85話 判決
「――全員を無罪とし、その身柄を余がもらい受けよう」
場内が激しく揺れた。
軍部が、研究棟が、権利と危険性を主張して叫ぶ。
王は騒めく群衆を、碧眼で静かに見渡した。
やがて静寂が戻ったとき――王の声が凛と響く。
「誰も、必要としていないのであろう。ならば、この歯車は真に、王たる余のものだ」
そこからの光景は、ジュリアンにとって信じ難いものだった。
王は灰色のひげを撫でながら、机上に積まれた分厚い証拠書類を一蹴し、その欺瞞を一つずつ暴いていく。
「そもそも、この公訴事実はすべて真実か? 証拠ばかり分厚いが、被告人らは一貫して否認しているではないか」
「……そ、それは、こやつらは既に精神の混濁が激しく、供述の任意性も信憑性も皆無でありまして――」
「この証拠品も――すべてロズベルグ家の手の者が精査したものだな。確か、捜査員全員が右院の関係者であろう。『相互監視の原則』に基づき、右院・左院双方が立ち会った上で証拠能力を担保せねばならぬという、我が国の法典はどうしたのだ。……裁判長、貴公は法を語る口で、法を汚しているのか?」
「そ、それ、は……」
「ジュリアン・ヴァルデリウス大尉は、末席であろうと――建国当時から我が国の最北を守護し続ける、高潔なヴァルデリウス男爵家の当主であるぞ。その誇りを、一介の官吏が捏造した紙切れ数枚で汚すことが許されるとでも思うたか」
右院と左院の癒着、ロズベルグ家による証拠の捏造。
王が静かに言葉を重ねるたび、先ほどまでジュリアンを「化け物」と罵っていた裁判官が、小さく震え、椅子の影に萎んでいくようだった。
するとどうだろう。
王の言葉が法廷の空気を塗り替えた瞬間。傍聴席を埋め尽くす貴族たちが少々のざわめきの後に、まるで示し合わせたかのように一斉に手のひらを返した。
「なんて酷い裁判だ! 王国の名誉を汚す捏造ではないか!」
「見て、あんなに傷だらけで……。国を守るために改造を受け入れた証だったのね。なんて可哀想に!」
「軍部の暴挙だ! 救いが必要な英雄に対して、あんな重々しい鎖……あんな首を締め上げるような拘束具を嵌めたままにするなど!」
「人道に悖る行為ではないか! 不正は断じて許されない!」
ついさっきまでおぞましい化け物と死を願い蔑み、鎖の音に悲鳴を上げていた口々が、今は慈悲と正義を熱狂的に叫んでいる。
薄虹色の装飾を揺らしながら涙を拭う婦人。隣の者と憤慨を分かち合う紳士。
彼らの瞳に宿っているのは、真実への反省などではない。
王の御心に同調し、自分たちが〝正しい側〟にいることを誇示したいという、浅ましくも強欲な自己承認だ。
ジュリアンの研ぎ澄まされた狼耳は、その絶叫の合間に混ざる、「これで軍部の予算が削れる」「出しゃばりロズベルグ家がやっと地に落ちたな」という計算高い囁きさえも零さず拾い上げてしまう。
彼らにとって、自分たちは『石を投げる対象』から『同情を寄せる対象』へと、娯楽のジャンルが切り替わっただけに過ぎないのだ。
その瞬間。ジュリアンは拘束具が痛むのもかまわず俯いた。
喉の奥に、焼け付くような酸っぱいものがこみ上げてきたからだ。
――ああ、反吐が出る。
目の前で騒ぐこいつらは、一体何なのだ。
昨日は石を投げ、今日は憐れみをかける。
その浅ましくも不気味な群衆と、自分もまた同じ貴族という身分であること。
吸っている空気さえも、今はただ忌々しい。
………
……
…
数日後に行われた追加の審理を経てもなお、王が下した無罪の判決が覆ることは無かった。
簡素な設えの小部屋。
数人の親衛隊のみを連れた王の前に、ジュリアン達はいた。
晴れて無罪となったが、その身柄は王のもの。
けれど王は――「そなたらの願いをまず、聞こう」と、獣達を真っすぐ見つめたままそう言った。
ジュリアンの獣耳がぴくりと跳ねる。今の声――どこかで……。
顔を見合わせたディートリヒ、ブルーノ、エリック、カスパル――出自が平民の彼らは、一様に自虐的な笑みを浮かべた。
「軍に食わせてもらうつもりだった。帰る場所などもとよりない」
「こんな姿、家族には見せられない。死んだものと思ってほしい」
――そうして、剥き出しの絶望を吐き出した彼らは、互いの欠落を埋め合わせるようにして、揃って王直属の親衛隊へとその身を預けた。
「僕は、誰にも縛られず、研究を続けたいです……あと、僕たちの鎮静剤の研究と製造許可がほしいです。僕らにはまだ、あれが必要ですから」
オスカーは、自らの家を捨て、名なき研究者として生きる道を選んだ。
王は顎ひげ撫でながら「余が用意しよう」と短く応える。
ずっと――弱り果ててもなお皮肉屋のような顔をしていたオスカーは、やっと安堵に眉を開く。
数日たってもボコボコの顔に涙を浮かべ、王の足元へと生涯の忠誠を誓う最礼を捧げた。
そして、ジュリアンの前には、すでに整えられた目録が置かれた。
領地への帰還の許可。
子爵への昇爵。
そして――莫大な額の金貨。
それは「社交には戻ってこなくていい。北の果てで静かにしていろ」という、この上なく上品で残酷な隔離の宣言――あるいは、外敵からも政敵からも隔絶された、王が与えうる唯一の聖域でもあった。
去り際に王はジュリアンの手を自ら握り、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
高潔な碧眼と、獣の虹彩を持つ金が混ざり合う。
「誰が何と言おうと、我が英雄よ。……大儀であった」
全国民にシステムたれと願われ続けるエルドリアス王国国王が、精一杯表情を柔らかくしているのがジュリアンには分かった。
その体温を、ジュリアンは一生忘れない。
――さらに数日後。諸々の処理を済ませ部下たちの行く末を見守ったジュリアンは、最後に王城を後にした。
人と獣。四つの耳を隠すため、ヘルメットの上からフードを目深く被る。
城下町では、機械の手足を付けた帰還兵たちがせかせかと働き、平和な日々を謳歌していた。
ジュリアンは少しだけ目を見開く。敵国の技術が、もうこの国の日常を浸食している。
丈の長いマントの前を拳で握った。翻って自分の、なんと血なまぐさく、歪で醜いことか。
――薬が切れれば、すぐにでも化け物に逆戻りさ。
――見て、あの耳……。
――なんておぞましい!
貴族たちの否定の言葉が、今も耳の縁を冷たく撫でる。
城下を抜け、道は二股に分かれていた。
左へ行けば、豊かな商業都市コンメルタスを経て、アナスタシアの待つ故郷ヴァルデリウスへと続く。
右へ進めば、錬金学術都市フェルフォードの奥、神秘が息づくシルイーダ原生林へと至る。
ジュリアンは迷わなかった。
皮肉なほど綺麗な秋空の中。右の道へと一歩を踏み出す。
すべてを失い、すべてに失望した今。
この歪な肉体に、たった一つだけ残された『約束』を果たすために。




