6話 春
しかしそこにあったのは、わたしの自語りを窘める文言でも、醜態を責める文言でもなかった。
親愛なるわが妻、アナスタシアへ
貴殿の日常の様、しかと拝見した。心の内を打ち明けてくれて、心より感謝する。
正直に申せば、前回の手紙を認めたとき、私は心身ともに疲れ果てており、あのような踏み込んだ問いかけをしたことを悔やんでいたのだが……。
故に、貴殿が一切の懸念なく素直に多くを綴ってくれたことは、私にとって格別の喜びだ。
あの手紙を送らせたエルザには、必ずや相応の褒美を与えねばなるまい。
それで、私は今――貴殿のその日常の中に私がいないという事実が、どうにも口惜しいのだ。
あの半年間、私が貴殿に対し、領主の務め以上に貴殿の心を掴みにいかなかったことが、これほどの後悔となるとは思いもしなかった。
貴殿の一日は、決して冗長などではない。ヴァルデリウス夫人として、実に立派にお務めを果たしていると、深く感じ入っている。
わが家を幸福に思ってくれていること、心より感謝する。
だが、朝から晩まで働き詰めではなかろうか。
少々のことはエドワードに任せても構わぬのだから、どうか体を労り、きちんと休息をとりなさい。
私は、今も己の判断を後悔してはいない。王国の為に戦えることは誉れである。だが、一刻も早く勝利を掴み、貴殿のもとへ帰りたい。
今はただ、そのことだけを胸に、戦場を駆ける所存だ。
戦いが終わった暁には、君と共に過ごす時を、私の方からいくらでも用意しよう。
君の口から、今日あった何気ない出来事を聞ける穏やかな日々を思うにつけ、私はいくらでも剣を振っていられるだけの力が、内から湧いてくるのだ。
わが愛しき妻よ、何卒健やかに、わが帰還を待たれよ。 故郷の安寧を期待する。
ジュリアン
気が付けば、わたしは用もなくエルザを呼んでいた。
真隣で突然呼ばれた彼女は肩を震わせ、手にしていたペン先で磨き布を突き破ってしまう。
「――奥様……いえ、お嬢様。はしたないですよ。一体何事ですか」
目を細めるエルザに、わたしは……言い訳したのだっけ……。
それからは焦りと困惑と、身の丈に合わない興奮を繰り返していた。
不意に「悔やんでいた」という一文に、自分だけではなかったのだと胸が熱くなり。
「立派に務めを果たしている」という言葉に、肩の荷が少し軽くなる。
わが愛しき妻――そんな定型文が何度も心の中に響く。
旦那様が望むささやかな幸福。
朝焼けのように光り輝く未来の妄想で、頭の中が一杯になって、頻繁にぼんやりしてしまう……。
茹るような妄想の日々を過ごしているうちに、わたしはどう返事をすればいいかすっかり分からなくなっていた。
何度も「わたしも同じです」と書こうとしては、手が止まる。
ただ頷くだけでは足りない。
「愛しき妻」と呼んでくださった人へ返す言葉……。
そう思うと一文字も綴れなくなってしまう。
結局、まともな返信を書くまでに一か月もかかってしまった。
親愛なる、旦那様へ
返信が遅れてしまい、誠に申し訳ございません。
この空白期間はわたし個人の煩悶によるものであり、領地の運営は恙なく行われておりますゆえ、ご案じなきようお願い申し上げます。
この一月、旦那様のお手紙に対し、わたしはいかに返すべきか、ずっと思い悩んでおりました。
申すまでもなく、そのお心遣い全てが、わたしの格別の喜びとなっておりましたからに他なりません。
戦地に身を置かれる旦那様に、わたしのこの溢れる気持ちを、いったいどうしたら伝えられるだろうかと、幾度も幾度も考えを巡らせました。
そして、わたしも、心に一つの決意をいたしました。
もし差し支えなければ、これからわたしのことは、アナスタシアではなく、 『アナ』とお呼びくださいませ。
この名が貴方様のお傍に、少しでも寄り添えますように。
わたしはいつでも貴方様の身を案じ、想い続けております。
北方の安寧のため、貴方様が健やかにその務めを果たされ、ご無事であることを、心より切にお祈りしております。
貴方様のアナスタシア
わたしが悩んでいる間に、春の花が散り、山は一気に濃い緑へと姿を変えていった。
日は長くなり、この北の地にも、冬の次に厳しい奔流の夏が近づいてくる。
不思議なことに、旦那様への返事を待つ苦しさは、もうほとんどない。
心のどこかに一本芯が通ったような、高揚にも似た穏やかさがあった。
とはいえ、浮かれてばかりもいられない。
夏至星が天頂の座を譲り、本格的な秋が始まるまでに終わらせなければならない仕事は山のように積み上がっている。
例えば、雪糸の材料となる霜麻の収穫、発酵と乾燥。
備蓄の確認。
山から下りてくる獣への備え。
領民の仕事を見回り、記録を残す日々。
そうして慌ただしく過ごしている間に、旦那様から返事が届いていた。
やはり夏になったことで山道が安定したのだろう。
ずいぶん早く、前回から二週間しかたっていない。それも――二通。
薄くとも束になったそれらは、旦那様の溢れた感情みたいに見えて素直に嬉しい。
今まで感じたどの緊張とも違う高揚感に身を任せて、封筒裏の発信地と日付を確認する。
まず、最初に発送された方を開封した。
愛するわが妻、アナスタシアへ
では、私もそう呼ばせていただこう。アナ、君の決意は、私の心に歓喜として届いた。 ならば、君からも私のことをリアンと呼んでほしい。
――自分でも浮かれている。物思いにふけるたび、アナ、アナと、つい名を口にしている。君の存在が、私にとって何よりも強き心の支えだ。
帰還の折には、君の唇からリアンと呼ぶ声を聞かせてくれるか。それが、今この命を繋ぐ唯一の光だ。
この季節の君の忙しさは想像に難くない。君のその細い体を、どうか労わってほしい。
君のジュリアン
胸の奥がぎゅう、となる苦しいほどの歓喜が、体中に溶けて広がっていく。
気付けば胸へ押し当てていたせいで、紙には取り返しのつかない皺が寄っていた。
破かぬよう、そっと机の上で伸ばしていく。
――アナ、アナ――。頭の中に響く、朧げな旦那様の声。
リアン。声はあまりの興奮で出なかったけれど、唇が先走ってそう唱えている。
「り、……リアン様」
喉が震えれば、頬が燃えるように熱くなっていくようだった。
戦争が終わって、お帰りになられたなら。一番最初にそう呼ぼう。
〝おかえりなさい。リアン様〟と――。
何度も擦ったけれど、折り目は完全に取れなかった。
これ以上は紙が破けるだろう。そう断念しつつ慎重に封筒の中へしまう。
それから、残ったもう一通の存在をやっと思い出し――恐らく書き分けた業務連絡だろうかと思って、思考を意識して切り替えながら開ける……。
選ばれた。新しい部隊へ行く。
祈ってくれ。必ず勝利を。アナ、待っていてくれ。
定型文もない、ひどく白いそれの中央に、まるで簡素な知らせのような走り書き。
封筒の裏を見る。一通目を出した――二日後に出されていた。
配属替えなど珍しいことではない。
それでも――「祈ってくれ」。
あのリアン様が、そんな言葉を書く。
胸の奥が、ぞくりと冷えた。
もし、この先手紙を書けない任務なのだとしたら。
わたしは急いでペンを取る。
愛しい、わが夫リアン様へ
貴方様からの二通目の報せ、確かに拝受いたしました。
この度の選定が、貴方様の勝利に繋がる、喜ばしいことでありますように。
わたしは、この身を以て貴方様の無事を祈り続けましょう。
任務は過酷と推察いたします。どうか、心身を労わり、必ずご無事でいらしてください。
貴方様のアナスタシア
それから。
旦那様の手紙は、返ってこなくなった。




