70話 銀の血管
薄雲がすいすい流れていく夏の盛り。
いつも通り、でも以前よりずっと中身の増えた木箱と新しい糸車を携えた商会の馬車がやって来た。
今回は納品より商談が本題だった。
だから早々に受領書にサインをして、エントランスホールの隅の談話スペースへと彼を招く。
エルザが淹れてくれた紅茶をほんの僅か楽しんでから……先に口を開いたのはゴドウィンさんだった。
「……アナスタシア様。風の噂で、バティスト伯爵家から直接のご連絡があったと伺いました。その後、何かお困りごとはございませんでしたか?」
「そんなものはこの地まで届きませんでした」
自分でも恐ろしいぐらい、冷たい声が出た。
ソーサーごとカップを机に戻して、顔を傾けつつゆっくりと口角を上げる。
ゴドウィンさんはそんなわたしを見て一瞬固まったあと。
恐らくわたしの伝えたい意思を理解してくれた。
「――、さ、左様ですか。失礼いたしました」
「交通網はまだ混乱しているのでしょうね。ゴドウィンさんも、道中大丈夫でしたか」
「はい。お気遣いありがとうございます……けれど、なにがあるかは分かりませんから、次からもう少し安全な――道を使おうかと思います」
「そうね。それがいいでしょう。では……こちらから、彩雲糸量産に向けて必要なものの説明をしてもよろしいでしょうか」
「ええ、お聞きします」
わたしが机に広げたのは、ガウスさんの煤けた指紋がついた、けれど緻密な蒸気配管図。
ゴドウィンさんは、目を見開いてその図面を凝視している。
「……アナスタシア様、これは? 建築の図面ではなさそうですが」
「彩雲糸を量産するための、蒸気の道です。……ここに記したバルブと、特殊な径の鉄管、それから圧力計を至急、可能な限り最高の精度で揃えてください」
「こ――これは、」
ゴドウィンさんの顔から、いつもの余裕ある商人の笑みが消えた。
彼は図面を何度も見返し、「この村だけで?」と言いたげに口を開きかけては閉じる。
「蒸気設備に詳しい職人がいましたので。設置はこちらの人員だけで何とかなります、ですが安全弁などの精密機械は、我が領だけではどうにもなりません。……しかしベネディ商会なら、質の良いものを一刻も早くそろえることが出来ると信じております」
「それは、確かに、私どもの得意とするところではありますが……」
「必要な投資は惜しみません。と言っても、わたしたちの間で金貨が巡るだけですが。……その代わり、今年の冬には三倍の糸束を納品して見せます」
「ッ、今年の冬、とおっしゃいましたか」
「はい。すでに職人の準備は出来ています。あとは設備だけ」
ゴドウィンさんは、わたしを射抜くように見つめた。
姉さま直属の部下である彼が何を思い、何をどう判断したのかわたしには分からない。
けれどややあってから、ゴドウィンさんは深く頭を下げた。
「承知いたしました、アナスタシア様。ベネディ商会が誇る最高の調達網を、今すぐ動かしましょう……秋の風が吹く前には、必要なすべてをこのテーブルに揃えてみせます」
恐らく一か月以内。初秋あたりに届くのなら、穀星が輝いている間に――秋の内に設置まで完了するだろう。
畑作業、冬準備を行う隙間で数人工房に引っ張ってきて頑張れば、きっと姉さまを失望させずに済む……。
頭を下げる彼を見ながら、わたしはこっそり肩の力を抜いた。
………
……
…
そこからは、まさに「熱」に浮かされたような日々だった。
馬車一杯に積まれた、鉄管と様々な大きさの計器。それらが一先ずガウスさんの作業場に吸い込まれていったと思えば、三日後にはのたうつ巨大な蛇のようになって工房端に並んでいる。
わたしは朝の工房で一人、その巨体に驚いて腰を抜かしそうになった。
元気で楽しそうとはいえ立派な老人であるガウスさんの高所作業をハラハラと見守りつづけ――けれどあっという間に、天井付近には銀色の血管が走り抜けていった。
そしてガウスさんから叩き込まれた蒸気の扱いを、今度はわたしが工房の女性たちへ教えていく。
「このバルブを開くのは、この計器の針が真ん中を少し過ぎた所。……後ろの方、見えていますか? 近くへどうぞ。理屈を分かってさえいれば、いきなり爆発することはありません」
かつての水車式かせ上げ機の時のように。
わたしはガウスさんと女性たちの視線を一身に浴びながら、祈るような心地で火を入れ、計器の針を読み、白く熱い息吹を制御した。
「……いきますよ」
バルブをひねり、シューッ! と白く輝く蒸気の産声が上がった瞬間。
作業場には終戦の知らせに劣らない歓声が響き渡る。
「わぁぁっすごい、」
「もうあんな熱い思いせずに済む!」
「ここ、ここに糸が通るんだろう?」
「だめッ! そんなに近づいてはいけません! とても熱いんですよ」
「なるほどこうなるの……ああ早く糸を紡ぎたいわ!」
「奥様、あたしもシューってやってみたい。ここの赤を捻るの?」
「待ってください、閉じるのは左、開くのは右ですが、待って、開くのは少しずつ!」
この辺境では誰も見たことのない設備だった。
沸騰した水の振動でわずかに震える天井の配管に怯えていた人も、「薪ストーブを抱えていた時と仕組みは同じ」「むしろもっと快適に糸を紡げる」ことを確信した瞬間から、まるで魔法を目の当たりにした子供のように「すごい、すごい」とはしゃぎ始める。
そんな彼女たちを宥めるのは、蒸気を操るよりもずっと骨が折れる仕事だった。
けれど……わたしははしゃぐ皆をほどほどに監視しながら胸を撫でおろす。
水車式かせ上げ機の時よりもスムーズに技術を受け入れてくれて、彼女たちのやる気も高い。
目指すべき場所が、ようやく輪郭を持って見えた気がした。




