88話 愛しい傷
スン、スン、と鼻をすする音が長く続いていた。
いつの間にか、わたしばかりが前のめりになってリアン様に縋り付く体勢から変わって、抱き寄せられた膝の中。
わたしの肩がリアン様の胸板に触れるような、そんな形になっていた。
「……アナ。泣き止んだか」
「ッ、はい、お見苦しい所を、お見せしました」
言いながらも、目の中に残った最後の涙が溢れそうになってしまう。
もうすでに湿りすぎで色の変わった白手袋でその涙を拭おうと俯いた――その時。
がっしりと両手首を掴まれて、最後の涙は拭われることなく、顎先から滴っていった。
「ぁ、えッ」
「……なぜ、室内でまで手袋をしている? ほら、こんなに熱く……汗ばんでいるだろう。脱いだらどうだ……それとも、素手で獣に触れるのは怖いか?」
まるで罪人のように捕まってしまった状態。
旦那様の自虐的な言葉はもう冗談の域にあると分かっているけれど。それでも泣いて強制的に上がっていた体温が、指先まで一瞬で凍り付いていく。
「っ、いいえ、そんなことは決して! こ、これは……その、指先は冷えるからですわ。今年の冬も寒いですし」
「……、……」
斜め上から耳元にかかる旦那様の吐息。
ため息の色をしたそれに肩がぎゅっと固くなった。
できることなら、直接触れたいに決まっている。
でも、けれど――ああ、今になってリアン様が三日もすべてを拒絶された理由が身に染みるようだった。
「ぁ……、……ッ」
指二本で挟むようにして、器用にリアン様の親指が手首のボタンを外してしまった。
手袋の中。手のひらの隙間に人差し指がするりと潜り込む。
よりによって右手の方に滑り込んだその指が、まるで何かを探し求めるかのように手袋の中を弄り――手袋自体がめくれ上がったことで、親指の付け根の赤がちらりと見える。
「嘘だな。……これは、私には見せられないものか?」
「……ぁ、ぃえ、そ、のッ……」
手のひらがくすぐったい。
リアン様に顔を覗かれるだけで頬が異常に熱くなる。
見ないで。とは言えない。
だって今さっき、わたしたちは見た目の問題など気にしないと確かめ合ったばかりなのだから。
左手をほったらかしに、右手首を掴むリアン様の手は相変わらず温かい。
手袋を脱がせるために、ゆっくりと指先を一本ずつ摘まんでいく動きに逆らえなくて――全身がドキドキと脈打つ。
脱がされるままにしていると、ついに皮膚面積の半分を斑赤に覆われた、醜い右手が露になった。
「ぅぅ……」
「ッ……火傷……、」
未だ先端に白濁を残す爪先を撫でられながら。すぐ真上にある旦那様の喉仏が上下する。
きっと嫌われない。分かっている。信じている。それでも怖い。恥ずかしくて……早く手袋を返してほしい……!
「せ、あの……説明します、から、手袋を返してください……!」
「説明が先だ……左手も没収とする。寒いなら私の手を握れ」
ぱち、とボタンを弾いて外し、中指を持ってすんなりと左手も裸にされてしまった。握りしめられた手袋はこれ見よがしに腕を伸ばし遠くへ。
そして――わたしの両手を、リアン様は片手でほとんどを包み込む。
「ぅぅ……えぇと、ですね……」
今日この日を迎えるまでの三年間。本当に沢山のことがあった。
だから、どこから話せばいいのか分からない。
「……まず、ヴァルデリウスのような極寒の地で生産される雪糸は、他地域で生産されるものよりもわずかに虹がかっていることに気が付きました。旦那様が出兵されたあとに調べたところ、超高温、超低温に晒すことでさらに虹色が強く出ることが分かりました。ノイヴァルト家では、偶然発生したそういう糸を集めてまとまった金銭にしておりましたので、これが売れることを知っておりました。……わたしは、アデレナ姉さまに連絡を取って、ルク、その虹色の糸、『彩雲糸』を姉さまに――ベネディ商会に買い取っていただくことにしました」
ここまで話しても、まだ火傷のやの字も出てこない。
さっさと本題を話せ、と思われただろうか。
不安になって見上げると、蜂蜜色の瞳が優しく弧を描いた。
一度頷いて、先を促してくれる。
「……上級貴族向けの商品となるため、また、戦時中であったため……しばらく、機密保持として工房に衝立を立てて、一人で糸を紡いでおりました。と、……当時は治具もなく、やかんの口から出る蒸気に、直接手が当たりかねない作業環境でした。そして……わたしは功を焦ってしまい、このような、手になってしまいました……」
糸に高温を。のくだりで一度包まれていた手が開かれた。
赤をなぞるように、何度も旦那様の指がそこを往復する。
火傷痕は普通の皮膚とは違い、質感もつるりとしているし感覚も敏感に受け取ってしまう。
だからその指先が赤を撫でるたびに背中がムズムズする程度にはくすぐったいけれど――でも、そうすれば治ると信じてるみたいに熱心に触れられては、一気に申し訳ない気持ちになる。
わたしは慌てて言い訳を重ねた。
「で、ッですが、得られたものも大きかったのです。姉さまと相談し、糸と食料をここヴァルデリウスにて交換する取引にいたしました。そのおかげで戦時中の二年ほど、毎日全員に一杯ずつスープを配給することが出来ました。手紙にも書きましたね。『温熱配給』のことです」
「――ッ二年間、九十一人全員にか?」
本当に? と驚愕を表すかのように、両手ひとまとめにぎゅう、と握られる。
その一切逆らえない男性の力にみぞおちがいけない震え方をした。
ドン、と心臓が一度跳ねて……けれどそれは長く続かない。
「ぃ、いえ……旦那様が出兵されたあと、さらに勅令で三十二人、志願して二十二人村を出ましたので、三十七人です。そして……、……旦那様。ミーナという少女のことも、お手紙にて伝えさせていただきましたね」
わたしは白状しなければ。あんなに何度も『故郷の安寧を期待する』とお手紙に書かれていた――旦那様の愛する領地で、わたしは……。
「実は……さらに三人……去年の冬、損耗いたしました」
一度泣いてしまったことで涙腺が緩くなってしまったのか、また一気に瞳が潤んでいく。
それを隠したくて下を向いた。リアン様の大きな手が、わたしの手をしっかりと包み込んでいる。
そこに、最初の一粒が落ちて……。
「――去年、約二十年振りの大寒波に見舞われた我が領は……戦時中ということもあり、彩雲糸で稼いだ食料を合わせても……ギリギリの状態でした。一日一杯のスープは、工房か警備隊か――いずれにせよ働いた者に、し、支給して、いたのですが、」
震える唇がどんどん言葉を紡いでいく。
説明しなければいけない。けれどこんなの言い訳みたいだ。
この期に及んで泣きながら。取り返しがつかないことなのに……。
「ね……ッ寝たきりになってしまった老人……ゲルダ、ロッタ、エルナ……この三人は、失うには惜しい糸車の技術や知識を持っておりましたので、冬を越せるように、わたしの判断で家まで直接スープを、届けていました……」
薄暗い天蓋の中。脳裏には――赤豆の積まれたスープと、並んでベッドに腰かけ、まるで少女のように他愛ない話をしていた三人の――最期の姿が走馬灯みたいに流れていく。
――あんたはよくやってる。
――いつか、戦争が終わったら。
「そ、……そして、あ、あの吹雪の日、歩けるまで回復した三人は、みっ自ら」
三人分の足跡が西の山に消えた。
声が震える。その当時は泣きたくても泣けなかったのに。今、その時に次いで涙をこぼしてはいけないのに。
頬に触れ、涙を拭いたかった。
でも蠢くたびにリアン様に強く両手を押さえつけられて動けない。
それを、「泣いていい」と許されているみたいに感じてしまう。
「自ら、ね――眠りの洞窟へ」
「あの場所を知ったのか?!」
旦那様がぐっと前のめりになったせいでさらに密着し、溢れる涙でボロボロの顔を覗き込まれた。
わたしはたまらず視線を逸らし、俯いて。
「お――お義父様に……昔の、ことを教わりましたが、場所は、お、教えてもらえませんでした」
「――あぁ、そうだ。知らなくていい。……一生」
掻き寄せるみたいにきつく抱きしめられて、頭頂にリアン様の頬が乗る。
安堵のため息が帳の中を漂って、そして消えていった。
どくん、どくん。密着した分大きく聞こえる鼓動が、そのままわたしの体に染み込んでくる。
「わたしは、ただ……あの、雪かきさえされない家で……放置して――そ、損耗、壊したくなかった。失いたくなかったッ、沢山まだ、教われることが、あったのです。それなのにッ」
「アナ……」
「わたしが、スープを届けたことを、苦に、わたしがッ……」
歩けるようにしたから、あの三人を。
涙のままにそう言いかけたけれど、手を押さえていたリアン様の手が肩を強く抱いたことで留まる。
「それは、違う。アナのせいではない」
頭頂の頬が離れ、そしてまたくっ付くのが分かった。
何としても、分かってほしい。そう思って、わずかに戸惑う仕草。
「……いいえ……、」
熱く干からびた喉に唾液を押し込んで、スン、と鼻を鳴らす。自由になった手で涙を拭いながら。
「いいえ。……お義父様も、そうおっしゃっていました。分かっています。きっと答えなど――正解などないのでしょう。わたしは……わたしは、……分かっています。分かっているのです」
幼く、同じ単語を繰り返してしまう。
それでも、結論は変わらない。
善か悪かに答えをつけることはできない。それでも――「何もしない方が良かった」なんて答えを、わたしは許せない。
「それに」
一人で勝手にではあるけれど、一応の結論が出たことでわたしは思考を切り替えることが出来た。
鎖骨が痛みかねない程度にはギチギチに抱きしめられていたけれど、ほんの少し腕を動かせば力が弱まる。
わたしは上半身を起こすようにして――涙で真っ赤になった瞳で、それでもリアン様を見上げる。
「わたしの……火傷傷に限っては、それだけはリアン様の――」
彼のよれたシャツの襟元から覗く、首筋の火傷痕。
「この赤いのと、お揃いだ、なんて……不謹慎ですが、今となっては、そう思い、ます」
す……と、首筋を人差し指でなぞり、わたしと同じく痛まなそうなので、親指を根元までくっ付けて撫でてみる。
肌が突っ張った同じ赤。同じように斑に膨らみ、つやりとしたまま一生戻らない皮膚。
なんて愛おしいのだろう……。傷跡に、そんなことを思う日が来るなんて……。
「……ッアナ」
きっとくすぐったいと分かっている。
それでも仕返しみたいに執拗に首筋を撫でていた手は――またしてもがっしりと掴まれてしまった。
「ぁ、……ッ」
びっくりしてのけ反る間もなく――大きな思いを抑え込むみたいに目を閉じながら、わたしの手を強くその頬に押し付ける。
数回の深呼吸。それから襲い掛かるみたいに素早い動きで手のひらに数回、手首、腕中まで衝動的に、何度も唇を押し当てて……そしてまた、火傷ごと抱きしめるみたいに頬にくっ付ける。
「アナ、アナスタシア。良くここまで――これほど……私は、君にどうやって礼を……この思いを伝えればよいのだろうな」
少し掠れた、低い声。わたしは、碌な返事が出来なかった。
そんなことよりも、この一瞬で行われた口付けが――あの伏せられた金色の瞳、手のひらにかかる熱い吐息と、唇が離れるほんの刹那、舌先が肌に触れるのが――官能的過ぎて……茹りそうなほど赤くなることしか出来なかったのだ。




