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十四話目

 遠くで、吹奏楽部が奏でる陽気なポップスのメロディが響いていた。

 その祝祭の音色は、旧館の渡り廊下にだけは届かない。

 瀬野陽向の腕の中で、結城紬の体は、まるで糸の切れた操り人形のように力なく崩れ落ちた。


「おい、結城! 結城!! どうした、息しろ!!」


 叫び声は、自分のものだとは到底思えないほど、ひどく掠れて、裏返っていた。

 つい数秒前まで、あんなにも温かかった彼女の体が、急激に熱を失っていくのがわかる。腕の中に抱え込んだ背中は、信じられないほど華奢で、鳥の骨組みのように脆かった。

 彼女の唇は、不気味なほどの青紫色に染まっている。半開きになった口からは、ヒュー、ヒューという、細いストローで無理やり空気を吸い込もうとするような、絶望的な摩擦音が漏れ続けていた。


「結城……っ、おい、目を開けろ! 俺の声、聞こえるか!?」


 陽向は彼女の肩を揺さぶろうとして、それが彼女の壊れかけた身体にさらなる負担をかけるのではないかと恐れ、すぐに手を止めた。

 どうすればいい。

 俺は、どうすれば彼女を助けられる。

 百メートルを誰よりも速く駆け抜ける強靭な筋肉も、インターハイを決めた圧倒的なスピードも、今、この腕の中で消えようとしている命の前では、何の役にも立たなかった。


「誰か……ッ! 誰か来てくれ!!」


 陽向は、紬の体を抱きかかえたまま、渡り廊下から校舎の中庭に向けて、獣のような叫び声を上げた。

 その声に気づいた数人の生徒が、驚いた顔でこちらを見上げ、すぐにパニックに陥って走り出すのが見えた。


「……瀬野くん!!」


 階段を駆け上がってくる激しい足音とともに、血相を変えた三島栞が現れた。彼女の後ろからは、藤原樹も息を切らして続いている。

 栞は、床に横たわる紬と、呆然と彼女を抱きかかえる陽向の姿を見るなり、悲鳴のような短い息を呑んだ。


「紬……っ! 紬!」


 栞は床に膝をつき、すぐさま紬の首筋に指を当てて脈を確認した。その手は、かつてないほどに激しく震えていた。


「脈が……弱い。呼吸も、ほとんどできていないわ。藤原くん、すぐに救急車を! それから、職員室に行ってAEDと、黒崎先生……紬の主治医がいる総合病院に連絡するように伝えて!」


「わ、わかった!!」


 樹は、普段のおちゃらけた態度は完全に消え失せ、顔面を蒼白にしながら再び階段を駆け下りていった。


「三島……俺、俺が、もっと早く気づいていれば……」


 陽向が震える声で呟くと、栞は銀縁眼鏡の奥から、鋭く、しかし涙でぐちゃぐちゃになった瞳で彼を睨みつけた。


「今はそんなことを言っている場合じゃないわ! 紬の気道を確保して! 顎を少し上げて、首を真っ直ぐに保つのよ!」


 栞の指示に従い、陽向は震える手で紬の頭をそっと支えた。


 冷たい。


 彼女の肌から、命の温度が急速に奪われていくのがわかる。


(離れねえよ。絶対に、離してやらねえ)


 数分前に交わした誓いが、残酷なまでに無力な響きとなって陽向の脳内をこだましていた。

 やがて、数人の教師が駆けつけ、旧館の踊り場は騒然とした空気に包まれた。

 遠くから、サイレンの音が近づいてくる。

 文化祭の喧騒を切り裂き、非日常の祝祭空間に、圧倒的な「死」の気配が強引に割り込んできた瞬間だった。


 救急隊員たちが到着すると、紬はあっという間にストレッチャーに乗せられ、酸素マスクを取り付けられた。

 プロの彼らの動きは迅速で、無駄がなかった。それが逆に、陽向の無力感をさらに際立たせた。


「ご家族には学校から連絡します! 君たちはここで待機しなさい!」


 教師の制止を振り切り、陽向は救急車の後部ドアの近くまで駆け寄った。


「俺も……俺も乗ります! あいつのそばに……!」


「身内の方以外は乗れません。君は残りなさい」


 救急隊員の冷徹な、しかし当然の拒絶。

 バタン、と重いドアが閉められ、赤い回転灯を回しながら、救急車は猛スピードで学校を去っていった。

 陽向は、誰もいなくなった校門の前に、ただ一人立ち尽くしていた。

 手のひらには、彼女の冷たい頬に触れた感触と、微かな汗の湿り気が残っている。

 空を見上げると、残酷なほどに青い秋の空が広がっていた。

 つい先ほどまで、あんなにも幸せだった。彼女が自分を「光」だと言ってくれた。互いの魂が、確かに触れ合ったはずだった。

 それなのに、運命は、わずか数分でそのすべてを奪い去っていった。


「陽向……」


 背後から、樹がそっと肩に手を置いた。

 振り返ると、樹も、そしてその後ろに立つ栞も、この世の終わりのような絶望的な顔をしていた。


「病院……行こう。タクシー捕まえて、すぐに行こう」


 樹の言葉に、陽向はただ、無言で頷くことしかできなかった。


 総合病院の救急救命センターの待合室は、消毒液の匂いと、重苦しい沈黙に支配されていた。

 パイプ椅子に腰掛けた陽向、樹、そして栞の三人は、ただただ目の前の分厚い手術室の扉を見つめていた。

 時計の秒針が、カチ、カチと無機質な音を立てて進む。

 その一秒一秒が、永遠のように長く感じられた。


 やがて、自動ドアが勢いよく開き、息を切らした二人の人影が飛び込んできた。

 紬の母である咲良と、妹の糸だった。

 咲良の顔は涙でぐちゃぐちゃになっており、手には紬の保険証が入ったファイルを強く握りしめている。


「紬……! 紬はどこですか!」


 咲良が受付の看護師に泣きつき、看護師が落ち着かせるように処置室の方を指差した。

 その騒ぎに気づき、陽向たちは弾かれたように立ち上がった。

 糸の視線が、真っ直ぐに陽向を捉えた。

 その瞬間、糸の瞳の中に、激しい怒りと、抑えきれない絶望の炎が燃え上がった。

 彼女はツカツカと陽向の目の前まで歩み寄ると、何の躊躇いもなく、陽向の胸ぐらを両手で強く掴んだ。


「お前のせいだ……!」


 糸の悲痛な叫び声が、待合室に響き渡った。


「お前が……お姉ちゃんを外に連れ出したから! お前がお姉ちゃんに無理させたから、こんなことになったんじゃないか!!」


「糸ちゃん、やめなさい!」


 咲良が慌てて止めに入ろうとするが、糸の力は恐ろしく強く、陽向のジャージの胸元をギリギリと締め上げた。

 陽向は、抵抗しなかった。

 されるがままに、糸の憎悪に満ちた瞳を真正面から受け止めた。


「お姉ちゃんは……今日行くの、すごく迷ってた。無理してるの、わかってた! でも、自分のため……いや、あいつのために行きたいって……最後の日になるかもしれないのに、それでも行きたいって、そう言って……!」


 糸の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、陽向の胸元を濡らした。


 ――最後の日。


 その言葉の重みに、陽向の全身の血の気が引いた。

 紬は、今日という日が自分の命の限界であることを悟りながら、それでも、俺と一緒に過ごすために、あの場所に来てくれていたのか。

 自分がどれほど残酷なことを彼女に強いていたのか。

 光になりたいなどと、どの口が言えたのか。俺は、彼女の命を削る劇薬でしかなかったのではないか。


「……ごめん。俺のせいだ。……俺が、あいつを無理させた」


 陽向が掠れた声で謝罪すると、横から栞がスッと前に出て、糸の腕を優しく、けれど力強く解いた。


「違うわ、糸ちゃん。瀬野くんのせいじゃない。……私のせいよ」


 栞の言葉に、糸も、陽向も、樹も、驚いて彼女を見た。

 栞は、真っ直ぐな姿勢を保とうとしていたが、その全身は小刻みに震えていた。


「紬の限界が来ていること、私は誰よりもわかっていたわ。……今日、学校に来れば、もう二度と元には戻れないことも、頭では十分に分かっていた。……でも、私は、止めなかった。紬のあの笑顔から、瀬野くんと一緒にいるあの幸せな時間から、彼女を引き剥がすことができなかった。……親友として、彼女の命より、彼女の心を守ることを優先してしまった。……だから、紬を殺したのは、私なのよ」


 栞の目から、再び涙が溢れ出した。

 常に論理と理性を重んじてきた彼女が、そのすべてを投げ打って感情に流された結果が、この残酷な結末だった。

 誰もが、紬を愛していた。

 誰もが、紬に生きてほしかった。

 けれど、その不器用な愛情のすべてが絡み合い、彼女を死の淵へと追いやってしまったのだ。

 待合室には、重く、救いようのない絶望のすすり泣きだけが響いていた。


 それから、どれほどの時間が経っただろうか。

 外の空はすでに完全に日が落ち、窓ガラスには冷たい雨のしずくが打ち付け始めていた。

 プシュー、という空気の抜ける音とともに、処置室の重い扉が開いた。

 中から姿を現したのは、手術着姿で、ひどく疲労の色を濃くした黒崎誠一郎だった。

 彼は、待合室にいる咲良と糸、そして三人の高校生たちをぐるりと見渡し、静かに歩み寄ってきた。


「……先生。紬は……娘は、どうなりましたか」


 咲良が、すがるような目で黒崎を見上げる。

 黒崎は、手術用のマスクを外し、重いため息を一つ吐いた。

 その彼の表情を見た瞬間、陽向の胸の奥で、嫌な音がした。

 医者が、患者の家族に向ける顔。それは、限界を越えた先にある、残酷な真実を突きつける時の顔だった。


「……一命は、取り留めました」


 黒崎の低く、静かな声が響く。


「急性心肺不全。心停止の一歩手前でした。気管内挿管を行い、人工呼吸器のサポートで、現在はなんとか呼吸と心拍を維持しています。……ですが」


 黒崎は言葉を区切り、痛みを堪えるように目を閉じた。


「以前からお話ししていた通り、彼女の心肺機能は、極めて危ういバランスの上に成り立っていました。今回の強烈な発作により、そのバランスは完全に崩壊しました。……肺の細胞の大部分が不可逆的なダメージを受け、自発呼吸を維持することは、もう不可能です」


「それって……どういうことですか」


 糸が、震える声で尋ねる。

 黒崎は、その鋭い、けれど深い悲しみを湛えた瞳で、糸を、そして陽向たちを見据えた。


「……人工呼吸器を外すことは、もう二度とできません。つまり、彼女が自分の足で歩き、学校に通い、元の生活に戻ることは……二度とないということです」


 ――二度とない。


 その五文字が、呪いのように待合室の空気に突き刺さった。

 咲良は「ああ……っ」と悲鳴のような声を上げ、その場に泣き崩れた。糸が必死に母を抱き支えるが、彼女自身の顔も、絶望で真っ白に染まっていた。

 陽向は、頭の中が真っ白になった。

 二度と、学校に戻れない。

 あの教室で、星空の下で、四人で机をくっつけて弁当を食べることは、もうない。

 俺の走りを見に来ることも、俺に手紙を書いてくれることも、その手で俺の手に触れてくれることも。

 終わったのだ。

 結城紬の「眩しい日常」は、たった今、完全に、そして永遠に失われたのだ。


「……俺が、」


 陽向の口から、空虚な声が漏れた。


「俺が……もっと早く、あいつを休ませていれば。俺が、あいつの限界に気づいていれば……」


「自分を責めるな」


 黒崎の鋭い声が、陽向の懺悔を切り裂いた。


「君たちがどう行動していようと、いずれこの日は確実に訪れていた。彼女の病気は、そういう病気だ。むしろ、今日という日まであそこまで動けていたこと自体が、医学の常識を覆す奇跡だったんだ」


 黒崎は、陽向の目を真っ直ぐに見つめた。


「彼女は、君たちと一緒に過ごすために、自らの命の残り火を、最高温度で燃やし尽くしたんだ。……それを、君たちの後悔や自己犠牲で汚すな。彼女が命を懸けて手に入れた『今日』という日を、君たちが否定してはならない」


 それは、黒崎なりの、最大限の慰めであり、医師としての重いエールだった。

 しかし、その言葉すらも、今の陽向の心には、ただただ痛みを増幅させる劇薬でしかなかった。


 集中治療室の天井は、恐ろしいほどに白く、そして無機質だった。

 意識の深い底から、ゆっくりと浮上してきた結城紬の網膜に最初に映ったのは、その一面の白い世界だった。


 ――ピッ、ピッ、ピッという、規則的な電子音。


 自分の口元を覆う、分厚いプラスチックの感触。

 そして、喉の奥深くまで挿入された異物が、自分の意志とは無関係に、機械的なリズムで肺に空気を送り込んでくる、暴力的なまでの圧迫感。


(……あ、あ……)


 声を出そうとしたが、喉の管のせいで声帯を震わせることはできなかった。

 視線を動かす。

 無数の点滴の管、心電図のモニター。

 そして、ガラス張りの壁の向こうで、顔を覆って泣き崩れている母と妹の姿。

 その横に、項垂れたまま動かない、陽向の姿があった。


 紬の思考は、薬の影響でひどくぼんやりとしていたが、自分が今、どういう状況に置かれているのかは、瞬時に理解できた。

 終わったのだ。

 私の高校生活。私の青春。私の、初恋。

 そのすべてが、限界を迎えた。

 黒崎先生が言っていた通り、一線を越えてしまったのだ。

 教室の天井で輝いていた、みんなと作ったあの金色の星空は、もうここにはない。

 あるのは、ただ死を待つだけの、無菌室の白い天井だけ。


(……ごめんね)


 声にならない声で、紬はガラスの向こうの彼らに謝った。

 私のわがままで、最後までみんなを傷つけてしまった。

 しかし、頬を伝って落ちる涙の温度は、不思議なほどに温かかった。

 最後に感じた、彼の腕の力強さ。


『お前が明日死ぬなら、俺は明日までお前のそばにいる』


 その言葉の熱が、まだ確実に、私の魂の中に残っている。

 私は、生き切った。

 ガラスの箱から飛び出して、自分の足で、彼という光に向かって歩き切った。

 後悔はない。

 ただ、もう一度だけ、彼と笑い合いたかった。


 結城紬は、再び重くのしかかってきた睡魔の底へと、静かに、ゆっくりと沈んでいった。

 人工呼吸器の無機質な音が、彼女の止まりかけた時間を、無理やり、そして残酷に刻み続けていた。

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