86話 帰還
「……ん、……」
ガタン、と風で窓が揺れて、それで起きてしまった。
寒さのせいで瞼がみるみる冴えて、微睡みをすっかり取り払ってしまう。
ああ、こうなってしまっては、起きるしかない。
カーテンの隙間からは、ほの青い朝の光が漏れている。
一瞬だけためらってから、分厚いナイトガウンを着て起き上がった。
カーテンの隙間から、まだ山の影となり深い夜に沈む村を確認する。
……予想したほどは、積もっていない。
やはり去年の寒波が異常だったのか。道に灰を撒くことさえ怠らなければ、苦労は少なそう。
あとで、灰が足りるのかどうかはきちんと確認しておこう……。
「はぁ……」
ため息が窓ガラスを白く曇らせる。
べったりと張り付いたそれは、わたしの心の淀みを表しているようだった。
もう、考えるのはやめよう。と、毎日、毎時間。思い続けている。
村を誰かが訪ね、そのたびに心が引き裂かれそうになるのも辛い。
家族の元に戻った帰還兵の皆を直視できない。村の発展をどこか冷めた感情で眺めている。
頬が強張り、優雅に笑えない。
きっと生きている。待っていてあげましょう。
でももう死んで――王国に還られていたら? もうこの世にいないものを、この先ずっとずっと待ち続けるなんて。まるで針の上を裸足で歩いていくようなものよ。
きっと生きている。そう考えて、リアン様が約束してくださった朝焼けのような未来を考えましょう。
だったらどうして! お手紙の一つも送られてこないの!
頭痛のような心の声に顔を顰めながらカーテンを閉める。
きっと生きていると願うこと。絶対帰ってくると信じること。
縋りついた淡い期待に毎日裏切られ……閉ざしの冬が来てしまえば、数か月間。希望を持つことさえ無駄になる。
リアン様を思い出すたびに、心臓がぎゅっと凍り付いて、苦しい。苦しいと思っている自分自身も嫌いでたまらない。
それでも、そのたびにわたしは思い出してしまう――頭の中に、心の中に、深く刻み付けられている曲線の目立つ文字を。
『故郷の安寧を期待する』
最初は、それだけだった。冷たくて硬い、領主としての義務。
『君の日常の中に私がいないという事実が、どうにも口惜しいのだ』
その指先が、いつの間にかわたしの心に触れていた。
『帰還の折には、君の唇からリアンと呼ぶ声を聞かせてくれるか』
それだけで、一生分の冬を越せると思ったのに。
『君を守るために、ずっと欲しかった力だ。けれど――自分自身が、とても恐ろしいと思う』
わたしの身を案じる言葉、未来を夢想した言葉。小さな弱音と、大きな絶望。でも最後の行には必ず、
『愛している、アナ』
と、そう綴られている――。
わたしは机の上の鉱石ランタンのスイッチを回して明かりをつけると、発作のような素早さで新しい便箋を取り出した。
ペン先を扱くのも忘れて、切っ先を紙に刻み付ける。
あて先はアデレナ・ベネディ。わたしがこの世で一番頼りにしている人。
――我が夫、ジュリアン・ヴァルデリウス男爵の行方の捜索に協力していただけませんか。
――夏に戦場から馬を自分で逃がしたそうなんです。
――だから、ハルデン平原にいたはずなんです。
「どうか」
――どうか、生死だけでも、
「――……ッ゛、」
そこまで書いて、わたしはいつも手紙を衝動的に丸めてしまう。
何をやっているの。と全部の感情が口々に叫んでいる。
こんなのは辛いだけだと分かっているのに、何度も……止められない。
でも、だって、それで調べた結果本当に戦死報告が届いたら……。
「……――ぅぅ゛、」
息が止まる。苦しくても吐き出せない。顔を覆う。
血まみれの認識票。そんなの、想像するだけで動悸が止まらなくなるのに。
ああでも。冬の彩雲糸納品直後のこのタイミング。
商会の馬車砕氷の銀蜂が雪かきをしてくれた道を通って、閉じる前にもう一度ぐらいラフェンさんが来てくれるかも。
その時に手紙を出せれば……本当に探してほしいのなら、一刻も早い方がいいに決まってるのに……。
丸めた便箋を少しだけ開いて、暖炉の熾火に放り込む。
ぽっと音を立てて、便箋からあっという間に炎が上がった――その時。
――ヒヒィィイインッ!! ヒヒィィィン!!
地響きのような、これまでに聞いたこともないウェグの嘶きが聞こえた。
「ッ゛⁉ な――ッ゛??」
一瞬、馬の声とは思えなかった。
こんな悲鳴のような、必死の鳴き声は聞いたことが無かったのだ。
上着を羽織る間も、ヒィィン、ヒィィン、とウェグの絞り出すような嘶きは続いている。
どうしたのだろう。何かに驚いて――そして怪我でもしたのだろうか。
冷たいドアノブを握り締める。
部屋を飛び出して行く数秒間。わたしは濃厚な〝嫌な予感〟に包まれていた。
雰囲気が――あの灰色の夜の悪夢に似ている。
旦那様の、死亡通知と血まみれの認識表が届いたあの夢。
肺が搾られるような、そんな幻痛が胸の中に満ちる。
いやだ、確認したくない。
けれど、誰かに任せ、放っておくことも出来ない。
だってウェグは、旦那様の戦友で――今やわたしの大事な、同じ欠落を共有する片割れなのだから。
苦みが頭の中をぐるぐると回る。
眩暈で転ばないように手すりを持ち、膝前の布を握りながら、大急ぎで階段を降りていく。
玄関ホールには誰もいない。
そのまま、厩舎へ続く屋敷の裏口へ足を向けた、その時。
ぎい。と玄関扉が開いた。
エントランスホールに突風と雪の粒が吹き抜けていく。
「――ッ゛、ぅ」
反射的に腕を前にして顔を逸らし――それから何が起こったのかと恐る恐る扉を見る。
再び固く閉じられた扉。その前には、歪な形をした影があった。
――影。としか表現できない。外はまだ暗く群青に沈んでいて、玄関ホールだって薄暗かったから。
そのとき。
「――ジュリアンッ!!」
「――兄さんッ!!」
同じくウェグの声に異変を感じて集まっていたお義父様とエドワード様が、わたしの斜め前を駆け抜けていった。
押し倒しかねない勢いでその人影に飛びつき、氷のついたマントを構わず抱きしめる。
「よく戻った! よく戻った!」
「よくぞ、ご無事で! 兄さんッ!」
歓喜の声。わたしはその場で、足の感覚を失って立ち尽くす。
お義父様たちの明るい涙声が、遠い対岸の出来事のように聞こえる。
「……っ、さあアナスタシアも。さあ、来なさい!」
お義父様が、二人で抱き合っていた隙間をわたしに開けてくれた。
わたしはおずおずと、けれど吸い寄せられるように近づく。
至近距離。フードの奥の顔は見えない――否、その暗闇の中で、肉食獣のような鋭い金瞳がちらりと光った。
本当に――?
わたしは震える手を、そのマントの下。みぞおちの辺りに触れる。
その瞬間。お二人に上から覆い被さるように、ぎゅうぎゅうに抱きしめられた。
「……ッ!」
大きな身体に挟まれ、無理やり彼に密着する。
鼻腔を突いたのは、ウェグから香った硝煙の匂いでも、村に満ちる植物の匂いでもない。
――血。そして、冷たい森の、深い緑の匂い。
「……ただいま、戻りました」
最愛の人の、初めて聞くような掠れ声。
頬を押し当てたその服の下。
安堵とは程遠い強張った筋肉の脈動を、わたしは確かに感じていた。
ようやく二人が離れ、わたしも旦那様からわずかに離れることが出来た。
男の力でぎゅうぎゅうにされて息苦しいのもあったけれど、とにかくもっとよくお顔が見たかったのだ。
はやる気持ちで見上げると……旦那様の目深に被っていたフードは、激しい抱擁のせいでずり落ちていた。
高窓から、ようやく朝日の光が差し込んでくる。
灰黒色に染まった髪が露わになる。
その隙間から、ぴくり、と獣耳が覗いた。
「ジュリアン、それは……」
お義父様の声は、歓喜から一転。心配と戦慄が滲んでいるようだった。
エドワード様も言葉を失い、ただ兄のその〝異形〟を見つめている。
旦那様は諦めたように瞳を伏せ、自らの耳を隠そうともせず、掠れ声で呟く。
「あとで、説明します。……ですが今は、」
彼の視線は、わたしと交わることなく自身の足元へ、そしてその奥の薄暗い廊下へと向けられる。
その瞳は、かつての理知的な旦那様のものではなく、獲物を前にした獣のように鋭い。
お義父様はハッとしたように、震える手で息子の肩を叩いた。
「ああ、そうだな。……疲れただろう。本当によく、生きて戻ってきた。さぁ、ゆっくり休むといい、あとで湯と食事を届けさせる」
「……はい」
けれど、届けられた湯が冷め、食事が凍りついてもなお――旦那様がその扉を開くことはなかった。




