62話 天秤
膝の上で重ねていた両手を握りしめる。
俯いても、目を閉じても、涙は一切こぼれなかった。
喉奥ばかりが狭くなり、あえぐように息をしながら――困惑の側。諦めばかりが大きくなるのを、「まだ何一つ確定していない」という思いで塗りつぶす。
おそらく、薪を取りに行っただけ。その途中で少し立ち往生しているのかも。
きっとそうに決まってる。歩けたからと、油断して――。
大丈夫。大丈夫。きっと、優秀な警備隊が見つけてくれる。助けてくれるはず。
「奥様。夕食の準備が整いました」
「……えッ、――あ、今行くわ」
頭を抱えて困惑を繰り返していたら、いつの間にかそんな時間になっていたらしい。
わたしは疑問と後悔と祈りがごちゃ混ぜになった海から顔を上げ、食卓についた。
席にはもうすでに、鉛色の顔をしたお義父様、エドワード様が着席している。
目の前には、夕方に警備隊へ出したスープの残りに湯を足して煮立たせた、実も花もない泥のような粥が一皿。
パンを作るための挽いた穀物は、もうひと握りも残っていなかった。
わたしが着席してすぐに、エドワード様が口を開いた。
「行方不明の老婆三人は、まだ見つかっていません。吹雪がひどく、そもそも広範囲に捜索網を広げることができませんでした。明日も捜索を続ける予定ですが……」
そこまで滔々と語ったエドワード様は、銀のスプーンで皿の中をかき混ぜながら、一拍置いて続ける。
「ですが、やはり……ギザラ山の、眠りの洞窟に向かったのでしょうか」
その聞き慣れない単語が食堂に響いた瞬間。お義父様の椅子がガタリと音を立てた。
「――エド、知っていたのか……?!」
エドワード様を見て、それから弾かれたようにわたしを見る。それから、顔にぎゅっと皺を寄せた。
わたしは、その表情で全部分かってしまう。
私たちにそのことを隠していたこと。話すにしたって、わたし抜きで話を進めたかったであろうこと。
しかし聞いてしまったからには、問わずにはいられない。
「眠りの洞窟、ですか? そこに彼女たちがいるのですか!」
テーブルに手をついて立ちあがり、前のめりになる。
お義父様が、珍しく狼狽えるような仕草をした。
「待ちなさい。アナスタシア。エドワードも、どうして今ここで……」
「アナスタシア義姉さんも家族だからですよ。父さん。何も知らない義姉さんがこの後飛び出して行ったらどうするんです」
この場で一番冷静なエドワード様がピシャリとそう言うと、ぐう、とお義父様の喉が鳴る。
二人の想像通り、わたしでも「飛び出しては行かない」とは言い切れなかった。
山の中には行けずとも、例えば三人各々の家を回るとかは、ただ待つことに耐えきれずにやっていたかもしれない。
しばしの沈黙。パチリ、パチリと暖炉の薪が燃える音がしばらく続いて、それから。
「ギザラ山の……奥には、毒気が充満している洞窟がある。ずっとずっと昔の――飢饉のときは……そこを使っていたと、伝わっている。が、このことを知っているのは代々の当主と、一部の年寄りのみ……」
苦そうに、お義父様が呟く。
握られているスプーンが震えて、ちらちらと銀の光を返していた。
「エド、お前の当主としての実力を認めていない訳ではない。伝えなかったのは――」
「分かっていますよ。父さん。私が知ったのも偶然です」
「待ってください、教えてください! どこのことなのですか。奥、とは遠いのですか?」
彼らの会話を遮り、喉を震わせて割って入る。
指先にテーブルクロスが集まるのを感じていた。それでも止まれない。
「場所が分かっているなら保護したいのです、連れ帰ります! 早くしなければ、」
早くしなければ、彼女たちを永遠に――失ってしまう。
「待て。アナスタシア。……聞きなさい」
肩がこわばりすぎて、肺が痛かった。歯の隙間から荒い息が漏れる。
お義父様はわたしに対して手をかざし、強い意志で「止まれ」と示してから。
「まず、座りなさい」
「ッ゛、」
わたしは、テーブルクロスから手を離し、渋々席についた。
お義父様はわたしがきちんと座ったのを確認して、更に一拍置いてから。
「……――場所は、教えない。絶対にだ」
「そんな――ッ」
「……あそこは、ただ座り込んでいるだけで、意識を失い、そのまま還れる場所だ。地面を這う、見えない山の吐息……。あれを一度でも吸い込めば、恐怖も、寒さも、飢えさえも……瞬く間に奪われてしまう……」
お義父様は――ヴァルデリウス領先代当主は、枯れ果てた顔のまま絞り出すように続ける。
その険しい瞳には、今現在の食卓ではなく、遠い遠い昔の吹雪が写っているようだった。
「かつて、その場所へ向かった者たちは……誰も叫ばなかった。誰も、助けを求めて這い出してはこなかった。故に、後世の者はそこを『眠りの洞窟』と呼んだ。苦しまず、安らかに還るための聖域だと……自分たちに言い聞かせながら、今日までその汚名を繋いできたのだ」
昔話から、現在への帰結。その続きを聞きたくなくてわたしは小さく首を振る。
「昨日の昼、遅くとも夜に山に入ったのなら……とっくにたどり着いている。恐らく、苦しまなかっただろう」
「――ま、まだ喪失したとは決まっていませんッ!!」
わたしは浅く吸った息をそのまま吐き出して、諦めきっているお義父様に叫ぶ。
喉が痛い。こんな大声は出したことがなかった。
どうして、どうして。
おかしい。おかしいッ!
「故に、捜索も打ち切ることとする。これ以上の損耗こそ、あってはならないことだ。分かったな、エドワード」
「きっ、決まっていませんッ!! しっ、死体だって見つかっていませんッ!! だって、まだ、わ、わたしは……!」
吠えるようなわたしの言葉を、お義父様は静かな、けれど有無を言わさぬ重みのある溜息で遮った。
「アナスタシア。お前の慈愛が、彼女らには拷問に等しかった。その結果を、心に留めておきなさい」
お義父様は、震えるわたしの瞳を逃さず、真っ直ぐに見据えている。
「そしてこれからも、我々はこうした選択を続ける。摩擦を天秤にかけ、最大多数を救うために。……それが領主の務めだ」
「――ッそんな、ですが、だ、だって……だってわたしは……ッ」
わたしは、彼女たちに明日も生きてほしくて――春になったらまた技術の提供をしてほしくて――スープを届けた。
善意もあったけれど、ちゃんと、この国の教えに沿った、合理的で正しい行いのはずだった。
認めたくない。だって、ならば、あの時忘れられるままにして、あの薄暗い部屋の中でたった一人で逝かせ、最終的に異臭で周りが気づくような……そんな扱いをすればよかったのか。
泣き出す直前みたいに、鼓動が早くなる。
息を吸うばかりになって、焦点が定まらなかった。
テーブルの上のスープに、赤い豆が積まれている幻視をする。
口を大きく開けて笑う老婆。
わたしのカーテシーを「きれい」と言って褒めてくれた小さな瞳。
薄暗い工房、数多の目が「当然の結果」と言わんばかりに細く険しくなり、わたしを否定する。
「答えは出なくとも、やらねばならん。彼女らが削り取って差し出した『明日』を、引き継ぐのが我々の責務だ」
三人は、自分の分のスープを、自分の分の薪を、明日を生きる若者や子供たちに――そしてなによりも『わたし』に譲った。
それを無駄な死にさせないことだけが、残された者の義務なのだと、お義父様は言っている。
困惑の果てに、目の前には白い光がちらついていた。
それでも、理解できる。無駄にしないように。そんなことは――でも、でも――。
「……話は終わりだ。アナスタシア。さあ、エドワードも。冷めないうちに食べきりなさい。お前たちが倒れては、彼女らの覚悟がそれこそ無駄になる」
……わたしは、泥のような薄粥を見つめる。
お昼のスープを飲んでいないから、思い出したかのようにお腹が鳴る――そのお腹の引き痙れが、本当に忌々しかった。こんな犠牲を出してまで啜りたくなかった。
けれど……けれどわたしは匙を取り、震える手で口に運んでいく。
狭く開いた口に押し込む。味がしない。でも、熱かった。口内から食道、それから胃の中に溜まって、体温に溶けていく。
これが、彼女たちがわたしに「生きてくれ」と遺していった熱なのだと――今この時だけは、自分にそう言い聞かせて匙を動かす。
――戦争が終わったら、何もかも良くなるさ。
――それまで頑張りな。




