67話 勝利
奔流の夏らしい、どこまでもしろく輝く日だったことをぼんやりと覚えている。
わたしはその時、川の上流まで水汲みに行っていた。工房裏手の急な坂を、満杯の水桶を持ちながら慎重に下り、少しだけ開いた裏口に視線を合わせた――その瞬間。
――ワァァァアアアッ!!
「ッ゛?!」
言葉にならない絶叫が、濁流となって工房から溢れ出した。
雷が落ちたのかと錯覚するほどのそれに、わたしは泡を噴いて死んでしまった少女、ミーナの白昼夢を見る。
異常事態に水桶を放り投げて走りだし、工房内の表入り口付近の人だかりに割って入ろうと手を伸ばした。
ミーナの時と同じ騒めきに頭が痛む。
――早く、適切な処理を。
もう、あんなことを繰り返してはいけない。
「何の騒ぎですかッ! い、ちょっと、どいてくださ、」
「ああ奥様ッ! やったよ!」
生産棟の女性が、進んで私に話しかけた――明るい声で。
「戦争が終わったんだ!」
その叫び声を理解する前に、振り返った誰かにぎゅうっと強く抱きしめられる。
胸元に顔がうずまって、暗闇と干し草と汗のにおいが頭蓋の中に満ちていく。
「エルドリアスの――我が国の勝利だッ!!」
「終わった! 終わったんだ!」
「――ぇ、」
「やった!! これでみんな帰ってくる!」
――ワァアアアッ!!
幾人もの声が重なり、もはや一つの生き物の咆哮と化した歓声が、工房の壁を震わせた。
抱きしめられながら、色んな人に揉みくちゃにされていた。
久しぶりの人肌は、けれど薄膜越しみたいに感触が遠い。
終わったの、本当に……?
誰に抱きしめられているの、腕を引っ張っているのは誰、足を踏んでしまったわ。
――昨日まで全員でわたしを睨みつけていたくせに?
いや。
立場が違えば、苦しみ方も違う。ずっと、そう思って耐えてきたじゃない。
ならば今こそ――すべてを水に流せばいい。
――ああ、戦争が終わったって、本当に本当なの……?
「……ッくる、しッ」
「ああ、すまないね奥様、ああ、本当に嬉しくて!」
「ええ、――本当に良かった。わたしも、嬉しいです」
わたしを抱きしめていた人――マリアさんの腕から抜け出して、顔を傾けて肯定して見せる。
落ちていた号外を拾い、何度も紙の上の見出しを読んだ。
その間にも手を握られ、頬にキスまでされる。
『聖戦完遂! 宿敵、真洋皇国ついに無条件降伏!!』
『王国の鉄槌、皇国の「不落要塞」を塵へと変ず』
『輝ける平和の凱旋――全軍、順次帰還の途へ』
……おそらく、ラフェンさんが大量にばら撒いていったのだろう。
本当にそこら中に号外が落ちて、村人の歓喜の踊りの下敷きになっている。
「おわった……?」
ため息のようにぽつりと呟いた声は、狂騒の中に消えていく。
誰かに手を握られ、肩を叩かれるたび、わたしは口角を盛り上げた。
あの冬のことを思えば「何を今さら」――と思ってしまう自分の内なる口を必死にふさぎ、歓喜の空気に体を無理やり馴染ませる。
時には一緒に踊ったりしながら――昨日と何も変わらない空を仰ぎ、自分自身ごと全力で騙し続けていた。
――勝ったのだから、旦那様は帰ってくる。
当たり前の帰結だ。あの不吉な手紙は、ただの悪い冗談だったのだと。
………
……
…
「昨日、我が領にエルドリアス王国の勝利が報じられました。この勝利のために、戦地でその身を捧げ、礎となった者たち。今この時も、愛する故郷への道を歩んでいる者たち。……そして、ここヴァルデリウスで武器の代わりに糸を操り、今日まで戦い抜いた皆さん。皆がそれぞれの場所で、欠かせぬ一つの歯車としてその職責を全うした――その『結束』が手繰り寄せた結果なのです」
ずいぶん久しぶりに感じる、小さな箱の上。
「わたしはヴァルデリウス男爵夫人として、この結果を心から誇りに思います」
目の前の女性たちの瞳は、以前ほどわたしを見ていない。
方角はあっていても、どこかぼんやりしている。
わたしも一人一人の瞳を覗き込み、必死に訴えかけるようなことはもうしない。
「戦時中から、少しでも腹の足しになればと行っていた温熱配給……スープの集いは、本日をもって終了といたします」
まっすぐ前を見ながらきっぱりとそう宣言すると、帰ってきたのはほんの少しのざわめき。
そりゃそうだろう。と頷く声に混ざって、不満の囁きがひとつまみ。
それも「貰えるものは貰っておきたかった」という軽い落胆であり、死活問題という人はいない。
「これからは配給という施しではなく、皆さんの腕で豊かさを掴み取る時です。働けば働いただけ、以前よりもずっと容易に、お金も食材も手に入る――そんな好景気がやってきます。この機会を逃す手はありません」
大きく息を吸って、お腹に力を入れる。
けれどすぐに息が鼻から漏れてしまう。
張りつめた糸の揺らぎ。そのまま切れてしまわないように――ため息に見えないように、すぐさま背筋を伸ばす。
口角を上げなさい。さあ、もう少しだけ頑張るの。
脳裏に張り付く『わたし』が囁く。分かってる。
お腹の前で重ね合わせた白の両手を握り締めた。
「戦争は終わりましたが、日々は続くのです。気を抜かず――けれど、無理をしては続きませんから、ほどほどに。これからも共に……それぞれの職責を果たしていきましょう。それでは、作業開始。本日もよろしくお願いします」
一礼して木箱から降りると、皆は夏の仕事をしにぞろぞろと工房の外へ出ていった。
その頬は昨日の高揚をまだ色濃く残しているようで……心の中のわだかまりが少しだけほぐれていくような気分になる。
後ろに控えていたエルザと合流し、衝立の中で今後の相談を……と、工房奥へと足を向けた――その時。
「あの、お、――奥様」
わたしを呼び留めたのはマルタさん。
振り返ると、その後ろにはマーガレットさん、リナさん、ヒルダさんと他数人の影があった。
皆、不安そうな困ったような、曖昧な顔をして……俯いている人もいる。
「はい、どうしましたか」
目尻を下げ、穏やかな表情を作る。
でも、ほんの少しだけ身構えてしまう。
わたしと冷戦のようになりながらも、仕事はきちんとこなしていたマルタさんはともかく。
後ろの数人は、わたしを無視したり、ささやかな妨害をしたりしていた人たちだ。
「奥様、わたしら、……」
「その……ッ冬からずっと……」
マルタさんがエプロンを握り締めながら言いよどみ、すかさず後ろのマーガレットさんが前に出て言葉を繋ぐ。
わたしは――全てを言わせてしまう前に、背筋を正してその小さな一団に歩み寄った。
コツ、コツ、と板張りの床にブーツの音が響くと、びくり、とそのひと固まりが跳ねる。
その怯えた様子を見ても、昨日の嫌悪のような……彼女たちに対するやり場のない憤懣は、心の底でとぐろを巻いたまま。
でもわたしは、こうやって集まって――彼女らが後悔のようなものを感じているのなら、それでいいと思って、白い片手を動かす。
「しー」
一団と内緒話さえ出来そうな至近距離。唇に人差し指を立てて、少しだけ子供っぽく目を細めて見せた。
「戦争は終わりました。だから、もうそれだけでいいのです」
ね。さぁ、今日も頑張ってもらいますよ。と大きく両手を広げる。
青ざめ、苦しそうな顔をした熟年職人。
「許された」と一気に表情を明るくする若手職人。
わたしはその二つの表情をした人たちの顔を、ずっとずっと覚えておこうと思った。




