82話 過去
エルドリアス王国の最北端、地図の端に小さく記されたその場所が、ヴァルデリウス男爵領のすべてだった。
冬が訪れれば、世界は音もなく白に塗りつぶされる。
街道とは名ばかりの山道は深い雪に埋もれ、春が来るまで外界との繋がりは完全に断たれてしまう。
そこにあるのは、凍えた息を吐きながら身を寄せ合う、たった一つの小さな村だけだ。
険しい峻嶺を一つ挟んだ先には隣国が控えているが、あちらは長引く内乱でそれどころではないらしい。
わざわざこの雪深い山を越え、ここへ攻め入ろうという物好きな兵など、どこにもいなかった。が――どちらの勢力ともつかない山賊は稀に拠点を作り活動を始めることがあった。
故に、こんな辺境でも毎日の警備は必須で、帯刀も欠かさない。
都会の貴族学校へ数年間寄宿し、病弱な父から爵位を継いだ後も、都会で錬金術の灯りに照らされた街を知っても――ジュリアンはこの静寂を愛していた。
警備の合間に高台から眺める景色――天を衝くほど険しい山嶺は、白銀を湛え、何度見ても胸が震えるほど美しい。
針葉樹の枝に積もった雪が陽光を浴び、無数の銀細工のように輝いている。
さらに麓では、家々からパンを焼く朝の煙が細く立ち上っていた。
凍てつく空気の中に溶けていくその微かな暖かさこそが、彼が最も慈しむべき光景。
この純白の景色と、そこに息づくささやかな営みを守ること。
それこそが、貴族たる自分の歯車の唯一の役割なのだと、ジュリアンは疑いもなく信じていた。
だが、美しさだけでは腹は膨らまない。
特産品である雪糸は、雪のような白さを持つ強靭な糸だが、厳しい寒さの中でしか作れず、生産量はたかが知れている。領民が一年を食い繋ぐには、あまりに細く、心許ない糸だった。
領民たちの暮らしは、白一色の景色の中で、ただ凍えないように耐えるだけのもの。
「もう少し、この土地を良くできないものか」
そんな、祈りにも似た小さな不満が、ジュリアンの胸の内で静かに回っていた。
――アナスタシア・ノイヴァルド。
その名前を持つ女性と初めて会ったのは、結婚式の当日だった。
小綺麗な青のドレスに身を包んだ彼女は、石像のように白く硬直している。
宣誓を読み飛ばし、たどたどしくつっかえる彼女を見て、ジュリアンが覚えたのは――「この子は、息をしているのだろうか」という、事務的な心配だけ。
初夜は、義務だった。
彼女が痛がっていたのか、あるいは喜んでいたのか、ジュリアンには分からなかった。
彼はただ、家名を繋ぐという『仕事』をこなしたに過ぎない。
次の日の夕食に再び食堂で顔を合わせた時、これからもこの少女が屋敷に住むのだという遅ればせな事実に、ジュリアンは少しだけ気まずさを感じた。
それが、彼のアナスタシアに対する最初の、そして唯一の人間らしい感情だった。
開戦の知らせが届いた時、ジュリアンは内心で膝を打った。
「これなら」
この戦争で武功を挙げれば、王から褒美が下される。そうすれば、ヴァルデリウスの土を、もう少しだけ豊かにできるかもしれない。
金貨さえ手に入れば、やってみたいことがいくつかあったのだ。
勅命も下っていないのに、ジュリアンは弟に当主の座を任せ「これこそが私の役割だ」と、晴れやかな心地でウェグに跨り戦地へ向かった。
………
……
…
勅命なしに国王のもとへ馳せ参じたのはジュリアンだけではなかった。
彼らは『義勇先遣隊』と呼ばれ、西部へ配属されることになる。
戦地に着くと、ジュリアンはまず親へ事務的な配属報告を送った。
そのついでに、屋敷に残してきた新しい夫人のことを思い出して……。
『北はもうすぐにでも本格的な冬に入るだろう。ノイヴァルド領よりも、こちらの冬は厳しいものになるはずだ。
領内の食糧と燃料の備蓄総量を確認し、エドワードと状況を共有しておくように。
故郷の安寧を期待する。』
そう一筆書き添えたのは、彼女への情ではなく、自らの不在中に家政が滞ることを懸念した、歯車としての配慮。
しかし、返ってきた手紙は、ジュリアンの想定をはるかに超えていた。
『ご指示いただきましてすぐに、倉庫内の在庫を確認してエドワード様と備蓄総量の情報共有をいたしました。
結果といたしましては、献上分を差し引いても足りるとお義父様にご判断いただきました。
食料に関しましては前年の狩猟が豊作であったため、干し肉に十分な余裕がございます。
燃料に関しましても、数年前より計画的な炭の備蓄を進めておりましたため、仮に冬がこれ以上厳しさを増したといたしましても、領民共々凍える懸念はございません。
わたくしが確認のために作成した要点のみの備忘録ですが、現在の在庫表を同封いたします。』
真面目で分かりやすく、寸分の狂いもない手紙。
ジュリアンは『了解いたしました』と返ってくれば御の字だと思っていた。
それなのに彼女は、嫁いできた以上この土地で生きていく覚悟を示し、父と弟とも連携して、備蓄の状況まで把握してみせた。
ジュリアンは戦場の泥の中で、その手紙の文字に――彼女に対して、初めて心が温まるのを感じた。
………
……
…
一度西へ押しやった戦線が、また押し返されている。
戦場の空気は急速に血と硝煙にまみれ、顔を覆いたくなるような日々が続いていた。
昨日取られた数メートルを取り返すため、愛馬に跨り戦場を駆ける。
敵を斬り、撃ち殺す感覚は、いつまで経っても胃の腑がひっくり返るほど気持ちが悪かった。
そして――ほどなくして泥の中から現れた敵の機械兵器は、王国の剣や銃を嘲笑うほどに硬く、苦戦を強いられる。
ジュリアンは自らの指示で、部下たちを次々と犬死にさせ続けてしまった。
背負いきれない責任と無力感に苛まれる中で彼を繋ぎ止めていたのは、アナスタシアとの文通だけだった。
しかし言葉を重ねるうちに、ジュリアンは新たな悩みに直面した。
――自分は彼女のことを何も知らない。
目を閉じれば小柄で黒髪の女性が浮かぶ。けれど、その顔はもう思い出せない。
戦場で唯一の『光』だった彼女に縋るように、ジュリアンは無礼を承知で――精神的に満身創痍であった彼はついに、『もし差し支えなければ、その日あった小さなことでも構わぬゆえ、私に教えてくれ。』と送ってしまった。
返ってきたのは、またしても満点――今のジュリアンにとってはそれ以上の手紙だった。
貴族として教育を受けてきて――結婚式も、初夜もあんな様子であった彼女は、きっと自身のことなど語りたくはなかっただろう。
けれど、ジュリアンの無躾な願いに、誠実すぎるほどの言葉で応えてくれた。
『わたくしは、甘味を好みますが、実はわずかな辛みを伴うもの、例えば唐辛子を添えたホットチョコなどが好きです。』
『納品予定に遅れはないかの確認もかねて、午前中はずっと作業場で紡績のお手伝いをしております。』
『このようなご時世に不謹慎と承知しつつも、この襟飾り作りだけはわずかなながら楽しみでございます。』
『このヴァルデリウス家に嫁ぐことができ、心の底より幸福に存じます。――ですが、最後の要がまだ満たされておりません。』
ジュリアンはその行間に、確かな愛を感じ取った。
しかし――どうして自分は、彼女の生活の隣にいないのだろう。
こんなに頑張る彼女を、隣で労いたい。今日あったことを、直接聞きたい。
戦地に来たことを後悔はしていない。
だが一刻も早く、彼女の元へ帰りたい。
男爵としての義務の一部としてではなく、ジュリアンという一人の人間として、彼女の隣に座りたかった。
その人間らしい渇望が彼の心の中で『恋』と名付けられ、手紙の上ではあったけれど「アナ」「リアン様」と愛称で呼び合うようになるまで、そう時間はかからない。
しかし――芽生えたばかりの深い愛を思い知ってか知らずか、王国はジュリアンが人間のままであることを許さなかった。




