80話 要塞
号令と共に地を蹴ったジュリアンの肉体を、粘り気のある油の霧が一瞬で包み込んだ。
布切れで出来たマスク越しでも空気は肺を焼くほどに重く、舌の奥が痺れるほどに苦い。
隣を走る隊員が「うぐ、」と短く悶絶する。
ジュリアンは黒い唾を吐き捨て、さらに速度を上げた。
視界にあるのは、胸元のランタンが照らし出す足元数メートルの蒼白い円形だけ。
伸ばした指先さえ闇に溶ける異常な濃霧。その深淵の向こうから、ブシィィ……ブシィィ……と波打ち際のような不気味な音が響いてくる。
黒霧を吐き出す排気音。それが敵本陣の鼓動であることを祈り、彼らは闇を切り裂いた。
道中、熱源を探知した泥蜘蛛が猛スピードで肉薄する。
「――ッ゛!!」
ジュリアンは脊髄反射で熱源囮を投じ、囮に群がった鉄の塊が自爆する衝撃を背に受けた。
拳でゴーグルの汚れを乱雑に拭い、ようやく辿り着いた音の正体は――。
「……ダミーだ」
地面に突き刺さった、数メートルはある鉄の大杭。
その先端から、絶望を象徴する黒い息が吐き出され続けている。隊員たちの間に、逆立った神経から漏れる舌打ちと落胆が広がった。
「警戒を怠るな。速やかに破壊する。ロラン、手伝え」
制御盤に爪を立て、鉄板ごと内部の配線と深核石を引き千切った。
最後にパイプを踏み潰した――その瞬間。
ガシャガシャッ!! と、死神の足音が暗闇から躍り出る。
至近距離、同じ高さに並ぶ赤い瞳。
泥蜘蛛の奇襲に、ジュリアンは後退を――。
「大尉、遠くへッ! ――あぁぁ゛ぁ゛ッ!」
そのとき、一人の馬が、蜘蛛の鼻先にある起爆装置をかわし、細い足だけを掴んだ。
筋肉質な腕で胴体を爆発しないように抱え込み、そのまま闇の彼方へ疾走していく。
その数秒後、遠い轟音と共に――誘爆の火柱が長く尾を引くのが見えた。
頬を撫でたのは、部下の最後の体温。
「……ッ゛……、」
ちくしょう。吐き捨てたい罵倒を喉の奥に固め、ジュリアンは胸元の時計に冷光を落とす。
――ゼロイチヨンサン。砲撃開始まで、あと二時間と十八分。
やり場のない悔しさを抱えたまま、ジュリアンは再び駆け出した。
泥蜘蛛と蒸気の音を獣耳で聞き分けながら、中央を目指す。
その時――。
ヒュウウ、と風に乗って犬笛の音がした。
ジュリアン達は顔を見合わせるでもなく、一斉にその方角へ転身。全力で走り出す。
五分ほど走ったところで、動く鉄の壁が行く手を塞いだ。
その錆鉄色の壁が――要塞そのものが、今もなお王国へ向かって前進を続けている。
歩兵はもう、きっとこの暗闇には耐えられない。今夜、自分たちが全てを終わらせなければ。
犬笛が何度か闇に木霊し、散っていた九人が合流する。
他の隊員は、間に合わなかった。
その事実を「遅れているだけだ」と心に蓋をし、豹の爪と馬の脚力で外壁の薄い所を食い破る。
ゴーグルを外しながら時間を確認する。
――ゼロニゼロゴ。砲撃開始まで、あと一時間と五十五分。
そうして侵入した廊下は、まるで巨大生物の腹の中のようだった。
等間隔に並ぶ赤い監視灯が、侵入者を冷たく見下ろしている。
「一列になれ。これより、銃の使用を許可する」
ジュリアンがそう指示を出すと、油にまみれないように布に包まれた銃火器が音もなく引き抜かれ、各隊員の手に収まっていった。
進めのハンドサイン。
敵軍の腹の中を、獣の感覚だけを頼りに進む。
……あまりにも静かすぎる。
廃墟のような回廊がずっと続くばかりで、その虚の中を反響する金属の重低音ばかりが轟々と満ちているのだ。
赤に照らされた廊下を進んでいくと、突き当たりの闇に、上層へと続く無機質な鉄の手すりが浮かび上がった。
ジュリアンは拳を上げ、後続に停止の合図を送る。
九人の気配が、一瞬で石像のように静止した。
「――カイル、二班を連れて二階を。オスカー、三班は一階の退路を固めろ。何かあれば犬笛だ。……行くぞ」
カイルたちが音もなく二階の踊り場へ吸い込まれ、オスカーたちが一階の奥へと背を向ける。
ジュリアンは二人を引き連れ、一段飛ばしで三階への階段を駆け上がった。
三階には――目当てのひとつである指令室があった。
青白い光を放つ四角い石が壁一面に敷き詰められ、手前にはそれらを制御する操作盤と椅子。
誰かがあそこに座り、今も尚操作を続けていることは明白だった。
ジュリアンは扉を開けて制圧する前に時刻を確認した――ゼロニヨンサン。砲撃開始まで、あと一時間と十七分。
ハンドサインで指示を出し、速やかかつ慎重に部屋に侵入する。
銃口を向けて――そこで、ジュリアンは仲間に攻撃停止の指示を出した。
いくら何でも、反応が無さ過ぎる。
けれど誰かが、カチャカチャと操作を続けている――恐る恐る椅子に座っているモノを確認して……ジュリアンは息を飲んだ。
そこにいたのは――十歳にも満たない、小さな子供だった。
頭を覆い、ボルト締めで固定された半球のヘルメット。
そこから漏れる青い光が、子供の血管を不自然に浮き上がらせていた。皮膚の下を這うチューブからは、蛍光色の薬剤が絶え間なく脈打つように送り込まれている。
椅子に固定された彼らの指先は、思考の結果ではなく、電気信号を与えられた筋肉の反射として、ただひたすらにキーを弾き続けていた。
……背後から近づいても、彼らの瞳は一度も瞬きをしない。網膜に焼き付いているのは冷たい計器の光だけ……。
同じく椅子の中を確認した隊員たちの視線がジュリアンに集まった。
「指示をください」「本当に殺しますか」青白い光に照らされた、困惑の瞳。
ジュリアンは一度だけ瞬く。
脳裏に映ったのは――「大尉、遠くへッ!!」……そう叫んで火柱になった部下。
それだけで、理由として十分だった。
ジュリアンは静かに、けれど部下二人に「覚悟を決めろ」と言わんばかりに、見せつけるかのようにナイフを抜く。
子供なんて、本当に久しく見ていなかった。
その細くやわらかそうな首筋に刃先を定めて……せめて――この子たちが、王国へ還れますように。
永久の安らぎを得られますように。
祈りながら、そっと刃を引く。
生まれる国を間違えた七人の子供たちは、何が起こったかも知らぬまま、安らかな眠りへと堕ちていった。
小さな手が離れた制御盤を殴りつけて破壊すると、要塞の拍動が止まり……世界に驚くほどの静寂が訪れる。
――ゼロサンゼロキュウ。砲撃開始まで、あと五十一分。
黒霧の生成と噴射、泥蜘蛛の生産と発射。全ての動きが止まったのだろう。
ややあって階下から合流した六人と共に、三階天井に備え付けてあったハッチを抜けて屋上へ出た。
すでに霧はわずかに晴れ、遠くの北山の稜線が白み始めていた。
油を含まない清々しい風が頬を撫でる。
――ゼロサンイチゴ。砲撃開始まで、あと四十五分。
時間に余裕があるとはいえ、こんな所に長居は出来ない。
ジュリアンは腰から口径の大きな銃を引き抜くと、それを天に掲げて。
「さあ、終わりだ」
――ドン、と放たれた信号弾が空高くでパンと弾け空を赤く染める。
昇りゆく朝日を浴びて、隊員たちが思わずと言った様子で「おおおおッ!!」と歓声を上げた。
「騒ぐな。撤収するぞ。外をうろついている泥蜘蛛が完全停止したか分からない。用心すること。いいな」
隊員たちは肩を組み、抱き合い、歓声を上げていた。
オスカーでさえ、口元から歯が覗くほど笑っている。
ジュリアンも、この場の最高責任者でなければ、その輪の中に飛び込んでいただろう。
しかしその時。
「……おい、あれ」
ロランが震える指で、東の地平を指差した。
ジュリアンが顔を巡らせた瞬間、網膜が白銀の奔流に焼き潰される。
昇り始めたばかりの朝日の輪郭が、内側から爆ぜたように見えた。
砕け散った太陽の欠片――夥しい数の流星群が、王国の空を埋め尽くし、こちらへ向かって殺到してくる。
一つ残らず、自分たちを標的にして。
吸い込まれるような静寂の中、光の粒は尾を曳き、空を白白と切り裂いていった。
咄嗟に懐中時計を覗く。ゼロサンニイチ。
予定より、あまりに早すぎる砲台の精密攻撃。
確信が心臓を凍らせる。ああどうして気が付かなかったのだろう。
上層部の連中は一度だって私たちを正当に評価しなかった。
いつだって眉を顰め、忌み嫌っていた――。




