65話 帰還
工房の女性たちのほとんどは、エルザを「苦労する同情すべき娘」、わたしを「夫を戦地に捨て置いて平気な顔をしている気持ち悪い女」として、その憎悪を固定化させたようだった。
――あの人が工房にいると気が休まらないわ。
――衝立の奥から私たちを監視しているにちがいない。
――もうスープなんていらないのに。押し付けがましい、偉そうに。
――でももうそこでしか偉そうにできないから、縋り付いているのよ。
――あんなのの言うことを聞かないといけないエルザは大したもんだね。
――ああ、あの子のほうが、よっぽど良い……。
向けられる視線は槍の形をして容赦なく突き刺さるようだけど、わたしは「これでいい」と自分の心に言い聞かせる。
その憎悪が――彼女らを一致団結させて、喪失と戦争の現在を生き抜く糧になるのなら。
これでいい。計画通りだ。ついでに――何かとわたしと一緒の評価にされがちだったエルザも彼女たちの味方として守れている。
少しでも姿を表すだけで、嫌悪の視線が一斉に集まる。
そのたびに体の中から悲鳴が上がるような気がするのは、笑顔が引きつってしまうのは――わたしがまだ未熟な証だろう。
目を離せばすぐに恨みや悔しさが溢れてくる。それを今度こそ、心の奥へ押し込めた。
麻束をひっぱるわたしの後ろからは、夕日の赤が差し込んで手元を禍々しく照らしている。
フシュ、フシュ、と糸車が風を切る音が衝立の中で反響していた。
………
……
…
元々短い春はあっという間に過ぎ去り、季節は奔流の夏へと移り変わろうとしていた。
村の空気は、去年の今頃とは劇的に変わっている。
戦地からの物資引き上げが始まったという噂を聞きつけ、好景気のおこぼれを狙う商人たちが、こぞってこの北の果てまで足を運ぶようになったからだ。
商会への夏の納品を終え、戦中特別上納の廃止が通達されると、冬に生産した雪糸の代金は、目減りすることのない銀貨となって領内へ流れ込んできた。
領民の顔からは飢えの影が薄くなり、エドワード様も、この二年間手付かずだった屋敷の修繕にようやく着手でき、安堵の表情を見せていらっしゃる。
誰もが先を争って楽観に飛びつく、蜂蜜色の滲んだ日々……。
それでも、わたしは変わらなかった。
朝早くに起き、雑務を片付け、日が落ちるまで糸車に張り付く生活を続けている。
公式な勝利の報せが届くまでは。そして、リアン様がこの門をくぐり、わたしの名を呼ぶまでは。
共に戦うと、そう手紙に書いたのだから……。
――と、その時。
夕焼けに染まった外がわあっと騒がしくなった。男性の低い大声が数回響く。警備隊が帰ってきて、スープが配られている時間だから……そう思いながら、私は糸車を止める。工房の表から道に出た。
目に染みるほどの夕日が向かいの屋根からちらついて、目を細めた瞬間。騒ぎには女性の悲鳴も混ざりだして、ただ事ではないと察して走り出す。
広場に出ると、村の入口には男女数人ずつの小さな人だかり。
大股で人を避けながら入っていくと――そこには泥まみれの黒馬が倒れていた。
荒い息のたびに、白い泡が夏の乾いた土に吸い込まれていく。
あばらが浮いた胴体。ぶる、ぶる、と唸りながら、痙攣した四肢で必死に土を掻く様子は、生家で跨っていた馬と比べても泥のバケモノのように見えた。
……迷い馬だろうか? 鞍も手綱もなく、頭絡だけがその馬を『誰かの所有物』たらしめているけれど……。
「こいつは、ウェグだ! 奥様、旦那様の馬ですよ!」
男の一人、ゲオルグさんが叫ぶ。
「え、――」
……そうだっただろうか。戦争へ行く前、リアン様が乗っていた馬の顔なんて、よく覚えていない。
ただ、もっと誇らしげな漆黒の毛並みをしていたはずだ。今のこれは、赤錆びた鉄と泥を煮締めたような、戦場の腐臭を放つ獣でしかない。
「ウェグッ!!」
革靴の音を響かせて、エドワード様が駆けこんでくる。一目見た瞬間、馬の黒い体に縋り付いて。
「どうしたんだ、どうしてお前だけ、兄さんはどうした!」
目元や鼻先を愛おしそうに撫でながら、それでも叫ぶエドワード様の声を聞いて――わたしも、ようやく理解した。
旦那様の愛馬だけが、ボロボロになって帰ってきた――。
「ダメだ! 立て! 立たせるんだ! ここで寝かせたら死ぬぞ!」
そこへガウスさんが水桶を持ち、叫びながらやってきた。
よく見れば湯気が立つほど発熱している馬の体に、ばしゃりと水を投げつけ、縋り付くエドワード様を押しのけて頭絡を掴む。
「立たせろ! 歩かせろ! ゲオルグ支えてくれ、おいバルト!お前もだ、尻を叩いてでもいいから、」
「わ、私も」
「よし、エドワード様はそっちだ、いくぞ、せーの!」
男衆に引っ張られ揉みくちゃにされて、馬――ウェグはふらつきながらも立ち上がった。
すかさず、四方から張り付くようにエドワード様たちがその巨体を支える。
わたしは――ゆっくりと屋敷奥の馬宿に向かう、その背中を追いかけることしか出来なかった。
漂ってくる、泥と鉄と、何かが焦げたかのような匂い。
戦場の空気だけを纏って、他は何もかも置いてきたその黒い後ろ姿は――けれどあの秋の日に旦那様を見送った光景とは終ぞ一致しなかった。




