第1話 攻撃力ゼロでも、帰り道は作れる
俺の八年間は、薄い封筒に入った。
「真柴。今日で契約終了だ」
黒瀬征司は、磨かれた机に封筒を滑らせた。討伐数の欄が大きく、撤退補助の欄は裏面にさえなかった。
「来月から深層へ進む。攻撃力ゼロの席を残す余裕はない」
「退路の点検は誰が」
「各隊でやる。歩くだけなら誰でもできる」
それは事実だ。戻ってこられる道を歩くのが、少し難しい。
俺は封筒を鞄へ入れ、机に置かれた備品返却票を見た。真鍮の帰還杭は三本とも私物の欄にあった。そこだけは、最後まで正しい帳簿だった。
「北工区の迂回路は、支柱を一本抜くだけで落ちます。点検票に書いてあります」
「聞いた。退出してくれ」
退出なら専門だ。俺は扉を閉めた。
暁冠の事務所から出ると、白汐市の風は潮と揚げ物の匂いがした。午後二時。二十六歳、無職。昼飯には遅く、人生のやり直しには、なるべく遅くないと思いたい時刻だった。
地下迷宮の入口にある返却窓口へ向かう途中、腕の旧式受信機が震えた。
「……真柴さん。聞こえますか」
須藤朔の声だった。今朝も俺に、荷紐の結び方を聞いてきた新人運搬係だ。
「聞こえる。場所と人数」
「北工区、六番貯水槽の奥。二人です。朝凪さんが、ずっと」
音声の後ろで金属が擦れた。小さな咳。次に、女の低い声が入った。
「彼の左脚が挟まっている。出口側は落ちた。空気が悪くなってる」
朝凪凛。S級探索者、剣姫。ギルドの宣伝写真では、いつも一人で立っている人だ。
「受信機は」
「本隊の周波数が応答しません。それで真柴さんにもらった補助帯域を」
「そのまま繋げておけ」
入口の表示灯は赤かった。防護服の市救助員が柵を閉じようとしていた。俺が現場名を告げると、彼は奥の地図を指した。
「本道が閉塞した。いま支保材を待っている。貯水槽の奥へは届かない」
「整備通路を使います。排水溝の右側です」
「図面上は行き止まりだぞ」
「去年、俺が水抜きの時に歩いてます。工具棚の背板が外れる」
救助員は俺の靴を見て、受信機から聞こえた咳を聞いた。軽い決断ではない顔で、柵を持ち上げた。
「十五分で連絡。入口の迷宮境界内を帰還点にする。こちらで確保する」
「お願いします。地上の救急も二人分」
迷宮内へ三歩入り、床の固定環に触れた。ここまでは今朝、自分で歩いた道だ。帰還点を覚え直してから、俺は右の暗渠へ下りた。
八年も同じ床を見ていれば、出世しなくても床とは親しくなる。赤い水垢の先は滑る。三つ目の曲がり角は、見上げるより先に腰を落とす。頭上に折れたボルトがある。
駆け足を止め、湿った壁に手を置いた。ここは乾いていたはずだった。
排水が逆流している。本道の落盤が水路も塞いだらしい。俺は膝下まで水に入り、左の壁を辿った。足の裏から伝わる敷石の幅を数える。十五枚目の先には点検蓋がある。足首を折れば、救助対象が増える。自営業の開店としては最悪だ。
「凛さん、あとどれくらい持ちますか」
「剣ならまだ振れる。天井に聞いて」
「天井は説明責任を果たさないことで有名です」
小さく息が漏れた。笑ったのか、痛みを逃がしたのかは分からない。
工具棚の背板を肩で押した。錆びた蝶番が一度噛み、俺は持ってきた平鋸を隙間へ差した。こういう時のための道具だ。剣ではない。世間の評価欄には、たぶん載らない。
背板が外れ、白い粉塵の向こうで黒髪が揺れた。
凛は片膝をつき、倒れかけた鋼材の横で剣を構えていた。頭上から落ちてきた岩を、刃の腹で弾く。岩は人のいない壁へ砕けた。細い腕に見えても、動きに無駄がなかった。
その足元で朔が唇を噛んでいた。左脚の上に配管が載っている。血は多くない。その量だけでは、安全かどうかは分からない。
「真柴奏です。帰り道を持ってきました」
「朝凪凛。道は見えないけど」
「今から設置します。五十秒ください」
俺は床へ這い、敷石の亀裂を払った。杭を亀裂に打ち込めば速いが、割れ目が広がれば終わる。二枚先の硬い基礎まで移動し、真鍮の帰還杭を固定穴へねじ込んだ。
凛の剣が風を裂いた。足元へ這い寄った石殻の魔物が、俺へ届く前に二つになった。攻撃力ゼロの俺にも、零でない仲間がいる。臨時だが、ありがたい。
引いても動かない杭に、額を当てた。俺の術式《帰路接続》は、自分で確かめた道の両端を寄せる。知らない場所には繋がらない。今歩いた暗渠と、入口の固定環を、息を揃えるように重ねた。
指一本の光が広がり、人一人が横向きで通れる扉になった。その向こうに、入口の黄色い安全灯が見えた。
「朔。帰るぞ」
「でも、費用が。俺、救助の追加契約」
「財布は脚が抜けてから探せ。脚は今抜く」
俺は配管の隙間に木片を打ち、短い梃子を差した。凛へ目を向けると、彼女は首を横に振った。
「切れば上が落ちる」
「分かってる。二センチ持ち上げるだけ。俺が支点を作る」
彼女は剣を置かず、空いた手で梃子の端を押した。ぎ、と木が鳴った。俺は朔の踵を支え、配管と靴の間に指を入れた。
「息を吐け。吐いてる間に引く」
叫びを噛み潰した朔の体が滑った。脚が抜けた瞬間に配管が落ち、凛はその衝撃を片足で逃がした。俺の肩へ当たった彼女の肘が、驚くほど冷たかった。
朔の脚に副木を当て、帯で固定する。俺の術式は骨を治せない。包帯を巻く手は、ただの手だ。
「扉の向こうへ。呼ばれたら返事をしろ」
「はい。帰ります」
入口側の救助員が伸ばした腕へ、朔を渡した。彼の踵が光を抜けるまで、扉はひどくゆっくりだった。小さな扉しか作れない。その小ささに、今日は命二つ分の幅がある。
天井が沈んだ。
凛が俺の襟を掴み、落ちてきた梁の下から引いた。熱い痛みが頬を走る。助けに来たからといって、助けられない契約はしていない。
「次は凛さん」
「あなたが先」
「術者が抜けると閉じます。これは譲り合いの悪い場面です」
彼女は扉を見て、俺の手を見た。指が震えているのは、彼女にも見えただろう。
「三つ数えて。私が抜けたら、すぐ」
「一、二」
三の代わりに、彼女が俺の肩を押した。自分は先に横向きで扉を抜け、俺の手首を向こう側から取る。俺は杭から手を離し、閉じていく光へ右肩を入れた。
背後で何かが崩れた。振り返らなかった。
黄色い灯の下に転がり出た時、俺の鼻先に救助員の靴があった。床が平らというだけで、こんなに贅沢だとは。
救助員は俺たちを数え、無線へ二人確保と告げた。それから俺の手首に掴まっていた凛の指を見て、三人とも確保と言い直した。
「真柴さん、手」
言われて開こうとすると、うまく開かなかった。扉を維持する間、いつも強く握り過ぎる。凛は俺を急かさず、自分の手を少しずつずらした。指が離れたところだけ、風が冷たかった。
「その頬、切れてる」
「顔で稼ぐ予定はないので」
「感染すると、顔以外でも稼げなくなる」
正論には剣より逃げ道がなかった。差し出された消毒綿を受け取り、頬へ当てた。痛みに目を細めると、凛は俺の代わりに落ちた鞄を拾った。
中から解雇通知が覗いた。彼女は文字を読まず、濡れた封筒を裏返して鞄へ戻した。
救助員が、置いてきた杭は落盤が収まってから回収すると言った。俺は遠方の登録を解除し、礼を言った。一本を失った代金は痛い。それでも、三人分の靴が入口に並んでいる方がずっといい。
朔は担架の上から、その靴を何度も見ていた。自分の左足の爪先が動くのを確かめると、ようやく握っていた荷紐を離した。
地上へ上がる普通の階段を、凛は途中から自分の足で登った。手すりを使う彼女を見て、俺もようやく、自分の膝が笑っていると知った。
救急車の前で朔が礼を言いかけたので、水を渡して黙らせた。話す仕事は、息が落ち着いてからでいい。
「真柴さん、暁冠に戻られるんですよね」
「今日で辞めた。正確には辞めさせられた」
朔は紙コップを握ったまま固まった。凛が隣のベンチへ腰を下ろす。結び直した黒髪の下に、乾いた血があった。
「その仕事に名前はある?」
「撤退路係。元だけど」
「さっき私たちが通ったのは、撤退じゃない。帰り道だった」
彼女は紙コップの水を飲み、ようやく息を長く吐いた。
「帰還術師。それなら、頼む人が名前を間違えない」
父の形見の切符鋏が、鞄の中で小さく触れ合った。俺は携帯を出し、市の空き施設貸出のページを開いた。以前、倉庫の相談で見つけた南岬駅の写真が残っていた。階段の下だけが迷宮域に接している、閉じた駅だ。
「座れる場所を借ります。帰ったあと、こうして歩道に座るのも困る」
「賛成。次は背もたれが欲しい」
凛の声は、剣を振っていた時と同じくらい真剣だった。
*あとがき*
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