59話 正しい行い
大寒波にふさわしく、雪はますます激しさを増していた。
閉ざしの冬の間は元々そうなりがちだけれど、吹雪のせいで何日も星が見えない夜が続いている。
星が見えず、今が冬のどこなのか誰にも分からない。
それだけで、食料の配分は狂っていく。
明朝からの雪かきという重労働のせいで、職人全員が朝工房に集まるときには疲労困憊していた。
そんな中でも、お昼のスープの時間は唯一空気が緩む憩いのひと時。
配るのはわたしとエルザか、わたしとマルタさんの二人体制で、具も汁も均等になるように。誰がどんな形のお皿を持っていても、お玉一杯。
そんなふうに、閉ざしの冬を、ただ耐え忍ぶ日々を続けていると……とある吹雪の翌日から、三人の老婆が工房に出てこない日が続いた。
二日目には「もうこの冬は出てこないんじゃない?」と囁かれるようになり、やがて誰も三人の安否を口にしなくなる。
まるで最初からいなかったかのように扱う周囲の冷たさに耐えかねて、わたしはスープを小鍋に移し、寝たきりになってしまった彼女たちのもとへ通うことにした。
「では、配膳よろしくお願いしますね。余りは、なるべく子どもたちに」
保温のために鍋はおがくずを詰めた木箱の中にあった。だからわたしは木箱を抱えながらマルタさんに向き直る。
すると彼女は頭をかき、居心地悪そうに目をウロウロとさせながら、
「奥様……そりゃ、婆さんたちは喜ぶだろうけど。毎日は、その、あー、甘やかしすぎじゃないか。せめて二日に一度とかさ」
「いえ、毎日でなければ繋ぎ留められません。彼女たちには、春にまた出てきてもらわねばなりませんから」
決して責める意図はなかった。自分の中の事実を口にしただけ。
しかしその静かな一言は、マルタさんの正義を切り裂いてしまった。
――あ。また冷たい態度を。そう思ったときにはもう遅い。
マルタさんは僅かに顔を赤くして、手に持ったお玉を握りしめる。
「……ああ、そうかい。代わりに今働いてる私たちが飢えても構わないってんなら、好きにすりゃあいいさ!」
「ッ、苦労を掛けますが、配分は調整しています。今日も余るはずですから、大丈夫ですよ」
なるべく穏やかな声を心がけるけれど、マルタさんには届かない。
彼女は返事をせず鍋に向き直り、スープを配りだした。その手は必死に怒りを堪えるかのように、わずかに震えている。
スープを受け取って、テーブルに戻る途中の数人からも視線を感じていた。
「あの子、マルタを怒らせて、これからどうするつもり?」
心のなかで誰でもない声がする。
………
……
…
僅かに温かい木箱を抱えて、まずはゲルダお婆さんの家へ。
また失敗してしまった。うつむきながら、灰と氷の粒が混ざった雪道を歩く。
「こんにちは。スープを持ってきました」
「そうかい。ありがたいけどね、いらないよ。帰りな」
ゲルダさんは少し乱れたベッドの中にいて、そこから玄関のわたしを睨みつけていた。
積もった雪のせいで外ばかりが明るい、いつもよりも暗く見える部屋の中。
もともと体調を崩しがちで、数日ごとに糸を紡ぎに来ていた人ではあったけれど……閉ざしの冬になってから、また一段と痩せて小さくなっている。
「そんな悲しいこと言わないでください……足元の毛布、直しますね」
「ああ、ありがとう。でももういいよ。帰んな」
「お体起こしますね、」
彼女の刺々しい言葉を半ば無視して、外に出てしまっている足先に毛布をかけ直す。悲しいほど骨と皮だけになった背中に腕を差し込こんだ。
ここまですればゲルダさんも半ば諦めるのか、自分でも力を込めて上半身を起こしてくれる。
持ち込んだ木の器に湯気を立てたスープをよそい、スプーンを差し込んで。
「毎回思うんだけど。あんた、自分の分削ってんじゃないだろうね」
ゲルダさんはまだわたしを睨んでいた。「奥様が食べないなら食べないよ」そう言って、そっぽを向いてしまう。
わたしは――実はこのやり取りは三回目で、今回はちょうどいい反論のようなものを持ってきていた。
「そう仰ると思って、わたしの分のお皿を持ってきています。一緒に食べましょうね。ゲルダさん」
すると彼女は、落ち窪んだ眼窩から瞳が落っこちてしまいそうなほど目を見開き、それからくしゃりと顔を歪ませる。
言い返されて悔しかったのだろうか。工房の女性たちは、もうわたしに対してこんな表情は向けてくれないから、棘のある言葉さえ嬉しく感じる。
「あ、あんたが食べなよ……あたしゃいらないよ……」
「あんまり頑固だと、このアツアツを無理やりお口に突っ込むことになりますよ。はいあーん!」
少しだけ大きな声と勢いで匙を突き出すと、ゲルダさんも大げさに顔の付近で手のひらを広げた。
「ああっ、そんなに大きな声を出さないでおくれっ。分かったよ。自分で食べるよ」
「はい。本当に熱いので気をつけてくださいね」
部屋に満ちる冗談の雰囲気。
ここまでくれば、器を受け取り、なんだかんだ言いつつも食べてくれる。
「……あ、でも赤い豆が入ってるじゃないか。あたしゃこの豆は嫌いなんだ」
震える匙で、けれどせっせと、わたしの器に赤豆のみがより分けられていった。
そしてややあって……ようやく、匙がゲルダさんの口に収まる。
わたしはホッとして、赤が積まれたスープを掬った。
次はロッタお婆さんの家へ。そしてその玄関前で覚悟を決める。
この人は決して悪い人ではないのだけれど、わたしにとって――ほんの少しだけ、辛いのだ……。
「こんにちは。スープを届けに来ました」
体を起こし、窓の外の白をぼんやりと眺めている女性。
ゲルダさんよりも背筋はシャンとしているけれど――その影がゆっくりと振り返り、加齢で小さくなった瞳が一つ瞬く。
「あら、どなた?」
「……初めまして。アナスタシア・ヴァルデリウスと申します」
わたしはドレスの裾を摘まみ、深く、丁寧に頭を下げる。
するとロッタさんは嬉しそうに目を細め、少女のように明るく笑った。
「まぁ初めまして。きれいなお辞儀ねぇ。お貴族様みたい」
「実は、お貴族様なんです」
「あらぁそうなの?」
このやり取りは、わたしがスープを届け始めた一週間前から毎回発生している。
つまり七回目の「初めまして」だった。
いつでも優しいけれど、譲れない信念を持って生きている――そんな強い女性だった彼女は、過去に紆余曲折あって引き取った弟の息子、つまり最愛の甥をこの戦争で亡くしてから、半年でここまで耄碌してしまった。
「ロッタさん。見てください。今日はカブが入ってるんです。ロッタさん、お好きでしたよね」
「そんなこと言ったかしら……」
「おっしゃってましたよ。あ。ちょっと待ってください……少し――小さくしますので」
「あら、ありがとう」
「はい、どうぞ。お気をつけて……」
「あら! カブが入ってるじゃない。私これ好きなのよ」
「、そうなんですか。良かったですね」
数日前のことも、今日のことも、すぐに忘れてしまう。
悪意がないのが分かるから、辛い。
スープの湯気が、彼女の頭を覆う忘却の霧のように見えて……わたしはこっそりまぶたを擦った。
それでも――お義父様の話によれば、「喪失で耄碌した老人は季節が変われば元通り回復する可能性もある」とのこと。
だからわたしは見捨てない。
約一年前、この人はだれよりも細い雪糸の紡ぎ手だった。
早く元気になって、その素晴らしい手練手管を皆に共有してもらわなければ……。
次はエルナお婆さんの家。スープを配り歩くのはここで最後だ。
「紡いでいると時々糸が跳ねるんです」
「そりゃ、あー、あれだ……二番目に糸が通る、あそこ、」
「ガイドですか?」
「ん、うん、そうだそうだ。二番目のガイドをよく見てみな。乾いた麻糸なら早々起こらないことなんだけどね。あんたの糸は湿ってる。だから、こう……抵抗が生まれるんだよ」
「……だから、時々糸が引きつれたように跳ねる……」
「そうさ。ガウスの坊やを呼んで、ガイドを数ミリ横へずらさせな」
「はい」
彼女には唯一、その口の硬さとトラブルを解決する経験値を信頼して、彩雲糸の秘密を打ち明けていた。
蒸気を当て、冷水で冷やす温度差が生む虹色の秘密と、紡ぎ出したそれがどれくらいの食料になるのか。
「紡ぐときに指先を濡らすのと同じことだろうし……まぁ多分、それで直るよ」
「ありがとうございます。早速ガウスさんに相談してみます。さ、冷めないうちに食べましょう」
「毎日毎日……悪いよ。こんな老いぼれよりも――価値のある歯車に与えるべきだろうに」
エルナさんは昔学校へ通っていたらしい。
だからなのか、いつも理屈でわたしを止めようとする。
けれどわたしは、このスープの集いだけは確たる信念を持って動いていた。だから、
「いいえエルナさん。そもそもこれは損耗を防ぐための施しではありません。情報に対する〝対価〟です。わたしという歯車が今、もっとよく回れるように――糸を紡げるようになりました。御存知の通り、これは食料という形で、冬が明け次第すぐ領民に還元されます」
こうやって、叩き潰すみたいに反論できてしまう。
マルタさんにしたような威圧的で冷たい言葉を、けれど彼女は肩をすくめて。
「……はぁ。何一つ言い返せない。食べるから、あんまり年寄りをいじめないでおくれ。嫁いできたときは弱っちい貴族娘だったのに。ちょっと見ない間に言うようになったねぇ」
「皆さんの、おかげですよ」
そう。工房の皆のおかげ。
さあ笑って。雰囲気を壊してはいけない。
この人を安心させなければ。
窓の外では、また雪がすべてを塗りつぶす勢いで降り始めた。




