87話 おかえりなさい
「………」
「……奥さま……」
わたしは食事を手に旦那様の部屋の前にいた。後ろには困り顔――本気で心配している様子のエルザ。
お帰りになられて、自室に籠り全てを拒絶して、三日が経っていた。
わたしの心は……「どうして?」という気持ちで溢れかえっている。
お相手の都合がある。それは理解するけれど――それでも、わたしは旦那様が帰ってきたら、沢山沢山、お話が出来ると思っていたのだ。
休息が必要にしたって、三日間何も口にしていないのは流石に心配になる。
お義父様とエドワード様は血縁の余裕なのか、あと二日は様子を見る。などとのたまうし。
わたしは飴色に磨かれて重厚な威圧感を放っている扉に微笑みながら。
「……大丈夫だから、わたしが呼ぶまで声を掛けないでね」
「……ッ、ですが、その、」
「大丈夫よ。わたしの旦那様だもの」
エルザもわたしも知っている、最悪のこと――帰還した村人の中に数人、突然暴れ回って人を殴ってしまう人がいた。
そんな――懸念に、エルザの瞳は染まり切っている。
「……――はぁ、……仕方ありませんね」
けれどエルザは、瞬き一つで諦めたようだった。
わたしがエルザと一切視線を合わせない、その仕草で意志の強さを察してくれる。
「なにか、何かあれば、必ず、すぐに、呼んでくださいね。いいですか。す・ぐ・に! ですよ」
「ええ」
何度も心配のため息をつき、後ろ髪を引かれている様子のエルザが廊下の端を曲がって……完全に見えなくなった頃。
一度深呼吸をしたわたしは、食事が乗った盆を片手に持ち換え、ノックもせずにドアノブを回した。
「旦那様、入ります」
「な゛ッ?! まてまてアナスタシ、ッ――なぜ、なぜだッ?!」
ベッドに腰かけていた旦那様は慌ててシーツを被って、その奥へと逃げるように縮こまった。
綺麗に整えられたままの部屋。帰ってきた時に持っていた旅袋が――恐らく三日前からずっとそのまま――床に転がっている。
「は、入ってくるんじゃないッ、許していないぞ、お前、君、ア――アナ、スタシア、」
「お食事をお持ちしました。なにか、一口でもお食べになってくださいな」
盆の上には、温かいミルク粥とリンゴを小さく切ったものが乗っている。
それを持ってベッドに上がろうか一度迷って……けれ結局机に置いた。
それから、わたしたちを隔てるベッドの帳をそっと開く。
奥の方では白いシーツの塊が蠢いていた。
その隙間から――金の瞳がちらりと覗いている。
「あ、あとで、頂こう。今は、食欲がない。から、――まて、アナスタシア、」
ぎしり。と、わたしはさして躊躇うことなくベッドの上へ膝を上げた。
するとシーツの下で形を変えているであろう狼耳がビクリと跳ねる。
「まて、ま、待ちなさい、待ってくれ、アナ、スタシア」
わたしは旦那様の声を無視して、四つん這いのままゆっくりと近づいていく。
シーツの端からは、灰色の太い尻尾がはみ出ていた。
それは、可哀想なほどぶるぶると震え、先端が丸まっている。
ゆっくりとシーツの塊の前まで来ると、もう隙間から金は覗いていなかった。
ぎゅっと皺の寄っている所――内側から握り締めた手によって、完全に拒絶されている。
――どうして。
「どうして、お顔を見せてくださらないのですか」
「――ッ、もう、み、見せられる顔では、ない……」
シーツに包まり小さくなっているとはいえ、正面で座り込む私よりも二回りは大きい人なのに。
声は震え、シーツはさらに圧縮されていく。
「見せられる顔、ですか……」
けれど、わたしはほんの少し、安堵していた。
顔を見せない理由――部屋から出ない理由が、嫌われているせいだったらどうしようと思っていたのだ。
握りこまれて皺の寄っている所にそっと触れて。
「旦那様。わたしの顔を、覚えていますか?」
「は、……? おぼえて、」
咄嗟に、自分で被ったシーツを脱ぎわたしを見て確認しようとする旦那様の手を上から押さえつける。
はみ出た尻尾がぶわわと大きくなったのが見えた。
「あ、いけません。そのまま。ねえ、わたしの髪色は?瞳の色は?肌の色は? 覚えていますか」
「は、はぁぁ……?……髪は、黒だ。瞳、も……黒、いや青……いや、茶色か……? 少し待て、思い出す……」
シーツの上の方、ツンと尖った獣耳がもこもこと跳ねている。
わたしは、旦那様と会話らしいことが出来ているだけで、生き返るような心地になっていた。
だからその変な高揚感のまま、ほんの少し意地悪をしてしまう。
「覚えていないのですね」
「ッい、一体何なんだ、アナ、揶揄うのもいい加減にしなさい」
シーツがほんの少し低い声で吠える。
はみ出た灰色は太いまま、苛立ちを示すかのようにざり、ざり、とベッドを撫でていた。
「わたしも、覚えていません」
「は、」
息を吸う。シーツ越しに旦那様の手の形を少しだけ探り、ぎゅっと握りしめる。
「旦那様の髪色は赤茶だったと思っていました。けれど、数日前にお見かけした限りでは、灰色になっていました。瞳はお義父様と同じ色と記憶しておりましたけれど、それも違う……」
「あぁ、なんだ? 記憶と違うから、文句でも言いに来たのか、こんな化け物が夫だったなど――」
わたしはその瞬間。ぺったりと座り込んでいたのを立膝になって体を伸ばし、シーツごとリアン様を抱きしめた。
「いいえ」
シーツの中が一回り大きくなったかのように身じろぎ、一瞬振りほどこうとして――けれど止まる。
あとに残るのは、静かな二人分の呼吸音だけ。
「いいえ。わたし、それでもリアン様が好きです」
伝わってほしい。その一心で抱きしめ続けていた。
でもリアン様が大きく身じろいだので……回していた両手を解く。
またお尻の付く座り方に戻ると……頑なだった白が自ら開いて。
――その中には、ただ疲れ果て、弱り切ったが男いた。
薄暗い天蓋ベッドの中で、さらにシーツを被った旦那様の顔には容赦なく影が落ちている。
もっとよく見ようと、ほんのわずかに前のめりになった、その瞬間。
ゆらりと、けれど避けられない程度に素早く。
鋭い爪をした傷だらけの手が、わたしの首元を捉えた。
「嘘だ」
ひび割れた唇が断言する。
そっとわたしの――首の一番太い血管に触れて……ほんの少し、チクリとするだけ爪を立てる。
辛そうに眉をしかめ、わざと口端を上げて。獣じみた金を自虐に歪ませて。
「ほら、恐ろしいだろう。この爪で、何人殺してきたと思う」
「……、……」
わたしは、それでも動かなかった。
歪んだ唇にそって皺が刻まれたお顔。村に帰還してきた男性たちもそうだった。
あらゆることに耐えるために、無意識に歯を噛みしめるから……普通に生きていれば入らない所に深い皺が刻まれる。
わたしはそっと自分の手をリアン様の手に重ね、自ら首を傾け大きな掌を迎えに行った。
大きな爪はすぐに角度を変え、柔らかい指腹だけが首筋に張り付く。
密着しているから、よく分かる。その指の中、骨まで細かく震えていること。
「恐ろしくありません」
意識して微笑む。心から親愛が伝わりますように。そう願いながら、困惑に歪む目の前の琥珀色に視線を合わせる。
すると、彼の手はするりとわたしの首から抜けて、そのまま天を向いた。
「ハ、嘘だろう? こんな、」
演技がかっていて、馬鹿にしたような表情。
首に爪が当たっていた時よりも、なぜか今この時が一番怖かった。
「こんな。耳も尻尾も、得体の知れない力まで宿した化け物を、心から好きだなんて……」
旦那様はまるで泣き出す前、絶望した子供のように両手を下げ脱力し、俯く。
分厚い前髪が瞳を隠してしまった。わたしたちを包む薄暗闇が、星を失いさらに暗くなる。
「アナスタシア。君は優しいから、義務感で自分を騙しているだけだ……ああ、そうだ。離縁なんてできないものな。ここで生きていくしかないから、こんな化け物を必死に受け入れようとしている……」
記憶の中のどれとも符合しない、一等優しい、言い聞かせるみたいな声。
わなわなと自分の唇が震えたのが分かった。
わたしの中の「どうして?」という思いが、ぶちりと音を立てて切れる。
「――いい加減にしてくださいッ! わたしがいつ、あなたの〝外見〟のことを言いましたか!」
「……ッ、」
義務感? 義務感だなんて!! そんなもので、わたしはこの信じられないほど寒く厳しい土地で三年も耐えたと、そう思われているの。
この思いを、そんな言葉に書き換えて、わたしを遠ざけようとするなんて――!
「三年前、わたしたちは半年しか一緒にいなかった! ろくに顔を合わせる暇もなく戦地へ送り出したわたしの記憶の中で、あなたの元の顔なんて――もう霧がかかったみたいに曖昧でッ…… 鼻の形も、目の細さも、本当は何一つ正確に思い出せないのに!」
頭の中が五月蠅くて堪らなかった。
けれど言うべき言葉はすでに肺から喉奥までみっちり装填されていて、次から次へと淀まず出てくる。
「まさか。本当に――」
「そうです! わたしが今日まで守り続けてきたのは、鏡に映るあなたの顔じゃなくて、ッこの三年間、わたしの心を震わせ続けたのは――あなたの言葉です!」
どうして。どうして、そんなふうにわたしを拒絶するの。
誰もあなたが〝化け物であるかどうか〟なんて、そんなこと一言も言っていないのに!
「手紙に並んだあの文字が……! 『アナ』と、『愛している』と、それを書いた人が! わたしのリアン様なのですッ。思いが――魂が、その耳のついた頭の中に詰まっているなら、外側が狼だろうが熊だろうが、知ったことではありませんッ!」
ひとしきり断言し終えると、開いた隙間に冷静が戻ってくる――こんな叫んでみっともない。
でも止まれなかった。眉間に皺が寄り、視野が狭くなる。
頬が熱くて、肩が強張って――。
息をいくら吸っても楽になれない。
それでも、これだけは聞かずにいられなかった。
「そっ、それとも、手紙に並んだあの『愛している』は、すべて虚言だったのですかッ?!」
「――ッ、違う!!」
弾かれたように、今度は旦那様が叫んだ。
けれど――せっかく合った視線はすぐ苦しそうに歪み、沈んでいく。
「――違うッ……違うからこそ……ッこんな姿で、愛する人の前に立ちたくなかった。本当は……ッ、帰ってくるつもりなど、なかったんだ……ッ!」
何かを思い出しているかのように、うろうろと俯いた視線が泳ぐ。
少し開いた唇が、結局固く結ばれる。
「……、……」
「……」
そうして訪れた沈黙。さっきまでの怒鳴り合いが嘘のように……部屋の温度がふっと下がった。
旦那様は、自身を覆うシーツを改めて力なく握りしめて、独り言のように呟く。
「……どうして、帰ってきてしまったのだろう……」
それは聞いているわたしの方が泣いてしまいかねないほど悲しくて――けれど心の底から疑問に思っているような声色だった。
「わたしが、そう手紙に書いたからですよ。何度も……。リアン様、あなたはわたしのせいでここにいるんです」
「……そうか。君のせいか」
リアン様が、ようやく自嘲気味に、少しだけ喉を鳴らして笑った。
そして眉間に皺を寄せ、苦しそうに目を閉じて。
「……ああ、そうだ。私も、君の顔を思い出すより先に、君がくれた手紙の文字を――温かさを思い出して……あの戦場で……」
彼の中の回想が終わり、視線が交差する。
おびえ、怒り、苦しそうだったお顔はどこか晴れ晴れとしているように見えた。
「そうだな。姿形など、私にとっても、とうに意味のないものだったのかもしれない」
大きな手で握りこまれているシーツを、わたしも握る。
いつの間にか、ずいぶん近くにリアン様の顔があった。
一瞬とも永遠とも思える時間見つめ合って――そして磁石が引き合うみたいに唇が重なる。
布ずれの音がやけに大きく響いていた。
その一度きりで、また見つめ合いに戻る。
まるで失った時間を、お互いの瞳の中に探しているみたいな……。
「霞んだ思い出より、ずっと――私の妻は愛らしいな」
鼻先がくっ付く至近距離。
朝焼け色の瞳が、ようやく笑顔の形になった。
――ああ、ちゃんと伝わった。
やっと――伝えることが出来た。
そう安堵した瞬間。
鼻が痛くなって……みるみるうちに視界が歪んでいく。
「――ぅぅ゛……ッ」
「アナッ?! ぁ、す、すまない、」
リアン様が焦り、身じろいでいるのが分かった。
けれど、でももう我慢できない。
頬を伝うのは、何年ぶりの涙だろう。
ずっと我慢していたからか、ボロボロと熱く溢れ出してくる。
わたしの扱いを迷うせいで開いた胴回りの隙間。
リアン様のシーツの中に潜り込むように、わたしは強く強く彼に抱き着いて、
「…ッ生きて、帰ってきてくださって、ッ本当に……本当によかった……ッ!」
三日前に感じた強張りはなくなっていた。
男性らしい硬い体に、涙で汚れてしまうのもかまわず顔を埋める。
ややあってから、上の方でため息一つ。
大きな腕がわたしの背中に回ってさらに密着した。
……慣れていない手つきが頭頂に降りてきて、温かい手が何度もそこを往復する。
「おかえりなさい、リアン様……ッ」
何度夢に見ただろう。
そのたびに掴み損ね、霧として霧散した幻が――今、現実として目の前にある。
「……ああ、……ただいま、アナ」




