↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最果てより、愛をこめて。  作者: すの
第十二章:断絶
63/88

63話 爪痕


「……ん、」


 どれほど眠っていたのだろう。

 部屋の中は、夜明け前の凍てつくような仄明るさに満ちていた。


 階下から響く、重々しい扉の開閉音。

 続いて、石造りの床を叩く、硬く規則正しい軍靴の音――。

 その音が耳に届いた瞬間。

 心臓が跳ね、泥のような眠りから意識が強制的に引きずり出された。


 一階がひどく騒がしい。こんな吹雪の夜明けに、一体誰が……。


 ――まさか。


 頭をよぎったのは、山へ向かった三人の姿だった。

 見つかったのだ、きっと。

 誰かが助け出したか、もしくは――。


 わたしは着替えもせずにベッドを飛び出した。冷え切った廊下を裸足のまま走り、階段を滑り落ちる勢いで降っていく。

 でもその途中。玄関ロビーで枯れ木のような人影が俯いているのが見えて、足を止めた。


「――お義父様?」


 一段、また一段、とアーチ状の階段を降りることで、柱で見えていなかったお義父様の対面が見えるようになっていく。

 そこには、雪を被った軍服を着た男がいて――。


 冷たい真顔の男が、無言で何かを差し出した。

 それを受け取ろうとしたお義父様の手は、見たこともないほど激しく、痙攣するように震えている。


「……あ。ああ……。ああああ……ッ」


 それは、言葉にさえならない、魂が削れるような絶望の吐息だった。

 お義父様は両手で顔を覆い、糸が切れた操り人形のように、その場に力なく崩れ落ちた。

 指の間から、一通の封書と、銀色の鎖が滑り落ちる。


 ――カチリ。


 床を転がったのは、二枚組の認識票――。


「ッ゛、」


 心臓の音が耳元で爆ぜる。わたしは階段を駆け下りた。

 お義父様の隣に膝をつき、必死にその銀の札を拾い上げようとして――指先が、凍りつく。


 赤黒い血がべっとりとこびりついていた。


 床で一度跳ねたのだろう。

 爪を立て縋りついたような赤い筋が伸びている。


「そんな……嫌……嫌……!! 嘘、リアン様……!!」


 震える指で認識票を拾い上げ、握りしめて胸に押し当てた。

 夢であってほしいという願いを嘲笑うかのように、食い込んだ手のひらが熱くて、そして痛い。

 

「ぁあ、――あああ゛ッ」


 誰か嘘だと言って。どうして、信じない、こんな、ああ、こんな形で!!


「リアン様ッ、どうして……どうしてぇッ!!」


 でも掌に吸い付く銀色の冷たさと、鼻を突く強烈な鉄の匂いが、逃げ場のない現実として私を打ちのめす。


「ああ゛、ああ゛ぁ゛……ッ゛!!」


 肺が潰れるほど叫んでいるのに、瞳だけは乾ききっていた。


 絶望が喉を焼き、意識が暗転しそうになった。けれど失神さえ許されない。

 荒ぶる感情を内包したまま、両手で顔を抑えてうずくまる。


 貴方が好きですと、愛していますと、何一つ伝えられていないのに!


 暗闇の中、エルザか誰かに抱えられ、引きずられるようなめまいを感じた。

 胎児のように丸まりながら、手の中に握り込んだ銀を何度も確認して、何度も血を親指で拭い取る。


 ――█ュリアン・ヴァルデ██ス

 

 どうして、嘘つき、帰ってきてって、あんなに――。

 わたしはどうして、あの秋の日に「行かないで」と言えなかったの!

 

 窓を叩く雪みたいに、負の感情が現れては消えてまた蘇る。

 絶望、困惑、自己嫌悪、どこへもぶつけられない怒りと恨み。


 ――貴方がいないこんな雪山なんて、生きていたって――いっそわたしも、一緒に……。


 認識票の形だけを手のひらに刻みつけながら、浅い呼吸を――泣いていないのに、しゃくり上げるみたいに――繰り返していた。

 嵐のような感情は一切静まることはなかったけれど、だんだん意識は沈んでいく――。


「――奥様。奥様!」


 肩を強く揺すられ、視界が真っ白に弾けた。

 目の前にあるのは、血塗られたロビーではない。

 薄暗い自室。わたしを覗き込む、エルザの心配そうな顔。


 咄嗟に手のひらを見る。

 血が乾いて黒い汚れになっているはずの掌に、あの銀色はなかった。

 旦那様の、唯一の遺品である、あの銀の欠片は、どこにいったの。


「エルザ……? 旦那さまの、に、認識票はどこ……? ど、どこへやったの!?」


 狂ったようにベッドの上で手を探るわたしを見て、エルザは悲しげに眉を寄せ、わたしの肩をしっかりと掴んだ。


「落ち着いてください、奥様。……察するに、それは夢です。認識票など、どこにも届いておりません」

「そ、そんなはずないわ、だって。今、手に血が……朝に軍の、戦死の……」


 言い募るわたしの言葉を遮るように、エルザが窓に歩み寄り、勢いよくカーテンを引き開けた。

 窓の外は、夜明け前の深い青色と、すべてを遮断する猛吹雪の世界が広がっている。


「見てください。この雪です。馬はおろか、人が麓から登ってくることすら不可能な大寒波なのですよ」


 エルザの声は、現実という名の氷水のように、わたしの体を冷やしていく。


「ゆ……ゆめ……」

「ご安心ください。悪い夢ですよ」


 ――夢。

 改めて自分の掌を見ると、肌色の左手と赤斑の右手。

 血の汚れなんてどこにもついていない。


 でも……。あの時、掌に感じた生々しい鉄の匂いと、ぬるりとした感覚はまだ鮮明に残っていて……。


 中空を見つめる。その瞬間、色々なことが頭をよぎった。


 工房、真顔の女たち、手紙。

 死を告げる軍人と、喪われた三人の笑顔――。


 心の奥の誰も触れてこなかったところ。

 自分でも無自覚な脆いところが、音を立てて砕け散るのを感じた。


 視線を落とす。すると、そこには爪の食い込んだ痕が残る手のひらがある。

 弧を描き並ぶそれは、笑顔のように見えた。

 わたしはそれを……冷たく凪いだ心でずっと眺めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。