79話 突入前夜
『咆哮連鎖』によって第九旅団付属・特務作業班の三分の一を失い、その事後処理と作戦の再編に追われて二日が過ぎた。
キャンプに収容された負傷者たちの手当てを終え、ようやく自分の装備を整える時間が訪れたのは、夜の帳が降りた頃。
二十五キロ先の闇に潜む、巨大要塞。
その鉄の腹の中に、どれほどの敵兵が待ち構えているのかを知る術はない。
敵の最後の防衛線、その指令拠点への突入だというのに……。
「……やるしかない、」
脳裏にこびりつく「失敗」の二字を振り払うように、ジュリアンは手元の作戦書を強く握りしめた。
薄暗いテントの中、生き残った者たちは看病の合間を縫って、各々自らの体内薬剤を調整し始める。
ある者は静脈に、神経を昂ぶらせる燃えるような黄の薬液を。
またある者は、荒れ狂う石を鎮めるための冷徹な緑の薬剤を。
ジュリアンもまた、軍服の肩を剥き出しにし、自らに埋め込まれた金属に針を沈めた。
薬液が石に届くたび、石が――心臓が脈動し、人間としての安らぎが一段ずつ削り取られていく。
調整を終え、犬歯の隙間から深く長く吐き出された息は、もはや獣の熱を帯びていた。
顔を上げたジュリアンの瞳には、闇を透かす狼の金光が、静かに、だが鋭く宿っている。
調整の終わった彼は他の隊員に声を掛けつつ、気分の切り替えに見せかけてテントを出た。
そして素早く近くの木に繋がれたウェグへ近づく。
小さく鼻を鳴らした黒馬は、満足に草も水も与えられていない。それなのにジュリアンを見つけた瞬間に、やる気満々と言った様子で足踏みを繰り返す。
これまでの作戦でも、この愛馬を最前線へ連れていくことはなかった。
だが今回は意味が違う。
未知の黒霧。生還の保証がない死地への突入。
これが最後になる――そんな予感が、確信に近い重さで胸に沈んでいる。
ジュリアンはさらにウェグのそばに寄り、催促されるままに首筋を撫でながら……その足元を見た。
かつて灰銀に輝いていたはずの繁毛は、今や南方の湿った泥と砂埃に塗れている。
元来、涼冷な北の地を駆ける種だ。こんな不快な熱気と重油の臭いに満ちた土地で、よくここまで耐えてくれた。
「ウェグ、」
掠れた声で名を呼ぶ。
乏しい物資の中から工面した小袋。その中には、走り書きの遺言と、ヴァルデリウス当主の証たる指輪を収めてある。
手入れの行き届かぬたてがみを丁寧に解き、その一房に袋を固く括り付けた。重い鞍を外し、手綱を解く。
身軽になったウェグは「何をしているのか」とでも言いたげに、当惑した様子で頭を振っていた。
ジュリアンはその温かな頬に、両手を添える。
「ウェグ、聞いてくれ」
その瞬間。黒馬は何かを察したように足踏みを止め、ピタリと静止した。
面長な額に、祈るように己の額を押し当てる。
伝わってくるのは、あの血まみれの石とは違う、穏やかで混じりけのない命の拍動。
己の愛おしいと思うもの全てが脳裏を駆けていき、そして抱きしめる間もなく消えていった。
けれど、それでいいとジュリアンは思っている。
遠く離れた地で、これからずっと長く健やかであってくれたら、それだけでいい。
「これよりお前の主人は、アナスタシア・ヴァルデリウスだ。……優しく、賢い。私の、愛した女性。分かったな」
喉の奥に込み上げるものを、冷徹な大尉の仮面で抑え込む。
「北へ帰れ。お前の居場所は、守るべき人はそこにいる。……頼んだぞ」
最後にその柔らかな鼻面を撫でてから――力を込めてその尻を叩いた。
「――さあ、行けッ!」
ウェグは短く、一度だけ高く嘶いた。
それは別れの挨拶か、あるいは主への抗議だったのか。
けれど、賢い馬は迷うことなく北へと脚を向け、夜の闇を蹴り飛ばして走り出した。
黒の毛並みが夜闇に溶け、やがて足音すらも遠ざかっていく。
あの背中に託した指輪が無事に届きさえすれば、自分がどうなろうとヴァルデリウス領は守られる。
これで、家に残したものへの責任は果たした。
やるべきことを終えたジュリアンは、一人テントへと戻った。
懐中時計の蓋を開ける。秒針の刻む音が、静寂の中でやけに大きく響く。
作戦開始から敵要塞兵器を制圧し、場所を知らせ、王国の一斉砲撃開始の予定時刻まで――残された時間は、あと六時間。
………
……
…
ジュリアンは剥き出しの肩、鈍く光る金属の縁にそっと指先を這わせた。
皮膚の下で、低く唸るような拍動が伝わってくる。
かつては正気を削り取る不快な雑音だったそれは――己の中で紆余曲折があった結果――今や戦場を共にする唯一の「相棒」の声となっていた。
「……ああ、分かっている。もう少しだ。力を貸してくれ」
小さく語りかけると、狂乱の波が薬なしにすっと凪いでいく。
代わり四肢に満ちるのは、氷のように冷徹な野性。
石の中の自我とジュリアンの意識が、一つの焦点で重なり合った。
深くかぶったフードの中。夜闇で鋭く光る瞳を前に向けて。
「総員傾注」
目の前には十六対の同じように夜闇に輝く瞳があった。
傾注と呼びかけたけれど、薬で意図的に興奮しているせいもあってろくに視線は集まらないし、全員の頭が獲物を求めて静かに揺れている。
ジュリアンは少し見渡してから、できるだけゆっくりと唇を開く。
「これより二十五キロ先の巨大要塞を叩く。三部隊に分かれて索敵を開始、霧を吐くダミーを見つけ次第破壊しろ。本陣を特定した班は犬笛で合図。十分待機後、集まれる人数で突入する。内部を制圧し、黒霧と泥蜘蛛の製造を停止させろ」
ジュリアンは手元の作戦書を折り畳み胸ポケットへねじ込んだ。
視線を上げると、最前列にいたカイル軍長と目が合う。
カイルの瞳はすでに細く、獣特有の落ち着きのない輝きを放っていたが……主人の言葉を刻みつけるように一度だけ深く頷いた。
「霧が晴れ次第、信号弾を放て。……ただし、これには時間制限がある。ゼロヨンマルマル。その時刻を過ぎれば、我々が信号を上げようが上げまいが、王国軍の精密重砲隊はこの平原全域に無差別砲撃を開始する。……巻き込まれたくなければ、それまでに仕事を終えてここを去れ」
後方で腕を組んでいたオスカー軍曹が、低く、どこか楽しげですらある声を出す。
「……つまり、王国様は僕たちの足を信じてないってことですか? それともよほど弾薬が余ってて、更地にするのがお好きなんですかね。僕ここで採れるカブ好きだったんだけどなぁ」
ジュリアンはこの状況に置いてのあまりの皮肉に口端を上げ、けれど何も答えなかった。
代わりに、懐中時計の蓋をカチリと鳴らして閉める。その冷徹な音が、何よりの返答だった。
「――三十分だ。予定より三十分早く、私たちが赤を上げればいいだけの話」
明確な基準が出来たことで、部隊の中にほんのわずかな安堵が広がっていく。
ジュリアンは場を仕切り直すかのように、許されるだけ声を大きくして。
「注意点を二つ。泥蜘蛛は音ではなく『熱』に寄る。支給した高熱トラップを有効に使え。それから――黒霧の中で絶対に火を使うな。銃もだ。マッチ一本擦った瞬間、この平原は我々を肉塊にした巨大なオーブンに変わる。……いいな。死にたくなければ獣の足と爪と牙だけで片付けろ」
「火気厳禁、了解しました」とカイルが短く応じる。彼は腰のホルダーから、支給された熱源囮――ピンを抜けば即座に囮となる熱源体――を一つ取り出し、その感触を確かめるように握りしめた。
するとそれを見た数名が、おなじく確認がてら腰のホルダーを撫でる。
「……質問は。なければ、これより作戦を開始する」
返る言葉はない。ただ、十六対の金光が、ジュリアンの背後に広がる漆黒の霧を見据えていた。
部下たちの頭は、もはや人間としての思考を捨て、獲物への最短距離を計算する獣へと変貌しつつある。
そんな彼らに、ジュリアンはいつも通りの口上を使った。
「――我々は捨て駒ではない。王国の鋭い牙だ。この闇を駆け、夜明けを勝ち取るぞ」
それは、作戦開始のたびに繰り返してきた言葉。
けれど、いくら真剣に唱えようと、彼らはいつも捨て駒のように死んでいった。
しかし、今日は、今夜だけは……ジュリアンは己の肩に優しく手を当てる。
「今夜こそ、本当に我らが夜明けを勝ち取る。いいな」




