66話 最後の手紙
馬宿の喧騒を背に、わたしとエドワード様は、事の顛末をお義父様に報告するべく薄暗い屋敷の奥の寝室へと足を向ける。
飢えの冬はお義父様の体を容赦なく削り取っていった。
暦上『春になった』と呼べる穀星が東の空に現れた瞬間、糸が切れたように寝込まれるようになって……夏になってもそのまま臥せっていらっしゃる。
窓を固く閉ざし、遮光のカーテンが引かれた部屋は、まるで時間が止まった墓所のように冷たい。
「父さん。……ウェグが――ウェグだけが、今帰ってきました」
エドワード様の震える声が、淀んだ空気を震わせる。
寝台に横たわる老人は、ゆっくりと、剥製のような瞼を持ち上げた。
その瞳には、驚きよりもずっと前からこの時を予見していたかのような、深い諦念が宿っている。
エドワード様の手の中には、先ほどウェグのたてがみの奥から解き明かした、小さな革袋があった。
それを、そっとお義父様の手の近くに添える。
泥と汗が染み込み、戦場の煤がこびりついた袋。
お義父様の白い指先と並ぶと、それはひどく禍々しく見えた。
「……開けるべきかと思い、まだ中を見ておりません」
それは、エドワード様の最後の抵抗だったのかもしれない。開けてしまえば、まだ確定していない何かまで、事実になってしまう。
けれどお義父様は手を動かさず、ただ視線だけで次男に封を切るよう促した。
エドワード様は小さく頷き、固く結ばれた結び目に指先を立てる。
薄暗い部屋に、乾いた革紐が解ける音だけが響いた。
逆さにされた袋から、エドワード様の手にまず転がり落ちたのは――鈍い金色の輝き。
ヴァルデリウス家の当主印。
お義父様からリアン様へ託された指輪が、ポトリ、と手のひらに落ちた。
そして。
指輪を追うようにして、二枚の紙切れがひらり、ひらりと暗がりに落ちた。
一枚はエドワード様の手の中に残り、もう一枚は、わたしの靴先のすぐそばへ。
わたしは反射的に膝を折り、それを拾い上げた。二つ折りの、何の飾り気もない紙。
「エドワード様」
落ちましたよ。と差し出そうとした手を、お義父様の視線が止めた。
「……アナスタシア。お前が、それを読みなさい」
低く、けれど拒絶を許さない響き。
わたしは困惑した。馬を逃がすようにして検閲を避け、奇跡みたいに届いた重要な書類である。
女のわたしが先に目を通すべきではない。しかし、お義父様の瞳はまっすぐにわたしを射抜いている。
仕方なく、わたしはエドワード様と顔を見合わせ、その紙を開いた。
そこには見慣れた、けれど酷く乱れたリアン様の筆跡があって――。
「あ、――『愛している、アナ』」
自分の声が、自分のものではないように聞こえた。
事務的な報告を予期していた喉が、あまりに場違いな熱い言葉を吐き出したことに、心臓が跳ねる。
「……『君を愛した男がいたこと。』、そ……『それだけを、どうか』……『覚えておいてほしい』……ッ」
最後の一文字を読む頃には、指先の感覚がなくなっていた。
隣でエドワード様が息を呑む音が聞こえる。
お義父様はただ黙ってその声を聞いていた。
……静まり返った寝室に、わたしの声の残響だけが、苦い毒のように漂う。
お義父様は、その「愛している」という言葉を、まるで息子からの最後の手向けであるかのように深く、深く、目を閉じて受け止めて……やがて、掠れた声で短く命じた。
「……エドワード。もう一枚を」
エドワード様は、震える手で自分が持っていた方の紙を開く。
「――『ヴァルデリウス家当主、ジュリアン・ヴァルデリウスが遺す。最終決戦に際し、万一、我帰還せざる時は、本状と当主印を以て、嫡弟エドワード・ヴァルデリウスを次代当主に指名する。速やかに継承の儀を執り行い、領民と血筋を護持せよ』……そんな、父さん。これは、」
あまりに淡々と、事務的に記された継承の宣言。
わたしの手の中にある小さな手紙と、エドワード様の手の中にある手紙。
その二枚を、視線が何度も往復する。
――まるでもう、兄さんは帰ってこないと決めているみたいじゃないか。
そんなエドワード様の困惑の声色を、咀嚼するかのようにお義父様はゆっくりと、鷹揚に頷いて。
「……とにかく、終戦の知らせを待つ」
お義父様はそれだけを言うと、力なく目を閉じた。
エドワード様が手の中に握りしめた指輪は、まだ彼のものではない。けれど、その冷たい金の感触は、いずれ否応なしに彼が継ぐべき〝男爵家〟の重みそのものだった。
「……だが。覚悟だけはしておきなさい。エドワード」
その言葉を最後に、寝室は再び墓所のような静寂に包まれた。
――それから、四日後のことだった。
我が領に『エルドリアス王国勝利』の見出しが躍る新聞が届いたのは。




