74話 手を離れて
それからの一週間は、まるで村中に奇跡が降り注いだような日々が続いた。
三日後に五人、その翌日にも仲間が戻り、一週間で合計九人の男たちが、それぞれの傷と機械の体を抱えて帰還した。
さらに、病院や帰路の途中から「もうすぐ帰る」という内容の手紙が届いた人も数人いて、領地はかつてないほど明るい安堵に包まれている。
警備隊の手伝いに駆り出されていた女性たちが工房へ戻り、警備隊に回されていた老人たちも再び畑へと腰を落ち着けて。
森が暖色に色付く秋の中頃。冬に向けて一番忙しいタイミングで、村の歯車が戦前よりも力強く、滑らかに回り始めた。
そんな中で、わたしは今日も両手を白い手袋から軍手に着け替えて、数日前から作業の遅れていた麻干場へと向かっていた……けれど。
「霜麻の干しは今日には終わるよ。だからここは大丈夫だ、奥様」
戦前から、霜麻畑のことなら何でもお任せ。と胸を張っていて、数日前に警備隊から畑へ戻ってきたベルントさんに柔らかく首を振られて遮られてしまう。
「あ、えと、なら運搬を、」
何でもお任せであろうと、ベルントさんは白ひげをたっぷり蓄えた腰の曲がったご老人で、麻束を運ぶならわたしの方がいい。そう思って粘るけれど、彼はわたしの後ろを指さして。
「いや、ほら、今日は警備隊から、ヨシュタをこっちに回してくれたんだ」
「ヨシュタさんですか、」
彼は数日前に帰ってきた帰還兵の一人。
両腕を機械の腕に置き換えていて、そのうち片方の腕は〝それしかなかった〟とかでアンバランスに一関節分長く太いものが付いている人だ。
「そうだぜ、奥様。こんな……あ、自分たちのような者がやる仕事であります。奥様が手を貸すなんて、それこそ俺たちの面目が立ちません……し。だからここは大丈夫、任せてくれ、です。はい。」
「それは、……確かに。心強いですね」
その長い方の腕で驚くほど多くの麻束を肩に抱え、軍用敬語をおっかなびっくりに崩しながら。
わたしの後ろで誇らしそうにニッカリと笑う。
「……ですが、ベルントさん、もし今日中に干し作業が終わらなければ、わたしかエルザか、マルタさんに報告をお願いしてもいいですか。今日は曇りですし、完了したかどうか把握しておきたいのです」
「相分かった――あ! ヨシュタそっちじゃねぇ!」
「なに、じゃーこっちかーッ?」
「その隣だ! そ――そうだそこだ!」
人手が足りている干場を背に、次に遅れがちだったジャガイモ畑――その隣の保存倉庫の裏手へ向かう。そこでは、冬を越すためのジャガイモやカブの『穴埋め』の作業が行われているはずだった……けれど。
「ええ、穴埋めもほとんど終わりましたよ。奥様が心配しなくても、この通り! あとはここだけなの」
鉄のスペードを持ったヨハンナさんは顔をぱっと輝かせる。その後ろには、すでに土が盛り直された小山が幾つも並んでいた。
本来なら、冷え込みが厳しくなる前に村中の労力でもって泥にまみれ、数日がかりで掘り進める、秋一番の重労働。
去年も一昨年も、寒風に吹かれながら凍土になってしまう地点より深く、もっと深く、と指先を真っ黒にして必死で頑張ったものだったけれど……。
「一昨日の――夕方ね、男手が帰ってきたあとに一気にやっちゃったのよ」
「そう、ですか……」
「やっぱり男がいると違うわねぇ。ほんと、すぐに終わっちゃったわ」
安堵の息を吐く彼女と、同じ方向を見る。
「穴は、これで全てですか?」
「あっううん、あっちの奥にはカブが埋まってる。たしか――ほら、五山くらい。それもちゃんと終わってるわ」
「なるほど……分かりました」
霜麻も畑関係も、遅れていた分は終わっていた。
村の中を見て回れば、去年まで総出で必死に終わらせていた仕事を、今は二、三人で穏やかに進められている様子。
ならば。残された『行くべき場所』は一つしかない。
そう思って、以前より文字通り熱気に包まれている工房を覗けば、そこは――かつてのように全ての糸車が回り、女たちの穏やかな笑い声が蒸気の中に響いていた。
顔を覗かせると、手前で雪糸を紡ぐ数人が手を上げたり、軽く会釈をしてわたしを歓迎してくれる。
その一人ひとりに微笑みを返しつつ、困りごとがないか見回るように歩みを進めていく。
そこら中から聞こえるのは、いつもより少し賑やかで雑多な、職人と糸車の息使い。
フシュフシュ、と蒸気が吐息を漏らし、カラカラ、と糸車が回る。
その賑やかな響きに身を委ねると、少しだけ強張っていた心が解けていくのを感じていた……その時。
「ああ奥様、ほら、見てごらん。今日は糸車が全部回ってんだ。こんなの、本当に久しぶり。懐かしいねぇ……」
と、自身も糸を紡ぐ糸車の一列に加わりながら、半身を傾けて声をかけてくれたのはマルタさん。
「ええ。本当に素晴らしいです。今日は――怪我人など……問題はありますか?」
「今のところは、目立った問題点はないね。あっちの『蒸気組』もね、みんな一通り怖い思いしたから、シャンと背筋が伸びてる」
衝立の奥を顎でしゃくって見せるマルタさん。わたしは右の手のひらが少し疼くのを感じながら静かに頷く。
わたしのような大けがをしろとまでは言わないけれど、どうしても誰かが怪我をしないと分からない改善点がある。
みんなが少しずつ指や肌を焼いてくれたおかげで、具体的な『してはいけない事』が決まり、この一か月で蒸気組の作業はずいぶん安全なものになっていた。
「えぇ~! 空いてないの~?」
「っ、」
工房の入り口付近で聞こえた幼い批判の声に、ピクリと肩が跳ねる。
漏れ聞く話を聞いていると……ジャガイモの穴埋めが終わったヨハンナさんが糸を紡ぎに来たけれど、糸車が空いていない。ということらしかった。
「ヨハンナ! こっちおいで! 変わるよ!」
「マルタ! いいの?」
「ああ、新しいボビンを持っておいで。私はもうかせ上げ行くから」
どうしようかな、帰ろうかな。という雰囲気で足先をふらつかせるヨハンナさんを呼び止めたのはマルタさんだった。
糸束の買い取り単価が上がっているこの好景気の中、少しでも回せれば家計はさらに楽になる。
だからヨハンナさんは花が咲くみたいに笑って、小走りにこちらにやって来た。
ぎゅう、と糸車が止まる音がして、マルタさんがボビンを外して立ちあがる。
「ありがとう! ――あ、奥様さっきぶりね。穴埋めは無事に終わったわよ」
「はい。ご苦労様でした」
新しいボビンをセットしたヨハンナさんは、すとんと座って糸車を回し始める。
わたしは――かせ上げに向かうマルタさんの視線を感じたので、彼女についていくことにした。
蒸気を扱うところの反対側。
一日中影になるところで、マルタさんはボビンを水につけ、かせ上げ機のハンドルを回す。
「問題を思い出したよ。糸車が足りないんだ。ほら冬にいくつか駆動輪が割れただろう。そのせいで、ね」
「あ、――ガウスさんに、報告して手配します。すぐに」
きゅる、きゅる、と火掻き棒を曲げただけのハンドルが音を立てる。
マルタさんと同じく座り込み、両手を握り締めて眉を寄せた。
「壊れるところを見ていたのに。あの倉庫の三台ですよね? あぁ、忘れていました……」
「うん。それで、朝、一応ガウス爺に言っといた。家の作業場で違う加工してたけどね。それが終わったら直してくれるって」
「そっ、――そうですか。良かった。ありがとうございます」
おそらく、これからもまだ帰還兵が――領民が帰ってくる。
となれば彼らに押し出されるようにして紡ぐ人も増えるし……この紡績業は、村で一番稼げるところと言っても過言ではないのだ。
男爵夫人として、そこの需要に適切に答えられなければ貴族の名折れもいいところ。だから先回りで動いてくれた彼女に心から感謝する。
かせ上げが終わったマルタさんは、骨の開いたそれを持って立ちあがる。
わたしもつられるように立ちあがった。
「てことで、すまないけど奥様の席はしばらくない。で……少なくとも今日は私たちに任せてよ」
「あっ、あ、はい……」
頭の中は、もうすでに三台の修理が終わったあとのこと――そのうち二台は蒸気に接続してしまおうか、など――を考えていたから、同時に放り込まれた明るい意味でのお役御免に間抜けな声が出る。
「奥様、冬からずっと――衝立の中で働いて……休んでないだろ。だから今日ぐらいはさ、ゆっくりしなよ」
目の前には、かさ上げ作業で濡れた片手でエプロンを握り締め、真剣なまなざしをわたしに向けるマルタさん。
その瞳の奥に、終戦直後の――わたしが「戦争が終わった、もうそれだけでいい」と告げた時の、あの苦しそうな表情を思い出して……ほんの一呼吸だけ迷う。そして。
「……では、お言葉に甘えますね。くれぐれも怪我のないように。何かあれば、すぐに屋敷まで知らせてください」
意識して口角を吊り上げ、精一杯の信頼を込めて「任せましたよ」と目を細めて見せた。
返ってきた快活な返事を聞き流しながら、姉さまに頂いた白手袋をはめ直す。
そのまま、わたしは一度も振り返ることなく賑やかな工房を後にした。




