77話 西の空
「おいウェグ! お――ぁあ゛ッ待て、こら、こら!」
天頂には曇天の雪雲があって、けれど地平の山間からは明るい橙色が残響のように差し込んでくる。そんな美しい夕方。
厩舎の前で警備隊の――ウェグの帰りを待っていると、遠くからエドワード様の抗議の声が聞こえた。
ややあって坂を駆け上がってきたウェグの手綱の先にはエドワード様が引っかかっていて――あの黒馬は口角をハミで強く引かれながらも意に介さず、ただ真っ直ぐにわたしの元へと歩を進めてくる。
滑りやすい冬の坂道で、エドワード様は踏ん張ることもままならず、まるで大きな荷物のようにズリズリと引きずられていた。
何度か体勢を立て直そうとして、けれど滑る斜面にことごとく失敗している。
それは気温と同じく冷えがちの心を温める、少し微笑ましい光景だった。
「おかえりなさいませ、エドワード様。――ウェグも、お疲れ様」
ようやく目の前で止まったウェグは、山道で冷え切った鼻先を、わたしの肩に重すぎる質感で乗せる。
それから、その疲労感を訴えかけるようにフンスと大きく白い鼻息を吐いた。
これは甘えではなく――とにかく早く鞍などの装備を外してほしいのだ。
止まったウェグを支えにして、ようやくエドワード様が立ちあがる。
膝についた凍った土を叩き落としながら。
「はぁ、はぁ、麓で義姉さんの姿を見つけた途端、私の指示など風に流してこれだ。山の中ではあれほど見事な聞き分けだったというのに」
「ふふ、お怪我はありませんでしたか。山の様子に変わりは?」
「ああ、はぁ、万事、変わりない……、……――あぁ、ルーカスは井戸を直していたな」
「はい。昼頃に木枠が割れてしまって。今、総出で掛かっています」
厩舎の前にわたし一人だけの様子を――馬係のルーカスさんがいないことを、逡巡ののち思い至ったエドワード様は、領主代行の顔をわずかに傾けてわたしを覗き込んだ。
「そちらこそ怪我人は」
「ありませんでした」
「今夜中に終わるのか? 明朝に凍りつけば、春まで使い物にならなくなる」
「ええ。ですから、凍る前に桶を沈めてしまおうと……今からなら十分に間に合うはずです」
「ならよい。……では――義姉さん。ウェグのことは任せた」
「承りました。……さ、ウェグ。行こう」
最後の最後、引きずられたことでどっとお疲れになったのだろう。エドワード様は少しだけ頭を揺らして屋敷の方へ去っていく。
その背中が屋敷裏手の扉の奥に消えるのと、地平の雲の切れ間にあった橙色が墨を流したような夜の色に呑み込まれるのは、ほとんど同時のことだった。
わたしはウェグを促して、いつもの馬房へと入る。
厩舎の重い扉を閉めると、外の風の音が一段低く、篭った唸りに変わった。
「まって、分かったから」
ウェグは少し駄々を捏ねるかのように前足を蹴り上げ跳ねている。
わたしはルーカスさんに教わった通り、まずは腹帯の金具に手をかけた。
するとそれだけですっと大人しくなるのだから、この子は結構賢いのかもしれない。
金具を外し、その黒い横腹に密着する。
つま先で立ち、鞍の前後のふくらみに手をかけて――
「よい、っしょ、ッ」
こちら側に鞍をずらし、落ちてくるそれを受け止めるような形で抱える。
横眼で鞍掛を確認してから、出来るだけ急いで――抱えただけで、腕がもう限界なほど重いのだ――その木製の柵に移す。
「はぁ、ぁ……」
小さく息を吐き、振り返ると鞍を外したウェグの背中からはもうもうと湯気が立ち上っていた。
外は寒く、ウェグはこんなに熱くなるほど山の見回りを頑張った――そう思うと、馬に対する恐怖心が暖かな慈愛で塗り替えられていくような気がする。
「ウェグ、今日も頑張ったのね。山の中はどうだったかしら。上は雪が沢山積もっていたでしょう?」
わたしは乾いた藁束を手に取って、それをウェグの汗で濡れている所に擦り付けた。
「……でもエドワード様を引きずってはダメ。怪我をされたらどうするの」
ウェグはその黒い眼をひたすら前に向け、何も読み取れない顔をしている。つまり恐らく、反省もしていない様子。
握りしめた藁束を何度も上下に往復させて、冷える前に汗を拭きとっていく。
「よし、……さぁウェグ、足を上げて……」
次に、泥の詰まった蹄を掃除する。
抱えた四肢には雪山の馬らしい長い繋毛が伸びていた。冬が近いことを教えてくれる。
「これで、雪の山道もちゃんと歩ける、でしょう、はぁ、」
同じ馬でも、細い脚をした栗毛のルディ――わたしを乗せたまま森へ暴走した馬である――とは全然違う。
その生態の不思議さに白い息を吐いて……やっと蹄の中が綺麗になったので足から手を離した、その瞬間。
少しだけ開いた厩舎の扉から、はらはらと雪が吹き込んでいて少しだけ驚く。
夕日を追いかけ、あれだけ重たい灰色の雲が頭上を覆っていたのだ。
今夜も降ると分かっていたし、初雪という訳でもない。
それでも――あれ、どうして。
こんなにびっくりして、心臓が痛いほど焦っているのだろう。
腰を折っての重労働。全身から筋肉の悲鳴が聞こえてくるほど熱かった体が、少し動きを止めただけでみるみる冷えていく。
「あ、――ごめんね、まってて……」
ウェグの抗議の嘶きにハッとして、厚手の馬着を取り出した。
尻尾の位置にくる部分を調整しながら、胸前まで布が回っているか調子を確認して。それから腹下の紐を結ぶ。
どん、どん、と心臓が跳ねる。
あれ、どうしたのだろう。
どうしてこんなに焦っているの。
井戸が壊れて――まだ直った知らせは受けていないけれど。それでももうすぐ終わるか、報告がまだなだけだろう。
冬の準備は……断熱の藁は敷くべきところに敷かれている。
食料の貯蔵も買い付けが終わって十分だ。
冬の彩雲糸の納品はまだ少し先だろうけれど、約束通りの――三倍量の彩雲糸はすでに生産済。
ウェグの真正面に回り込んで屈み、胸元の紐をしっかりと止めていく。
……よし。これで、帰ってきたウェグのお世話は完了。
そう思って顔を上げると、目の前の黒馬は――リアン様の愛馬は、空も見えないのにまた南を向いていた。
――知っての通り、王立天体審理府の算定によれば、北はまもなく本格的な冬に入る。
――ノイヴァルト領よりも、こちらの冬は厳しいものになるはずだ。
もうずっとずっと昔のことのように思える、旦那様からの手紙の一節。
風の高音と雪のかけらが厩舎に滑り込む。今夜の雪は、どこまで積もるだろう。
もし去年と同じなら、あっという間に積もって……それで――
――閉ざしの冬がくる。
道は雪に消え、何も届かない。
降り積もった純白に熱も音も吸い取られ、誰一人この山を登っては来ない。
空白の数か月間。
ここ二週間ほど、帰ってくる人はいなかった。
村の中は、悲しみを十分乗り越えた上で「村人は全員揃った」という心構えをしているように思う。
わたしは――安否不明の空白に耐えられるのだろうか。
生きているのか、お元気なのか。あるいはもう……。
喉が焼けるように締まる。
それでも声だけは飲み込んだ。
「ウェグ……ねえ、リアン様は、帰ってくるわよね?」
彼は何も答えない。南を睨んで一言も発しない。
わたしはその首筋に縋り付き、腕を回してしがみつく。
「ねえ、なんとか言ってよ……わたしもう、ほんとは限界なのに……」




