64話 春の外側
工房の板間に、春の陽光が白く四角く落ちていた。
かつては老婆たちの笑い声や、糸車の軋みが絶えなかったこの場所は、今、耳が痛くなるほどの静謐に満ちている。
窓の向こう、山中の銀冠草の花畑では、今頃エルザの指揮で花弁の収穫が行われているはずだった。
……あの損耗の夜から、わたしは決定的に、この場所を守っていた女性たちと上手くやっていけなくなってしまったから。
雪糸まつりの自粛を告げた時の、彼女たちの瞳を今でも思い出す。
「三人が命を賭して繋いだ明日を、浮かれて浪費してはなりません」
お義父様の言葉をなぞっただけの正論。
でも娯楽さえ奪われた彼女たちにとって、それは領主夫人による『鞭』に等しかったのだろう。
挨拶をしても無視され、頼んだ仕事にはあからさまな手抜きが混じるようになって……わたしの存在そのものが、彼女たちの作業効率を下げる摩擦になってしまったのだ。
だから、女性たちに伝える号令係はエルザに任せることにした。
屋敷の雑事をわたしが引き受ける代わりに、彼女には工房の女性たちと密に接してもらう。
「エルザ、わたしの愚痴を肴にしても構わないわ。……あなたが彼女たちの味方であると、そう思わせるように立ち回ってね」
難しい仕事だけれど上手くやるだろう。
わたしは明るい声でそう指示をする。
しかし――わたしの言葉を聞いた瞬間、エルザの冷淡なまでに整った瞳からは、大粒の涙が零れ落ちた。
メイドという生涯をかけた仕事を馬鹿にするような発言だったろうか。
そう思って謝罪の言葉を口にしかけたけれど、彼女はそれを遮るように涙を拭い、深く、祈るようなお辞儀をした。
「……承りました、奥様」
それから――あっという間春が来た。
一人は寂しい。でも誰の期待も裏切らずに済むこの場所には、奇妙な安堵があった。
わたしは力を込めて糸を持ち、一定の速度で糸車を回す。
エルナお婆さんの助言通り、溝を埋めた糸車の調子は驚くほど滑らかに動く。
チチチ、と乾いた音を立てながら、指先で引き出される霜麻は雪のように白い。
――喪失と拒絶のこの冬、私は狂ったように糸を紡ぎ続けていた。
数週間前、商会の砕氷の銀蜂が去年と同じ頃領地に辿り着き、わたしは約束通り、借金の返済分を含めた彩雲糸の納品を完了させた。
木箱に収められた虹糸の束は、去年よりもずっと細く均一に整っている。
激情を排し、ただ機械のように働き続けた結果、皮肉にもわたしの技術は職人の域に達したようだった。
木箱と共に渡された姉さまの手紙は、懐かしい金縁で彩られている。
その内容は――王都の〝熱〟が閉じ込められているみたいに、密度が高かった。
フレデリックが、無事に帰還しました。
腕に少しばかり名誉の擦り傷を作って、誇らしげな顔で。後方支援の任務だったからと謙遜しているけれど、わたくしにとっては彼が五体満足で戻ってくれたことだけが、神の奇跡のように思えるわ――
手紙をなぞるわたしの指先は、相変わらず氷のように冷たい。
姉さまの旦那様は、血に濡れた認識票も、わたしを蝕む黒塗りの沈黙も、何一つ連れてはこなかった。
――軍部は今、敵国から押収した深核石や物資の再分配で、目の回るような忙しさよ。
わたくしの商会もその波に乗って、かつてないほどの発注が舞い込んでいます。
アナ、もう心配はいりません。王都の熱気が、きっとそちらの雪も溶かしてくれるわ
……姉さまの中では、もう「終わったこと」なのだ。
姉さまにとって、戦争とは一時的な不自由であり、今はその反動で訪れる『好景気』という名の祝祭を謳歌する時期。
わたしは、手紙を静かに閉じた。
姉さまの無垢な幸福は、今のわたしには理解できない言語で綴られているみたいだった。
でも、姉さまが愛する人の隣で忙しく、楽しく過ごしているのなら、それで『良い』。
あとは何も考えない。
王都から流れてくる深核石――そのものを組み込んで使う機械は我が領にはないけれど、波が向こう岸に押し寄せるかのように、様々な物資が大量に安価でこの村にも届き、領民たちの食卓と精神を潤している。
それ自体も、領主の妻として『良し』とすべきことだ。
けれど、安くなったパンを頬張る彼らの中に、わたしは軍人の影を見てしまう。
今では、その死を告げる軍人さえも、この村の背景に溶け込んでいた。
彼が道を歩くたび、誰かの家から悲鳴や嗚咽が聞こえる。
しかし人々はそれに慣れ、怯えることに飽き、今日は自分の家ではなかったことに安堵して、また物にあふれる安価な日常へと戻っていく。
他人事のように考えながら、わたしは再び目の前の麻束を引っ張って糸を紡ぐ。
姉さまの言う〝春〟はここにも来ている。
でも……わたしの心はあの日からずっと、鉄の匂いのする夜の中に置き去りにされたままだった。
だから半年前よりももっと、感情が動かない。
そういえば、納品後に旦那様から最新の返信が届いたときも――。
親愛なるアナへ███████████████████████████████████
████████████████████████████
█████████████████████
愛している、アナ
ジュリアン
封を切った時、一瞬だけ期待に指が震えた。
けれど――検閲の黒塗りが、文章の九割を塗り潰している。
唯一、末尾に「愛してる、アナ」という七文字だけが、検閲管の慈悲のように残されていた。
かつての私なら、この七文字だけで泣いて喜び、安堵しただだろう。
けれど今のわたしには、この言葉を咀嚼するだけの活力が残っていない。
あの日、激情を棚の奥へしまい込む前。
わたしはリアン様に、随分と不遜な言葉を書き連ねて送ってしまった。
――絶対に生きて帰りなさい。
そんなふうな、身勝手な命令を。
この黒塗りの下にあるのは、そんなわたしへのお叱りの言葉だったのかもしれない。
あるいは、わたしがもう耐えられないことを察して――言葉を失ったのか。
……何を書けば良いのか、もうわからなかった。
心の内側には、今もリアン様への執着が泥のように溜まっている。
誰よりも愛している。絶対に、何が何でも帰ってきてほしい。
でも、あの血塗られた認識票の夢を見てからというもの、わたしはリアン様のために祈ることが怖くてたまらなくなっていた。
希望という名の積み木を、これ以上高く積み上げる勇気がない。
もし途中で崩れてしまったら、今度こそわたしは、一欠片も残らず粉々に砕け散ってしまう……。
結局わたしは、旦那様から届いたのと同じ分量だけ、無機質な言葉を便箋に埋めた。
――こちらは、春になりました。
――物資が届き、領民に笑顔が戻っています。
――わたしは、今日も糸を紡いでいます。
まるで、手回しオルガンが同じ旋律を繰り返すように。
当たり障りのない事実だけを並べた返信。
それが、わたしがわたしのままで生き延びるための、唯一の方法だった――。




