58話 壊す手
泥のような疲労を払いのけながら森の中を進む。
頭が痛い。けれど次の鎮静剤はまだ打てない。
罠はもう少なく、でも集中を解いた者から死ぬ。
ジュリアンは列の後ろの方で、手にした銃を何度も握り直していた。
忘れていた徒労感が腹の底からせり上がる。ため息をついてしまわないように飲み下す。
そんな時だった。
「ぁ――あぁ゛、ああがァああ゛ッ」
前方の一人が大きく頭を揺らし、列を外れて倒れた。
「ガァァッグ、ヴーッあああ゛ ーッ!!」
ジュリアンは誰よりも早く前進し、銃に打たれた馬のように地面を引っ掻き回す四肢を避けながら倒れた隊員――モーリスの体を膝で押さえつけた。
「グヴヴヴヴッ! ガァーッ! ガァアア゛ッ!」
人の喉から出ているとは思えない雄たけび。
押さえつけた背中は、もう人ではない。
異様に膨れた筋肉と獣毛が、ナイフを拒むように波打っていた。
最後の祈りを込めて、彼の腰袋に触れる。
けれど、支給された発作を抑える抑制剤は、もう使い果たしていた。
――ならば。
唇を固く引き締めたジュリアンは決められた軍のルールに従い、己の腰からナイフを引き抜いた。
膝下足搔く獣の首後ろに素早く刃先を宛がって、そして――。
………
……
…
結局何の成果もなく、交戦もなかったのに隊員を一人失ってキャンプに帰ってくることになった。
気づけば、山肌から朝日がのぞいている。
一晩中闇に眼を開いていた強化隊全員の網膜を容赦なく焼く光に、何人かは「うう」と人の声で呻いてその場で座り込んでしまった。
キャンプに残していた隊員に状況を説明し、奥でナイトキャップを被って寝ていたオスカー軍曹を叩き起こす。
寝ぼけまなこを軽い平手打ちで強制的に覚醒させ、薬が切れて発作を起こしかけている隊員に適切で迅速な調整を命じる。
それからジュリアンは、同じテント内の自分の荷物を開いた。
あらゆる物資で包み込むように詰めてある、一番美しい意匠が施されている木箱。
中には三十を超える正八面体の灰色の石が入っている。そこにモーリスの石をそっとしまってから、作戦テントに戻った。
「――……はぁ、……」
そこでようやく椅子に腰を下ろす。
しかし休息など、数分も許されない。 『敵拠点付近の森に大量の罠。拠点はすでにもぬけの殻』その情報だけは一刻も早く司令部に届けなければいけない。
――モーリスが――ああ、早く薬をくれ――待て、こいつが先だ――整列しろ! ――まて、――もうこんな――!
「ぅぅ……」
外のざわめきが、獣耳の中に入った途端爆音に変換されてしまう。
脳をめった刺しにされる痛みでジュリアンは吐きそうになったが、せり上がってきた胃液を水で胃の中に落とした。手の甲で口を拭う。
――ふと。
数枚の書類にまぎれて、見覚えのある封筒がはみ出ていた。
青銀の封蝋に小さな夫人印。その隣の検閲済の赤――アナスタシアからの手紙。
届いている! いつだ、指令の時か? ならば二日前。そんな、見逃していた!
報告書を書かなくてはいけないのに、気が付いたらジュリアンは手紙を開封していた。
震える指で手紙を破ってしまわないように。
封筒から抜き取ったあとは机の上に置いて、覆いかぶさるみたいに読みふける。
――いたわりのお返事を書こうとしましたが、止めました。
――『いっそ誇りある』、なんですか。████████████████ですか?
――あまり馬鹿なことは仰らないでください。わたしを置いて、████████████████████。
――わたしを愛しているというのなら、絶対に生きて帰りなさい。
一行目を読み終わるまで、前回どんな手紙を書いて送ったかすっかり忘れていたジュリアンはまず面食らう。
それから、ぼんやりとした女性の高音が、頭痛を押さえつける勢いで頭の中を流れていった。
そうだ。たしか……前回送ったあの手紙は――手術中も術後も使われていた強い興奮剤が切れた揺り戻しで、見張ってもらわないと自殺しそうなほど落ち込んで追い込まれていたから……。
溜めるよりは書き出した方がいいんじゃないかと言われて、そのままの心を書き写して送ったのだった。
ジュリアンはおでこを手で覆い、少しだけのけ反る。なんて情けないことだろう。
……けれど、ジュリアンの口角はゆっくりと上がっていく。
心の中の一番大事なもの。
小さくて可愛い影が、眉を吊り上げて怒っている。
エドワードを怒らせた幼い日のことを思い出す。
すまない。そんなに怒らないでくれ。分かったから。
そう言って、背を丸めて宥めたくなるような。
「……ふ。はは、」
「――ど、どうしたんです。大尉」
隣で同じく報告書をまとめていたカイルが、大げさに跳ねて驚き、ジュリアンの方に向き直る。
モーリスを『処分』したあとだから、不審な動きは特に警戒される。
もしジュリアンが狂えば――処分するのは序列的に、今声をかけたカイル曹長だ。
「手紙で――妻に、叱られた」
「? 叱られたのに喜んでるんですか? というか大尉を叱る嫁さんなんて、度胸がある人というか」
「……? 妻は大して大柄でもないが……いや、でも、私は何も知らないんだ。結婚してから半年で出兵したから」
「そりゃ寂しいですね」
「……そういえば、今回は離縁届が来るかと思っていたんだ。前に、弱音を吐いてしまった」
「あー……? 慰めとかなかったんですか? 気が強い人なんですね」
「そうだ。勇気があって、強い女性だ……」
「……オスカー軍曹呼んできましょうか? ちょっと話噛み合ってないですよ」
「いや――、いい。少なくとも今は――」
そこで、ジュリアンは不思議な高揚から帰ってくる。数分ぶりに視界のピントが合った。
目の前の灰色がかった木箱。その上の四角い紙片。
頭を殴られているかのような頭痛が再発する。
――本当に何を話しているんだ?
心配そうにこちらに体を傾け、膝上で手を組むふりをして腰のナイフをいつでも抜けるようにしているカイルを数秒じっと見て、それから震える手でまた水を飲む。
虫を払うように頭を振る。唇は真一文字に結ばれていた。
「ああ――すまない。今の話は忘れてくれ。どうかしていた。でも、もう大丈夫だ」
カイルも作戦後だというのに、書類仕事を手伝ってくれている。
それを横目で確認したあと、ジュリアンは今、必ずやるべきことを頭の中に刻み込んだ。
まずは報告書。それからカイルが仕上げたルーカスの損耗評価書を確認してサインする。
手紙の返事を書いて、夜待機していた者に、ウェグ――馬と伝令の準備をさせる。
そして、ジュリアンはそのほとんどをやり遂げた。
カイルが仕上げた書類にサインをして彼に休息を言い渡し、今は作戦テントの中で一人。
ずっと椅子に座っていたのに、途中からどれかの薬の副作用の異常発汗で書類を少し濡らしてしまったけれど……それでも、馬の準備が済むまでに手紙の返事を書いて預ければ、とりあえず一時間は眠ることが出来る。
便箋をなんとか探しだし、少し皺になっているが一応は白い紙を目の前に広げる。
もう一度。朧げなアナスタシアを思い浮かべる。
何一つ像を結ばない女の影は、それでも愛しくてたまらなかった。
だからこそ、自分が醜くて仕方がない。
夢の中の手はいつでも血にまみれている。
愛称で呼び、『愛しています』の言葉は素直に嬉しいけれど、今は顔が見えない手紙という手段でやり取りをしているから綴れる言葉だとも思う……。
とにかく。送られてきた手紙から単語を拾って謝罪しよう。
ジュリアンはそう思って便箋ごと手に取った、その時。
パリパリと乾いたものが砕け、机の上に細かな欠片が零れた。
何事かと思って、散らかった机と封筒の中を覗く。
そこには白っぽく薄い欠片と、ひょろ長く押しつぶされた植物の茎――押し花の成れの果てが入っていた。
最北ヴァルデリウスから王都の検閲局、そこからこの西の奥地まで、散々な扱いをされてきたそれはもはや花の形をしていない。
それは我が領に自生し、特産品の雪糸の材料の一つでもあるユキヒカリ草の花。
追伸――珍しく追加で走り書きされていた文章を思い出す。
貴方様のおかげで、故郷ヴァルデリウスは、変わらずここにあります。
わたくしやお義父様、エドワード様がずっと守っておりますから。
喉奥が熱くなり、ジュリアンは目を開けていられなくなった。
せめて、すこしでも彼女の思いを受け取りたい。
そう思って、大きく形を残していた最後の花弁を封筒の中から優しく摘まみ上げようとして。
――パキ、
けれどそれは、ジュリアンの震える手、その尖った獣の爪に貫かれあっという間に砕けてしまった。
「あっ」
遅れて、信じられないほど間抜けな声が出る。
他の花弁のかけらと一緒になって白いゴミになり果てた押し花をぼんやりと眺めながら思う。
……ああ。
この手は、この力は――
もはや壊すばかりで、愛する人を――その傍で守るためには使えない。
机に散らばった花弁を手で払い、もう一度ペンを握る。
残ったのは『安心させてあげたい』という気持ちだけ。
その気持ちだけは本物で、アナスタシアの近くに在っても害はないだろう。
親愛なるアナへ
怒らせてしまってすまない。君の強くて温かい言葉が、今の私には何よりの薬になった。
どんな姿になろうとも、君の元へ帰ることだけは諦めないと、ここに誓おう。
次に送る手紙には、もっと明るい知らせを書けるように努める。
愛している、アナ
ジュリアン




