57話 夜の森
狙い澄ましたナイフは、滑り込むように〝獣〟の首後ろへと突き刺さった。
ブツブツ、と筋繊維が断たれる鈍い振動が、柄を通じてダイレクトにジュリアンの掌を打つ。
暴れ痙攣していた四肢は一度大きく跳ね、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
ひとつの人生が終わり、肺に残った最後の一息が重力に押し出されて細い溜息のように漏れる。
その横長の瞳孔が「どうして」と問いかけるように自分を見つめていたのを、ジュリアンは分かっていた。
目を逸らすことはできなかった。
ただただ、己が奪った光が消えゆく様を一欠けらも逃すことなく網膜に焼き付ける。
一拍おき、骨に噛ませないよう慎重にナイフを引き抜く。
体を押さえつけていた膝を外し、血と汗を吸って重くなった胸元を肩まで剥いだ。
地平の奥からわずかに漏れる日光を反射して、埋め込まれた銀の円盤が鈍く光っている。
ジュリアンは肘裏で刃の血を拭い、金属の隙間へ切っ先をねじ込んだ。
蓋をこじ開ければ、そこには動脈の拍動を食らって赤く脈打つ正八面体の石がある。
肉を割り、根を張るように癒着したそれを、指先で強引に引き千切った。
抉れた肉から溢れ出す熱い血が、ジュリアンの指先を瞬く間に汚していく。
掌に収まったそれは、耳の奥で今も止まないあの「囁き」の元凶とは思えぬほど、ちっぽけな塊だった。
赫々と発光していた赤は、ジュリアンが瞬きをする間に、灰のような色へと死に絶えていく。
「装備を回収。……急ぐぞ」
振り返り、地を這うような低い声で呟く。
影のような部下たちが群がり、仲間の死体から生存のための資源を剥ぎ取っていく音が、暗い森に響き始めた。
………
……
…
〝西北にある敵拠点を殲滅せよ〟
これが今回の任務だった。
ここ最近、敵防衛線はあって無いようなものだ。
無人の塹壕を飛び越えて拠点施設まで進み、残党を皆殺しにして、武器と物資ごと施設を燃やす。情報があれば持ち帰る。
三日前にも同じように、司令部との連絡を絶たれて籠城していた小さな拠点を襲撃したばかりだった。
偵察隊から「想定よりも森の中に罠が多い」と報告を受け、万全の準備を部下たちにも強いた。
「――我々は捨て駒ではない。王国の鋭い牙だ。この闇を駆け、夜明けを勝ち取るぞ」
白々しいゲン担ぎをして、月が高いうちから作戦を開始する。
敵兵の全くいない道中は、けれど地獄を極めた。
報告通り――いや、それ以上に罠が多い。
ひんやりとした草木から、わずかに人と火薬の匂いがする。
腐葉土の下には地雷。夜闇には黒く塗られた銅線。その先には落とし穴まである。
どこを踏んでも、どこを跨いでも罠がある。
「ぁ、くそッ――警戒ッ!!」
散開して進んでいた一人が、短く叫んだ。
ややあって、上空から拳大の石が降り注いでくる。
全員が停止して――降ってきた石がまた何かの罠を作動させるかもしれないから――頭を片腕で守りつつ、必死に耳を澄ませた。
人はいない。だが、確定したわけではない。
ジュリアンは祈る半分、包囲された場合の算段を立てる半分で、音が消えるのを待った。
豹は特に、狼も馬も夜目は利く。
それでも木々に遮られた森では見通しが悪い。
獣の耳を露出させ、全神経を研ぎ澄ませたまま進み続ける。
その緊張だけで、体力が削られていく。
ジュゴ、と誰かが活性剤を自らの肩に打ち込む音が聞こえた。
つられて周囲から二回ほど、同じ音がする。
作戦開始から、もう二本目にしては早すぎる。
だが、無理もない。
ジュリアンも、森を抜けたら一本打とうと決めていた。
こんなに消耗してしまって、それから対人制圧なんてやってられない。
もっともっと、我が狼の力を借りなければ。
果たしてついた敵拠点。
合図をして、裏と表の重い鉄扉を同時に蹴破った。
――だが、目に飛び込んできたのは、ひっくり返った椅子と、主を失った通信機の残骸だけ。
見るために全神経をつぎ込んで、充血していた視界から一気に熱が引いていく。
コンクリートの壁は死体のように灰色で、月光に照らされた通信機の破片が銀色の牙を剥いて彼らを嘲笑っていた。
敵兵無し。
物資無し。
情報も無し。
突入直前のタイミングでほとんどの兵が活性剤を体に入れている。
直前まで膨れ上がっていた興奮と殺意が、行き場を失って室内を渦巻く。
「偵察したんじゃねぇのか」
「おいガキ何見てきたんだよッ」
「俺だって言われた地点までちゃんと偵察したって!」
「なんなんだよもう!」
「ああ、くそッ」
銃眼の細い月明りだけが室内を照らしている。
そんな広いとは言えない一室を怒号が反響して、獣耳が痛い。
ガキと呼ばれた豹の少年が肩を震わせている。
ジュリアンは彼に怒りの矛先を向けることはしなかった。
命令以上の仕事を果たした少年に、その資格などないことを理性は知っていたからだ。
だが、内側からせり上がる濁った熱までは抑え込めない。
行き場のない怒りは、隊員たちのそれと全く同じ質量でジュリアンの胸を圧迫した。
空虚なコンクリートの壁に反射する、自分たちの荒い呼吸音だけが、無意味な行軍の唯一の成果。
――許さない、許さない! 己の尻尾が太くけば立っていく。
視野の端が黒く狭くなるほど心臓が強く脈うって、体の中が痒い。
拳を固め、ここ半年で急成長した犬歯が砕けんばかりに歯ぎしりしながら――それでもジュリアンは素早く息を吸って、吐いた。
大尉の自分が怒りの向こうから、必死に叫んでいたからだ。
まだ敵の罠の中かもしれない! 分かってる……。
「総員、傾注ッ!」
ジュリアンの静かだが圧のあるその一言で、全員の動きがビタリと止まる。
「……とにかく落ち着け。どうしようもないものは鎮静剤を許可する。モーリス、ロラン。レニを責めるな。上が襲撃場所を決め、私が偵察地点を決めた。文句があるならあとで聞こう。生きていればな。いいか。おびき寄せられたかもしれない。速やかにここから離脱する」
全員が、「今この建物を襲撃されたら」という可能性にたどり着いた。
唇を真一文字に結び、落ちくぼんだ瞳だけが嫌に熱を帯びている。
獣の勘で、まだ完全に包囲されたわけではない――周りに人の気配がない――ことは分かっているが、それもいつまで持つか分からない。
敵はあまり使わない手だが、遠距離狙撃の可能性もある。
「往路を逆走する。ただし速度は倍だ。交互躍進。――走れ!」
ハンドサインで号令を出すと、二つに分けた部隊の一つが影の塊となって猛スピードで地雷とワイヤーの海へ突っ込んでいった。
残されたジュリアン達は、入り口から周囲に向けて銃口を向けて警戒する。
五秒ほど経ったとき――ヒュッ、と鼓膜が痺れるような高音が森の中に響く。
人間には聞こえない、犬笛の音。セット完了の合図。
ジュリアン達は、聞こえた瞬間には地面を蹴り走り出していた。
ワイヤーを除け、来た時の足跡を二つ飛ばしで躍進する。
活性剤で研ぎ澄まされた感覚の中、理性の部分で地面のどこを踏むか常に考えながら走らなくてはいけなかった。
風を切って走るほど、森の中では獣の性が大きくなっていく。
暗闇の中。だんだん自分が今何をしているのか分からなくなっていく。
私は誰で、なにをしていて、どうして走っているのか。
犬歯が疼く。喉奥がごろごろと獣の音を立てる。
どんどん前のめりに――手をついて走りたい衝動で頭が一杯になって――。
足元から跳ね返る泥の匂いを嗅ぎ、心臓が爆ぜるより早く次の木陰へ滑り込む。セット。銃を構える。
肺に溜まった灼熱の酸素を吐き出す暇もなく、次は味方の肩を叩かねばならなかった。
一列になった前の数人が風のように走っていく。
ジュリアン達は先発班が向かう先や後ろに銃口を向けて警戒。そうしながら、抑制剤を一本打つ。
これで異常な興奮は少し楽になるが――人間に近づくせいで走るのが辛くなる。
ジュリアンは照準の先を睨みつけながらあの高音を待った。
ややあって、犬笛の音が頭蓋を叩く。
どうやらこの森に敵兵はいないらしい。
分かっていても、あと数百メートルは止まれない。
止まり、警戒。頭痛のような高音。走り出す。合流。警戒。また走って――。
あらかじめ決めていた地点まで戻った時、先発班の最後尾には指示を待つカイル曹長がいた。
「ここからは、固まって前進。その前に損耗確認だ。各自薬と弾の数を申告しろ」
まだ敵陣地の中であったけれど、ジュリアンはそう言ってほんのわずかな小休止を挟んだ。
ここまで誰も地雷で足を飛ばさなかったのは、奇跡に等しい。
その代わり、緊張の交互躍進で隊の消耗は激しかった。
交戦が無かったから、弾の数は減っていない。その代わり、長期間のストレスで想定以上に薬を使っている。
そんな部隊の現状を把握してから、自陣のキャンプ地まで急ぐ。




