63話 爪痕
「……ん、」
どれほど眠っていたのだろう。
部屋の中は、夜明け前の凍てつくような仄明るさに満ちていた。
階下から響く、重々しい扉の開閉音。
続いて、石造りの床を叩く、硬く規則正しい軍靴の音――。
その音が耳に届いた瞬間。
心臓が跳ね、泥のような眠りから意識が強制的に引きずり出された。
一階がひどく騒がしい。こんな吹雪の夜明けに、一体誰が……。
――まさか。
頭をよぎったのは、山へ向かった三人の姿だった。
見つかったのだ、きっと。
誰かが助け出したか、もしくは――。
わたしは着替えもせずにベッドを飛び出した。冷え切った廊下を裸足のまま走り、階段を滑り落ちる勢いで降っていく。
でもその途中。玄関ロビーで枯れ木のような人影が俯いているのが見えて、足を止めた。
「――お義父様?」
一段、また一段、とアーチ状の階段を降りることで、柱で見えていなかったお義父様の対面が見えるようになっていく。
そこには、雪を被った軍服を着た男がいて――。
冷たい真顔の男が、無言で何かを差し出した。
それを受け取ろうとしたお義父様の手は、見たこともないほど激しく、痙攣するように震えている。
「……あ。ああ……。ああああ……ッ」
それは、言葉にさえならない、魂が削れるような絶望の吐息だった。
お義父様は両手で顔を覆い、糸が切れた操り人形のように、その場に力なく崩れ落ちた。
指の間から、一通の封書と、銀色の鎖が滑り落ちる。
――カチリ。
床を転がったのは、二枚組の認識票――。
「ッ゛、」
心臓の音が耳元で爆ぜる。わたしは階段を駆け下りた。
お義父様の隣に膝をつき、必死にその銀の札を拾い上げようとして――指先が、凍りつく。
赤黒い血がべっとりとこびりついていた。
床で一度跳ねたのだろう。
爪を立て縋りついたような赤い筋が伸びている。
「そんな……嫌……嫌……!! 嘘、リアン様……!!」
震える指で認識票を拾い上げ、握りしめて胸に押し当てた。
夢であってほしいという願いを嘲笑うかのように、食い込んだ手のひらが熱くて、そして痛い。
「ぁあ、――あああ゛ッ」
誰か嘘だと言って。どうして、信じない、こんな、ああ、こんな形で!!
「リアン様ッ、どうして……どうしてぇッ!!」
でも掌に吸い付く銀色の冷たさと、鼻を突く強烈な鉄の匂いが、逃げ場のない現実として私を打ちのめす。
「ああ゛、ああ゛ぁ゛……ッ゛!!」
肺が潰れるほど叫んでいるのに、瞳だけは乾ききっていた。
絶望が喉を焼き、意識が暗転しそうになった。けれど失神さえ許されない。
荒ぶる感情を内包したまま、両手で顔を抑えてうずくまる。
貴方が好きですと、愛していますと、何一つ伝えられていないのに!
暗闇の中、エルザか誰かに抱えられ、引きずられるようなめまいを感じた。
胎児のように丸まりながら、手の中に握り込んだ銀を何度も確認して、何度も血を親指で拭い取る。
――█ュリアン・ヴァルデ██ス
どうして、嘘つき、帰ってきてって、あんなに――。
わたしはどうして、あの秋の日に「行かないで」と言えなかったの!
窓を叩く雪みたいに、負の感情が現れては消えてまた蘇る。
絶望、困惑、自己嫌悪、どこへもぶつけられない怒りと恨み。
――貴方がいないこんな雪山なんて、生きていたって――いっそわたしも、一緒に……。
認識票の形だけを手のひらに刻みつけながら、浅い呼吸を――泣いていないのに、しゃくり上げるみたいに――繰り返していた。
嵐のような感情は一切静まることはなかったけれど、だんだん意識は沈んでいく――。
「――奥様。奥様!」
肩を強く揺すられ、視界が真っ白に弾けた。
目の前にあるのは、血塗られたロビーではない。
薄暗い自室。わたしを覗き込む、エルザの心配そうな顔。
咄嗟に手のひらを見る。
血が乾いて黒い汚れになっているはずの掌に、あの銀色はなかった。
旦那様の、唯一の遺品である、あの銀の欠片は、どこにいったの。
「エルザ……? 旦那さまの、に、認識票はどこ……? ど、どこへやったの!?」
狂ったようにベッドの上で手を探るわたしを見て、エルザは悲しげに眉を寄せ、わたしの肩をしっかりと掴んだ。
「落ち着いてください、奥様。……察するに、それは夢です。認識票など、どこにも届いておりません」
「そ、そんなはずないわ、だって。今、手に血が……朝に軍の、戦死の……」
言い募るわたしの言葉を遮るように、エルザが窓に歩み寄り、勢いよくカーテンを引き開けた。
窓の外は、夜明け前の深い青色と、すべてを遮断する猛吹雪の世界が広がっている。
「見てください。この雪です。馬はおろか、人が麓から登ってくることすら不可能な大寒波なのですよ」
エルザの声は、現実という名の氷水のように、わたしの体を冷やしていく。
「ゆ……ゆめ……」
「ご安心ください。悪い夢ですよ」
――夢。
改めて自分の掌を見ると、肌色の左手と赤斑の右手。
血の汚れなんてどこにもついていない。
でも……。あの時、掌に感じた生々しい鉄の匂いと、ぬるりとした感覚はまだ鮮明に残っていて……。
中空を見つめる。その瞬間、色々なことが頭をよぎった。
工房、真顔の女たち、手紙。
死を告げる軍人と、喪われた三人の笑顔――。
心の奥の誰も触れてこなかったところ。
自分でも無自覚な脆いところが、音を立てて砕け散るのを感じた。
視線を落とす。すると、そこには爪の食い込んだ痕が残る手のひらがある。
弧を描き並ぶそれは、笑顔のように見えた。
わたしはそれを……冷たく凪いだ心でずっと眺めていた。




