吐き出した。


「体調、どうだ。息、苦しくないか?」


 陽向の声は、周囲の喧騒に紛れるほど小さく、しかし紬の耳には誰の声よりもはっきりと届いた。

 あのプラネタリウムの試写テストの日、暗闇の中で彼が『当日は、俺がずっと、お前のそばにいる』と誓ってくれてから。

 陽向の紬に対する態度は、明確に変わっていた。

 過剰に腫れ物扱いするわけではない。しかし、彼の意識の常に数パーセントは、必ず紬に向けられているのがわかった。紬が少しでも息を乱せば、誰よりも早く気づき、さりげなく窓を開けて換気をしたり、樹の騒ぎ声を遠ざけたりしてくれた。


「うん。大丈夫だよ。今日は座ってるだけだし、栞ちゃんもずっと気にしてくれてるから」


 紬が微笑んで答えると、陽向は「そっか」と短く頷き、天井の星空を見上げた。


「……すげえよな、これ。お前と、三島と、俺たちで作ったんだぜ」


「うん。……本当に、綺麗」


「明日から、ここが本番で客でいっぱいになるんだ。……なんか、不思議な気分だな」


 陽向の横顔が、プロジェクターの淡い光に照らし出されている。

 その真っ直ぐな鼻筋と、力強い瞳。

 紬は、胸の奥でチクリと痛む心臓の鼓動を感じながら、膝の上で両手を強く握りしめた。

 明日。

 文化祭、本番。

 それは、紬がこの高校生活で最も待ち望み、そして同時に、最も恐れていた日だった。

 私の体は、明日の一日を、果たして無事に乗り切ることができるのだろうか。

 途中で倒れて、この幻想的な空間を、彼らの笑顔を、ぶち壊してしまうのではないか。

 そんな不安が、夜の闇のように紬の心を侵食しようとするたびに、彼女は隣に座る陽向の熱を、そして栞の冷たくも優しい視線を思い出し、必死にそれを振り払っていた。


「……瀬野くん」


 紬は、小さく声をかけた。


「ん?」


「あのね。明日……もし私が、途中でしんどくなっちゃっても――」


「帰らせねえよ」


 言い淀む紬の言葉を、陽向が遮った。

 その言葉は、あまりにも強引で、しかし、今の紬が最も欲していた言葉だった。


「お前がしんどくなったら、俺がここから連れ出して、誰もいない静かな場所で休ませる。お前が息を整えるまで、ずっと隣にいる。……だから、絶対に『帰る』なんて言うなよ。明日は、俺たち四人で、最後までこの祭りを楽しむんだ」


 陽向の目は、暗闇の中で、獲物を絶対に逃さない獣のようにギラギラと光っていた。

 彼は、紬が自ら身を引こうとするその弱さを、力ずくで繋ぎ止めてくれようとしている。


「……うん」


 紬は、込み上げてくる涙を必死に堪え、深く頷いた。


 ――生き切る。


 彼がこれほどまでに私を求めてくれるのなら、私は、この命の炎が燃え尽きるその瞬間まで、彼らのそばで笑っていたい。


 翌朝。

 文化祭当日の朝の光は、秋晴れの空から突き刺さるように眩しかった。

 自室のベッドで目を覚ました紬は、まず自分の体の状態を静かに確かめた。

 指先が、冷たい。

 肺の奥には、いつも通りの鉛のような重さが張り付いており、深呼吸をすると微かな痛みが走る。

 決して、万全とは言えない。いや、むしろ、ここ数週間の中では最悪に近いかもしれない。

 昨日までの準備の疲労が、限界を超えた肉体に重くのしかかっているのだ。

 それでも、紬はゆっくりとベッドから起き上がり、洗面所へと向かった。


 鏡に映る自分の顔は、血の気が引き、まるで幽霊のように青ざめていた。

 これでは、すぐに母や糸に止められてしまう。

 紬は、引き出しの奥から、母が使っている淡いピンク色のチークと、ほんのりと色づくリップクリームを取り出した。

 病気になってから、お化粧などほとんどしたことがなかった。

 震える手で、青ざめた頬に色を乗せ、唇に血色を足していく。

 鏡の中の少女が、少しずつ、命の熱を取り戻していくような気がした。


「……お姉ちゃん」


 洗面所のドアが開き、糸がパジャマ姿のまま立っていた。

 彼女の目は、紬の顔、不自然に足された血色と、その下に隠しきれない疲労の色を、瞬時に見抜いていた。


「糸ちゃん、おはよう」


 紬が努めて明るい声で振り返ると、糸は強く唇を噛み締め、ツカツカと歩み寄ってきた。

 そして、紬の手からヘアブラシを奪い取ると、紬の後ろに回り、乱れた茶色いボブヘアを、痛くないように優しくとかし始めた。


「……下手くそ」


 糸の声は、微かに震えていた。


「お化粧なんてしたことないくせに。……チーク、濃すぎる。私がぼかしてあげるから、ちょっと顔貸して」


 糸は、指先で紬の頬のチークを自然なグラデーションになるように馴染ませ、それから、髪を綺麗に整えて、サイドの髪を可愛いピンで留めてくれた。


「……どうして、そこまでして行きたいの」


 鏡越しに、糸が悲しそうな目で紬を見た。


「こんなに無理して、倒れたらどうするの。……お母さん、昨日の夜、リビングでずっと泣いてたんだよ。お姉ちゃんが無理してるの、わかってるのに、お姉ちゃんの『行きたい』って気持ちを奪うのが怖くて、止められないって」


「……お母さんが」


 紬の胸が、ズキリと痛んだ。

 私のわがままが、一番大好きな家族を苦しめている。

 その罪悪感は、病魔よりも深く、彼女の心をえぐった。


「……ごめんね、糸ちゃん」


 紬は、鏡の中の妹を見つめ返した。


「やっぱり私、わがままだよね。……でもね。私、どうしても今日だけは、学校に行きたいの」


「……あいつの、ため?」


 糸の問いに、紬はゆっくりと首を横に振った。


「自分のためだよ。……私が、私として、最後までこの世界に生きていたっていう証を、今日という日に残したいの。……大げさかもしれないけど、私にとっては、今日が私の人生のすべてみたいな気がするから――」


 紬のその言葉に、糸はもう、何も言えなかった。

 姉の瞳に宿る、圧倒的な光。

 それは、死を前にした人間の諦めなどではなく、命を燃やし尽くそうとする者の、恐ろしいほどの美しさだった。


「……馬鹿」


 糸は、ポロリと一粒の涙をこぼし、紬の背中に顔を押し当てた。


「絶対、帰ってきてよ。……途中で倒れたりしたら、私、お姉ちゃんのこと一生許さないから」


「うん。……約束する。ありがとう、糸ちゃん」


 紬は、背中にしがみつく妹の細い腕を、そっと撫でた。

 家族の涙と祈りを背負って。

 結城紬は、制服に袖を通し、学校へと向かった。


 文化祭の幕開けは、爆発的なエネルギーとともに訪れた。

 正門に飾られた巨大なアーチ。校庭に並ぶ無数の模擬店のテント。そして、各クラスが趣向を凝らした出し物の数々。

 校舎中が、普段の学校生活からは想像もつかないほどの喧騒と熱狂に包まれていた。

 二年C組の『星空カフェ』も、開店と同時に大盛況となった。

 暗幕で覆われた幻想的な空間は、「休憩しつつエモい写真が撮れる」と女子生徒を中心に口コミで広がり、教室の外にはあっという間に行列ができた。

 接客係の生徒たちが、ペンライトを片手に暗闇の中を忙しく動き回り、注文を取ったり、ドリンクを運んだりしている。


 紬は、教室の最後列の特等席で、その光景を静かに見守っていた。

 彼女の仕事は、プロジェクターの光の調整と、BGMの音量管理。座ったままできる、最も負担の少ない作業だ。

 そして、その紬の椅子のすぐ斜め前。

 教室の入り口の光がギリギリ届かない暗闇の境界線に、腕を組み、壁に寄りかかるようにして立っている影があった。

 瀬野陽向だ。

 彼は、接客係でも案内係でもない。

 ただ、そこにいる。

 クラスの男子からは「おい瀬野、お前も手伝えよ!」と冗談交じりに声が飛んだが、陽向は「俺は裏方なんだよ」と適当に返し、決して紬のそばから離れようとはしなかった。


「……瀬野くん。ずっと立ってて、退屈じゃない?」


 客の波が少し落ち着いた隙に、紬が小声で話しかけた。


「退屈なわけねえだろ。俺、人間観察すんの案外好きなんだよ」


 陽向は、暗闇の中で紬を見下ろし、フッと笑った。


「それに、俺の役目は、お前に変な客が近づかないように見張る用心棒だからな。……おい、あそこの星、また一つ落ちかかってんぞ。ヒトデのやつ」


「もう、またヒトデって言う」


 紬が小さく笑うと、陽向はスッと手を伸ばし、暗闇の中で紬の頭をポンと軽く撫でた。


「……顔色、朝よりマシだな。ちゃんとメシ食えよ」


 その不器用で、けれどストレートな愛情表現に、紬の心臓が甘く跳ねる。

 暗闇が、彼らの距離をより一層近づけ、周囲の喧騒から二人だけを切り離してくれているようだった。


「お待たせしましたー! 星空カフェ特製、ギャラクシードリンクと、裏の屋台で俺が土下座して買ってきた焼きそばセットでーす!」


 不意に、能天気な声とともに、藤原樹がお盆を持って暗闇の奥へとやってきた。

 その後ろからは、いつものように冷静な顔をした栞が、おしぼりと紙コップを持って続いている。


「藤原くん、声が大きいわ。ここは静寂を楽しむコンセプトのカフェなのよ。……紬、お昼にしましょう」


「あ、栞ちゃん、藤原くん! ありがとう」


 樹が、紬と陽向の前に置かれた小さな丸テーブルにお盆を置いた。

 青と紫のグラデーションが美しい冷たいドリンクと、ソースの匂いがたまらない焼きそば。そして、どこから調達してきたのか、甘い香りのするクレープまである。


「俺、外の模擬店偵察してきついでに、美味そうなもん全部買ってきたぜ! 今日は俺の奢りだ、遠慮すんな!」


 樹が胸を張ると、栞がすかさず冷や水を浴びせる。


「部費から横領したお金じゃないでしょうね? それに、紬には焼きそばのような油分が多く消化に悪いものは負担になるわ。紬、あなたはこちらの私が買ってきたお粥と、温かい紅茶になさい」


「ええっ!? せっかくの文化祭なのにお粥!? 三島さん、それマジで病人食じゃん!」


「藤原くん」


 栞の眼鏡が、プロジェクターの光を反射してキラリと光った。

 その瞬間、樹は何かを悟ったように「ヒッ」と息を呑み、「……あ、いや、うん。そうだな、胃に優しいのが一番だ!」と急に態度を翻した。

 樹は、どこまで気づいているのだろうか。

 彼特有の空気を読む天才的な嗅覚で、紬の体がもう普通の高校生とは違うということを、うすうす感じ取っているのかもしれない。それでも、彼は決してそれを表に出さず、底抜けの明るさで紬を「日常」へと繋ぎ止めてくれようとしているのだ。


「いただきます」


 普段と変わらない四人で小さなテーブルを囲み、星空の下でのささやかな昼食が始まった。

 外からは、吹奏楽部の演奏や、軽音部の激しいバンドの音がかすかに聞こえてくる。

 教室の中は涼しく、プロジェクターが映し出す星々がゆっくりと回転している。

 陽向が不器用に焼きそばをすすり、樹がクレープのクリームを口の周りにつけながら喋り、栞がそれをティッシュで拭き取らせる。

 その光景を見つめながら、紬は温かい紅茶を一口飲んだ。


 ――美味しい。


 胸の奥に、じんわりと温かい液体が染み込んでいく。

 ずっと、この時間が続けばいいのに。

 私の時計の針が、この星空カフェの暗闇の中で、永遠に止まってしまえばいいのに。


「……結城」


 不意に、隣に座っていた陽向が、声を潜めて囁いた。


「ん?」


「この後、俺たちのシフト、一時間だけ休憩あるだろ」


「あ……うん」


「少しだけ、外、出ねえか。……人混みがない、静かなところ、見つけてあるから」


 陽向の誘いに、紬はハッと息を飲んだ。

 彼は、私の体調を気遣って「一緒に回る」という約束を一度は白紙にしたはずだ。

 それでも、彼は諦めていなかった。

 人がいなくて、私が疲れない場所を探して、二人きりの時間を作ろうとしてくれている。


 紬の視線が、自然と向かいに座る栞へと向かった。

 栞は、お粥の容器を片付けながら、紬の視線に気づき、小さく、本当に小さく、コクリと頷いた。

 行っておいで。

 親友のその無言の許可に、紬の胸が熱くなった。


「……うん。行きたい」


 紬が答えると、陽向の顔に、今日一番の、ぱっと花が咲いたような笑顔が広がった。


 

 教室を抜け出し、陽向に案内された場所は、校舎の最上階、旧館へと続く渡り廊下の踊り場だった。

 メインの出し物が新館とグラウンドに集中しているため、このあたりは嘘のように静まり返っている。

 踊り場には古びた木製のベンチが一つ置かれており、そこからは、文化祭の熱気に包まれた中庭と、青く高い秋の空が一望できた。


「ここなら、誰も来ねえし、風も通るから涼しいだろ」


 陽向は、ベンチを自分のハンカチでサッと拭き、紬に座るように促した。


「ありがとう、瀬野くん」


 紬が腰を下ろすと、陽向も少しだけ距離を空けて隣に座った。

 遠くから、生徒たちの歓声や、マイクを通した司会の声が、風に乗って微かに聞こえてくる。

 文化祭の喧騒を、まるで遠い世界の出来事のように、二人だけの静かな空間から見下ろしている。


「……なんか、不思議だな」


 陽向が、手すりに両腕を乗せ、中庭を見下ろしながらぽつりと呟いた。


「俺、今まで文化祭なんて、ただ騒いで疲れるだけの行事だと思ってた。でも、今年は……なんか、一分一秒が、すげえ惜しいっていうか……」


「……私も」


 紬は、膝の上で両手を組み合わせ、彼の横顔を見つめた。


「私ね、今日、本当に学校に来られてよかった。瀬野くんたちと、あの星空を作れて……本当に、生きててよかったって思ったの」


 紬の言葉に、陽向はゆっくりとこちらを向いた。

 彼の瞳の奥には、図書室で彼が壁を壊した日と同じ、真っ直ぐで、混じり気のない熱が宿っていた。


「結城」


 陽向は、少しだけ躊躇うように息を吸い込み、そして、意を決したように言葉を紡いだ。


「俺、お前のこと……」


 ――ドクン。


 紬の心臓が、大きく跳ねた。

 彼が、何を言おうとしているのか、痛いほどにわかった。

 聞いてはいけない。

 それを聞いてしまったら、私はもう、彼への想いを断ち切ることができなくなる。彼を、私の死という絶望の淵に、完全に引きずり込んでしまう。


「……待って」


 紬は、震える声で彼の言葉を遮った。


「瀬野くん、それ以上は……言わないで」


「……なんでだよ」


 陽向の顔に、戸惑いと、焦りの色が浮かぶ。


「俺は、本気で――」


「知ってる。……瀬野くんの気持ち、痛いほど、わかってるよ。でも……だめなの」


 紬の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 言わなければならない。

 彼を解放するために。彼に、私と同じ未来がないことを、はっきりと伝えるために。


「私ね、瀬野くん」


 紬は、涙で滲む視界の中で、必死に彼の顔を見つめた。


「私……もう、長くは生きられないの」


 秋の風が、渡り廊下を吹き抜けた。

 遠くの歓声が、ふっと途切れたような気がした。

 陽向は、目を大きく見開き、信じられないものを見るような顔で、紬を見つめていた。


「……は?」


「私の病気は、もう治らない。……お医者さんにも、そう言われてるの。普通の高校生みたいに、卒業して、大人になって……そういう未来は、私にはないの」


 残酷な真実の吐露。

 自分の口から発せられたその言葉は、自分の心をも深く切り裂いた。


「だから……瀬野くんの気持ちには、応えられない。瀬野くんには、これから先、走って、いろんな景色を見て、たくさんの未来が待ってる。……私のところで、立ち止まっちゃだめなんだよ」


「……」


 陽向は、言葉を失っていた。

 彼の頭の中で、これまでの紬の危うい行動、青ざめた顔色、栞の過剰なほどの心配が、一つの残酷な事実として結びついていくのがわかった。


「嘘……だろ……」


 陽向の声は、震えていた。

 彼のような、真っ直ぐに命を燃やして生きている人間にとって、「死」という概念はあまりにも遠く、そして受け入れがたいものだったはずだ。


「嘘じゃないよ。……だから、ごめんね。瀬野くんのこと、傷つけて、ごめんな……さい……」


 紬は、顔を両手で覆い、声を殺して泣いた。

 これでいい。

 彼に嫌われてもいい。彼が私から離れていってもいい。

 彼が、これ以上深い傷を負う前に、私という鎖を断ち切らなければならないのだ。


 しかし。

 紬の予想を裏切り、陽向は、逃げ出さなかった。

 彼は、震える手で、顔を覆う紬の両手を、力ずくで引き剥がした。


「……瀬野、くん?」


 涙で濡れた紬の目に映ったのは。

 絶望でも、同情でもなく。

 ポロポロと大粒の涙を流しながら、それでも決して目を逸らそうとしない、瀬野陽向の顔だった。


「ふざけんな……」


 陽向は、泣きながら、紬の両手をギュッと強く握りしめた。


「長く生きられないから、なんだよ……。未来がないから、なんだって言うんだよ!」


「瀬野くん……」


「俺は! 俺の未来じゃなくて……『今』、お前と一緒にいたいんだよ!!」


 陽向の叫びが、渡り廊下に響き渡った。

 それは、死という絶対的な運命に対する、一人の少年の命がけの反逆だった。


「お前が明日死ぬなら、俺は明日までお前のそばにいる。お前が一ヶ月生きるなら、一ヶ月ずっとそばにいる! お前が俺の光になってくれたんだ……俺がお前を見捨てるわけねえだろ!!」


 陽向は、紬を強く、力強く抱き寄せた。

 彼の大きな胸に、紬の小さな体が完全にすっぽりと収まる。


 ――温かい。

 

 火傷しそうなほどの、圧倒的な命の熱。

 彼の心臓の鼓動が、ダイレクトに紬の胸へと伝わってくる。


「……っ、あぁぁっ……!」


 紬は、陽向の胸の中で、ついに声を上げて泣きじゃくった。

 嬉しい。怖い。悲しい。幸せだ。

 すべての感情が、限界を超えて溢れ出していく。


「離れねえよ……。絶対に、離してやらねえからな……」


 陽向の涙が、紬の髪を濡らす。

 秋の空の下。

 死の影に怯える少女と、生を全身で体現する少年は、互いの魂を繋ぎ止めるように、強く、強く抱きしめ合っていた。


 しかし、運命は、彼らのそのささやかな永遠さえも、許してはくれなかった。


「……っ」


 陽向の胸の中で。

 紬の体が、突如としてビクンと大きく跳ねた。

 そして。

 彼女の体から、一瞬にして、すべての力が抜け落ちた。


「……結城?」


 陽向が、驚いて腕を緩め、紬の顔を覗き込む。

 紬の目は、半開きになったまま、焦点が合っていなかった。

 唇は真っ青に染まり、喉の奥からは、ヒュー、ヒューという、空気が通らない絶望的な音が漏れている。


 

 ――発作。


 

 これまでごまかし続けてきた、限界をはるかに超えた肉体の悲鳴が、ついに決壊したのだ。


「おい、結城! 結城!! どうした、息しろ!!」


 陽向の悲鳴が響く。

 しかし、紬の意識は、すでに深い、暗い水の底へと沈みかけていた。

 遠のく意識の中で、彼女が最後に感じたのは。

 自分を抱きしめる彼の腕の、狂おしいほどの力強さと、温かさだった。


(……ごめんね、瀬野くん。……ありがとう)


 結城紬の文化祭は、その言葉を最後に、深い暗闇の中へと有無を言わせず、幕を下ろされた。

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