76話 微睡み
西の稜線から穀星が消え、入れ替わるように青星が鋭い光を研ぎ澄ませていた。
いずれあの星はギザラ山の一本杉と重なり、この領地を数ヶ月に及ぶ白銀の牢獄へと閉じ込めることになるのだろう。
足元にも霜が広がり、吐く息が白くなっていく。
死亡通知が届いたにもかかわらず生きて帰る者が予想以上に多く、出兵した約六十人のうち帰還した領民はもうすぐ二十人に届きそうなほどだった。
失った約四十人は労力的にも精神的にも大きな損耗だけれど、それでも戦時中よりははるかに領地が良く回っている。
結果、工房にも畑にも、男爵夫人が手を貸さねばならない場所はなくなってしまった。
正に貴族らしく。
領民へ指示を出し、報告を受け、金貨が生まれるのを待つ。
そんな――信じられないほど空虚な毎日を繰り返していた。
戦前のような無力さではない。
相応しい場所に、相応しい歯車を配置して。まだまだ拙い所もあるとはいえ〝生産〟全般を任せて貰っている。考えてみれば男爵夫人としてどこを向いても恥ずかしくない状態。
けれど……やはり戦争を経験して、わたしも何か変わったのだろうか。
なんでもいいから体を動かしていないと、働いていないと――不安に絞殺されてしまいそうな、そんな圧迫感に気分が悪くなってしまう。
きっと姉さまなら、わたしの目指す貴族なら……やることをやったなら、あとは椅子に座り足を組み、微笑んでお茶を飲み待っていられるのだろうけれど。
「はぁ……」
朝一番に警備隊の出勤名簿を確認して、屋敷の中をさっと見て回る。
そのあと畑に赴き、冬支度の指示をして。村を一周するルートを取りながら工房まで歩き、マルタさんと二、三言確認する。
それが終われば、呼ばれない限りまったくと言っていいほどやることが無かった。
だからわたしの足は、縋りつくかのように厩舎へと向いてしまう。
藁と獣の匂い、そのフスフスとした動物の声に誘われるかのように。
入り口から顔を覗かせると――わたしの気配に、ずっとウェグがそわそわしていたのだろう。馬係のルーカスさんとすぐに目が合った。
「やぁ奥様! ウェグのやつ、やっぱり俺の手からは食わんのですよ。今日もお願いしてもいいですか」
「ええ。任せて」
ルーカスさんから差し出された桶の中には、丁寧に煮含められた温かい麦が入っていた。
甘い穀物の匂いが立ちあがっていて、冬の飢餓を経験したわたしからすれば馬用に用意されたものと言えど美味しそうに見えてしまう。
「ウェグ。せっかくルーカスさんが用意してくれたのに。そんなだと、エドワード様を乗せて山を走れないわよ。……ほら、どうぞ」
差し出された桶を受け取り、先ほどまでのルーカスさんと同じところに掲げる。
すると、ウェグはその温度を口先で確認したあと……桶に顔を突っ込んで、ちゃむ。ちゃむ。と食べ始めた。
その速やかな行動は、嬉しいけれど中々気まずい。足しげく厩舎に通うわたしなんかよりも、ウェグは圧倒的にルーカスさんに世話をされているから。
艶やかな毛並みも、打ち替えられたばかりの蹄鉄も、彼の手間と技術の賜物なのに。
「もう……どうして……」
「こういう馬もおるよ。ずっと前の栗毛の子は、どうしてか子供の手からしか食べんかったし。ウェグもなぁ。戦争の前は、ジュリアン様の手から食べるのが好きだったからなぁ」
「そうだったのですか」
「そうさ。とくに黒毛はな、黒ければ黒いほど『主』と決めた人の命令しか聞かん」
「……、そうですか、」
前の主がいなくなったから、次はわたしを『主』としたの?
そんな絶望を、ルーカスさんの手前無表情にやり過ごす。
ややあって、桶一杯の麦を食べ終わったウェグがそっと馬房の奥へ歩いていった。
わたしは、腕が熱く痺れるほどには重かった桶を地面に一度置く。
すると、少し離れた厩肥場から帰ってきたルーカスさんが、その汚れた桶をひょいと持ち上げて。
「ご苦労様。重かったろう、奥様」
「あ、わたしがやります、洗います」
「いーって。今、井戸の藁巻きやってるだろ。そこに合流するついでだ」
「でも」
「それよりもウェグのそばにいてやってくんねぇか。ずーっと空を見て……寂しそうだからさ」
「……、では、頼みました。保存食の穴倉の上にも藁を敷くのを忘れずに、厚めに。お願いします。」
「ああ、分かった」
ウェグを頼んだ。そう言って村中心部の井戸へ坂を下りて行ったルーカスさんを見送って、わたしは言いつけ通り――あるいは、もうここ以外に居場所はなかったから必然的に――馬房の低い扉を開けて、すぐ近くに積み上がった新しい藁山に腰を下ろした。
奥の方で力強い足踏みを繰り返す黒馬は、放っておけば自分で草を食む強さを持っている。
なのに人が差し出す餌だけは、私の手からしか受け付けない。……そのくせ、満腹になればわたしのことなど用済みと言わんばかりに――お構いなしだ。
こうやって暇さえあればウェグと触れ合うようになってからルーカスさんに教えてもらったことだけれど、馬は本来移動しながら草をはむ生き物で、故に食後にすぐに横になったり動きを止めてしまうと、それだけで体に負荷がかかるらしい。具体的な負荷としては腹痛らしく、悪化すると命に関わる。
だからウェグは経験則か本能か、同じところを何度も往復し、足踏みをやめない。
馬房の奥まで頭を揺らして歩き、振り返って入り口付近へ。空が見えればその黒い瞳を南へ向けてしばし留まり、それからまた馬房奥へと歩き出す。
それは――習性だとしても、行き場のない抗議に思えた。「ここから出せ」「迎えに行かせろ」「あっちだ」「あそこにいるのに」……。
……わたしはそんなウェグの姿を目で追いながら、その黒い背に跨って走り出す様子を夢想する。
乗っている馬が突然制御を失い、猛スピードで走っていく……その恐怖はまだわたしの心にパニックの種として植わったままだけど。
ウェグとなら、主人を探しに南へ駆けていけるのではないだろうか。
地図と水だけを積み、草原を駆ける。
「あと少しよ」
温かな首筋を撫でながら進み続ける。
そして――。
膝まで届く緑が風に揺れる地で、わたしたちはついに見つけるのだ。
三年前に見送った背中が振り返り、こちらに手を振って。
――アナ、ウェグ。迎えに来てくれたのか。
――ありがとう。立ち往生していたんだ、助かったよ……。
「――、様」
正しく夢想であった。と背中に数本の藁が突き刺さる小さな痛みで自覚する。
誰かの声でわずかに意識が浮揚して……それでもどこか夢の端を掴んだまま、まどろみから帰ってこれない。
中空にとどまった手の先に馬の毛並みを感じて、それでウェグが信じられないほど近くにいることを見えないながらに自覚した。
いつからここに? 一緒に寝ていたのだろうか? 少し寒かったのはこの息使いのせい?
「奥様……」
ウェグが驚かないように、気を使った小声。……分かっている。あの声はエルザだ。
起きなくてはいけないのに。というか意識は起きているのに……体が動かない。
「エルザ、まて」
「ッ、大旦那様」
厩舎に静かに響く男性の声に、開かない瞼がピクリと動く。
ああ、お義父様まで。秋はずっと臥せっていらしたけれど。今日はお起きになられた……よかった……。
「急ぎでないなら、寝かせてやりなさい……待つことしかできぬ者たちの――神聖な時間だ。邪魔をしてやるな」
「……左様でございますね。承知いたしました、大旦那様」
その声は、もしかしたら夢の狭間で見た都合のいい幻想だったかもしれない。
お義父様からもこんな怠惰な様子の許可を頂くなんて。あまりにも都合がよすぎるもの……。
………
……
…
その後も起きることが出来なかったわたしは、馬房の隅の藁山の上。リアン様が帰ってくる夢を、何度も見た。
それは日常の中で突然帰ってくるものもあったし、ただ『もうすぐ帰る』の手紙を受け取るようなものもあった。
山奥で化け物が出たとの騒ぎに警備隊を出せば――夢なので、なぜかわたしも雪山に入って先陣をきっていた――その〝化け物〟はボロボロの旦那様だった。なんて物語じみたものもあった。
朝焼けの雪景色の中、その背中に触れると、旦那様が振り返る。
嬉しくなって「おかえりなさいませ」と口を開きかけた、その瞬間。
――ウェグの身じろぎや遠く村人の笑い声なんかで体を震わせ、わずかに目を覚ます。
いけない。起きなくては――と深い微睡みから帰ってくるたびに強くそう思うのに、けれどやっぱり体は動かない。
そんな数十分、あるいは数時間を過ごして……。
ヒンッ! とウェグが高く短く嘶いた。藁山からお尻が浮くほどビックリしたわたしは、今どこにいるのかも分からず辺りを見渡して……目の前に迫る黒と濃い藁の香りに、ああ厩舎だ。と思い出す。
ウェグはフッフッとわたしの匂いを嗅ぐような仕草をしたあと。「そろそろ起きないと」とでも言うかのように、その分厚い唇でわたしの前髪をワシワシと食み荒らす。
「――ん゛ぁ、わ、わかった、わよ、ぉ、起きるわ、――ふぁ……」
その時。胸元から見慣れないショールが滑り落ちてきた。
一瞬だけ香る薬草の匂いに――お義父様の匂いに、わたしは恥ずかしいような悲しいような、安堵と緊張を同時に感じるごちゃまぜの気持ちになってしまう。
あの「寝かせてやりなさい」という声は、恐らく夢ではなかった。
こんな子供みたいに、馬に縋り付いて「寂しい悲しい」としている所、見られたくなかった。
けれど同時に――家族として、この空虚を分かって欲しかった。
わたしは立ちあがり、自身の藁を払ってショールを丁寧に畳む。
起こしたくせに、いざ離れようとすると「もう行くの」と言いたげにウェグが黒い瞳を寄せてくる。
その面長な頬にそっと手を添え、わたしは一度だけ額を預けた。
――ありがとう。もう大丈夫。
数時間の、空虚で虚しい逃避行。
けれど、それと引き換えに得たこのショールの重みと薬草の香りが、わたしの背中を静かに押してくれる。
わたしはもう一度だけ、彼の夜空のような毛並みを撫でてから、厩舎の重い扉を押し開けた。
外へ踏み出すと、鋭い冬の陽光がまどろんでいた瞳を刺した。
西のギザラ山の一本杉は白んだ青空に黒く浮かび、その残像が寝起きの目の奥でちかちかと揺れる。
けれど不思議と、朝方ずっと感じていた絞殺されそうな圧迫感はすっかり消えている。
「……さて。まずはエルザに、お礼とお詫びを言わなくてはね」
冷たい空気を大きく吸い込み、白い息を吐き出す。
わたしの足はもう、迷うことなく屋敷へと向いていた。




