68話 熾火
夏至星が天の蓋を押し上げんとする、本格的な夏の始まり。
わたしのもとへ二通の手紙が届いた。
一通は姉さまと、もう一通は質のいい紙に獅子の印章が押してあるもの。
差出人は……聞いたことだけはある、顔も知らない伯爵夫人の名前。
雲の上――とは言わないけれど、同じサロンに出席していたとしても、誰かの紹介なしに言葉を交わすことさえ許されない格上のお方。
つまりは、蔑ろに出来ない手紙。
姉さまの手紙の良い匂いを押しつぶすほど強い香水に、思わず窓を開けた。
嫌な予感に、ため息が漏れる。
親愛なる、孤独なヴァルデリウス男爵夫人へ
北の地で、あなたが健気に紡いでいるという『虹の糸』の噂を耳にいたしました。
あのような宝石を、たかだか子爵家の商いの中に埋もれさせておくのは貴族社会の損失です。
あなたも若くして領地を背負い、さぞ心細いことでしょう。
わたくしが、あなたの新しい窓口になって差し上げます。
近々、わたくしの使いの者がそちらへ伺います。生産の様子を詳しく報告させますから、すべてを委ねなさい。
これからは、わたくしがあなたの姉代わりになって差し上げますわ。
カトリーヌ・ド・バティスト伯爵夫人
「……ッ゛、……」
手紙を開く前は、どうしよう。何が書いてあったとしても、お返事なんてどうすればいいのか……。と不安に思っていたけれど。
読み終えたわたしの心境は、一周回って凪いでいた。
……と思ったのも束の間、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
たかが子爵家。新しい窓口。
それから――『姉代わり』。
その一言だけが、妙に深く胸へ刺さる。
姉替わり!
姉替わりだなんて!!
眉間に皺を寄せながら、封筒に便箋を戻すことなく机の端に追いやった。
見ないように。何度も目をつむって、自身に落ち着け、と言い聞かせ……でも抑えきれない。
読み終わってしばらく感じていた凪は何だったのかと思うほどに――。
「……」
拳が痛んだと思えば、最後に残った火傷の薄皮を握りこむことで破いてしまったみたいで、透明な液が滲んでいた。
その痛みと――またここだけ、治る前に破いてしまった――後悔が、思考の熱を冷ましてくれる。
そして――
「あ。――あぁ、……まぁ、いいわ……」
――気が付けば、なぜか便箋だけを暖炉で燃やしていた。
まぁいいわ。もう一度心の中で唱える。
伯爵夫人のお手紙を返事も書かずに燃やしてしまうなんて、本当にものすごく不敬な気がするのに……怒髪天をついたあとの急落下で、上手く物が考えられない。
とにかく、許せなかったのだ。
あのひたすら細くて読みづらい文字が、姉さまを侮り傷つける言葉が……。
ドレスについた灰を払って机に戻り……姉さまの腕に縋り付くかのように、見慣れた金縁を急いで開封した。
愛するアナスタシアへ
ようやく、この国に勝利の女神が微笑みましたね。
けれど、戦いが終わった今こそが、私たちの本当の勝負の始まりよ。
わたくしは、あなたの紡ぐ『彩雲糸』を、この王国の勝利の証として社交界に、そして世界に売り出すつもりです。そのためには、今の生産量では到底足りません。
厳しいことを言うようだけれど、覚悟を決めてちょうだい。
閉ざしの冬が明ける来年の納品時には、今の三倍の量を手元に揃えておくこと。
そのつもりで、今から領地を動かしなさい。
もちろん、あなた一人に無理をさせるつもりはないわ。
信用のおける領民に技術を伝授し、組織的な労働力として組み込むことを許可します。
次の納品時には、新しい糸車を数台送らせましょう。これは事業拡大のための支給品ですから、対価を心配する必要はありません。
これからは、現場の采配もあなたの仕事よ。
不足している物資や人手、そして報酬の支払い方法について――これまでの現物支給を金貨へどう移行させていくか。それらの細部については、次回の納品時に実務担当であるゴドウィンと膝を突き合わせて詰めなさい。わたくしの名において、あなたが必要だと判断したものはすべて揃えてみせます。
本当は、これほど重要な契約の話を、直接会って話せないのがもどかしくてなりません。ごめんなさい。戦後の処理で、本当に身体が二つに割れてしまいそうなほど忙しいの。
でもね、アナスタシア。これはわたくしたちにとって、千載一遇の大きなチャンスよ。
北の果ての地から、あるいは王国の腹の中から。わたくしたちの手で、この世界を彩雲色に塗り替えてやりましょうね。
心から愛を込めて。
あなたの姉、アデレナより
「あぁ……姉さま……ッ」
脳裏に響く姉さまの確かな声で、わたしは自分の中の不安を自覚する。
ずっと不安だったから、あんなに――衝動的な、強い怒りを防御として身にまとっていたのだ。
この北の地で、彩雲糸の大量生産と知識の限定的な拡散を任せてもらえた。
それはきっと、わたしを丸ごと共同事業者として信頼してくれているから。
それが――心地よくて、恥ずかしくて、何より嬉しい。
「はぁ……姉さま、会いたいです……」
祈るように、目をつむって唱える。
わたしはあまり、今叶わないことを口に出すタイプではない。それでも……姉さまは知らないだろうけれど、わたしは今ものすごい感情の落差を経験したのだ。
目をつむったまま。少しの間呼吸を整える。
新しい便箋を出して、ペンを手に取った。
姉さまと一緒に作る彩雲色の世界は、きっと見たことが無いぐらい美しく――そしてきっとリアン様も褒めてくれるに違いない。
親愛なるアデレナ姉さまへ
勝利の報せ、そして心強いお言葉、何よりの薬となりました。
この北の地から姉さまと共に世界を塗り替える一助となれること、誇りに思います。
量産体制への移行、報酬の件、使者とよく相談する旨、すべて了解いたしました。
それから、姉さま。わたしのところへカトリーヌ・ド・バティスト伯爵夫人から直接手紙が届きました。
彩雲糸について、近々使者を送ると。
……申し訳ありません。詳細を知らせるために便箋を同封出来ればよかったのですが、あまりにも失礼なことが書いてあったので燃やしてしまいました。証拠として残った封筒だけ同封いたします。
生産地が特定されています。量産の話が進めば、さらに嗅ぎ回る者が増えるでしょう。
わたしは変わらずここで糸を紡ぎますが、外部からこの地へ伸びてくる不躾な手は、姉さまにおまかせしてもよろしいでしょうか。
その代わり、来年と言わず、今年最後の冬の納品時から三倍の彩雲糸を納品いたします。
――これは、わたしと姉さまの商談として受け取ってください。契約書にもその旨、ご記載願います。
姉さまに会えなくて少し寂しいですが、一緒に忙しくしていると思えば心強いです。
姉さま。世界を塗り替えるその日、あなたの隣に立つのがわたしであるために。
どうか、何にも代えがたいそのお身体を、本当に、くれぐれも深くご自愛ください。
あなたの妹、そして良き相棒でありたい、アナスタシアより
伯爵夫人の封筒を軽く振って少しでも匂いを飛ばし、今しがた書いたわたしの手紙と一緒にして封蝋をする。
燃やしてしまったことを、今更ながら衝動的で子供っぽすぎたと後悔しながら――いや、あんな内容が姉さまに届かなくてよかったと半分誇らしく思いながら――大きく息を吐いた。
開けたままの窓から、夏の陽に温められた土と草の匂いが滑り込んでくる。




