56話 憤り
読んだら必ず燃やすこと。
西部戦線の補給路が一部開放されたとの未確認情報あり。
敵国の海底鉱脈から掘り出された『深核石』が、ここ数週間で暴落。これは供給過多ではなく、敵側が『もはやこれを運用できる人員、あるいは拠点自体を喪失しつつある』ための在庫放出、との見方が強いわ。
審理府が弾道計算を砲台へと集中させている影響で、民間の物流予測は依然として崩壊したまま。でも軍需物資の輸送ルートが、これまでの前線への一方通行から、少しずつ占領地からの略奪資源の引き揚げにシフトしている気配がある。
盤面だけを見れば、この戦争は遠くないうちに終わるでしょう。早ければ春、遅くとも夏までには。
けれどアナ。敵は追い詰められるほどに、何をするか分からない。かつてないほど、前線は理屈の通じない地獄になっているはずよ。
勝利の熱狂が聞こえ始めている王都と、実際の泥沼が続いている戦場。
その温度差が、わたくしには恐ろしい。
冬の間、あなたはただ、あなたの足元だけを見ていなさい。
「終わる……夏、までに……」
心臓がドンと跳ねて、瞬間的に視界が狭まるほど激しく血が巡る。
その一文だけを繰り返し読んでしまう。
終わる。終戦。勝って、旦那様が帰ってくる!
一気に嬉しくなって、視線を上げる――けれど。
目の前の窓の外には、薄暗く沈んだ灰色の雪景色が広がっていた。
遠く山の方から獣の咆哮のような低く鈍い風鳴りがして、ガタガタと窓枠を揺らす。
感覚のない足先から上ってきた冷気が、茹った心臓を一突きで凍り付かせてしまう。
夏まで、あと半年。そのうちの三か月、我が領の補給は一切無いと考えるべきで……。
当然、これは予測だ。まだ何も確定してないし、戦いは終わっていない。
わたしにいたっては、まだ始まってすらいないかもしれなかった。
冬はもう一段ほど厳しくなるのだろうし、それなのに食料は……切り詰めなければ、死者の影がちらつくほどには少ない。
誰にもこの情報は共有できない。
姉さまの言う通り、わたしは何よりもわたしの足元をまずよく見ていなければ。
燃え残って真っ黒になった木片に紙を乗せて、火をつける。
けれど、その小さな火は木片に燃え移ることなくそのまま灰になっていった。
………
……
…
翌日。商会が雪かきをしてくれた馬車道を通って、ラフェンさんが今年最後の手紙と新聞を届けに来てくれた。
わたしはその時――次の納品で一束返済しないといけないこともあって――やはり糸車に向かい合っていたのだけれど……工房裏口までエルザが走ってきて、小声で彼の来訪と旦那様の手紙が届いたことを知らせてくれたから、迅速に動くことが出来た。
彼の帰りの途中、一度でも雪が降れば立ち往生しかねない。夜が近づけば、冷え込みで体温も奪われる。
そんな危険を冒して届けてくれたのだから、急いで返事を書かなければ。
親愛なるアナへ
この紙を汚す資格が、今の私にあるのかさえ分からない。
私は、ずいぶん██████。君の中に残っているはずの私の記憶を、すべて塗り潰してしまいたいほどだ。 ██████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████
君を守るために、ヴァルデリウスの全てを守るために、ずっと欲しかった力だ。けれど、█████████████たび、自分自身が、とても恐ろしいと思う。
かつての私は、君に何を語っていただろう。君に触れていたこの手は、――、いや。そういえば、夜を共にしてもそんな愛を交わすようなことは、一度もしなかったな。なにを書いているんだろう。
██████████████████████████████████████████。
時折、██████████████████と思う。
███████████君の瞳に映るくらいなら、いっそ誇りある████ ██████████████。
アナ。愛している、という言葉を贈ることを許してほしい。
今の私にとって、それは君への執着という名の、傲慢な迷惑でしかないと分かっている。でも。
それだけが、████████████、最後の一片なんだ。
ジュリアン
前回の狂乱のお手紙から一転。
枯れ落ちてしまいそうなほど弱気な様子に、一体どれほどの壮絶があったのだろうと思う。
黒塗りの隙間から伺えるリアン様の苦しみと塞ぎ込んでいる様子に、わたしの心も一緒に沈んでいくみたいだった。
なんて言葉をかければ、旦那様は少しでも楽になるだろう。
焦りながら、戦場にいるリアン様の御心に寄り添える言葉を探す。
するとその時、考えないようにしていた自らの〝苦しみ〟の記憶が、走馬灯のように流れていった。
糸車をひたすら回し、けれど未来を思うと動悸が止まらない。
美しいはずの雪景色に、ずっと嘲笑われている。
工房の女性たちの、わたしを拒むような視線。
ため息と、非難の囁き声と、根も葉もない噂。
ずっとお腹がすいていて、体が冷たかった。
戦争のせいだ。わたしのせいじゃない。
それでも、それでも、この苦難は……。
すべては一瞬のこと。
でもなんだか……長く押し込めていた苛立ちが、沸々と胸の奥から湧き上がってくる。
手紙を持つ手に力が入った。
こんな大きく、荒ぶる感情は「持ってはいけない」「鎮めなさい」と、夫人としてのわたしが必死に押し留めようとしている。
それでも、わたしはペンを取った。
愛するリアン様へ――そこから先は、もう止まれなかった。
愛するリアン様へ
労わりのお返事を書こうとしましたが、やめました。
慰めの言葉も、旦那様を楽にするための嘘も、今のわたしには一つも書けません。
貴方様が何を見て、なにをお書きになったのか、わたしには分かりません。
黒く塗りつぶされた紙の塊を見て、ただ一つ分かったのは、貴方様が勝手に自分を『人ではないもの』に仕分けして、わたしから逃げようとしていることだけです。
『いっそ誇りある』、なんですか。名誉ある戦死ですか? 『志願兵としての忠誠心あふれる勇戦は、王国の礎となるものである!』ですか? あまり馬鹿なことは仰らないでください。わたしを置いて、勝手に美しい過去にならないで。
人ではないものになったというのなら、それでも構いません。
獣になったのなら、獣のまま帰ってきなさい。
化け物になったのなら、その鋭い爪で雪を掻き分けてでも、わたしの元へ戻りなさい。
リアン様、この呼び名を許していただいたときから、わたしの気持ちは何一つ変わっていません。
貴方様を愛しています。
わたしを愛しているというのなら、絶対に生きて帰りなさい。
貴方様のアナスタシア
ドク、ドク、と静かに脈打つ心臓が少しだけ痛い。
鼻息はやかんの蒸気のように、細く手紙に吹き付けられている。
わたしはまだ、怒っていた。
頭の中が、幼い「どうしてそんな事を言うの!」という喚き声で満ちていて、署名をしたのにまだペンを置けずにいる。
まだまだ何か書き連ねようか、言いたいことはまだたくさんあった。
けれど勢いで署名してしまったし、ああ、そもそもラフェンさんを待たせている。
弾かれたように窓の外を覗くけれど、雪はまだ降っていない。
しかし相変わらずの重たい曇り空。急がなければ――と、そこで思いついたことがあった。
「ぁ……そうだ」
棚の中の一番分厚い本――『エルドリアス王国の歴史と淑女の教養』という、生家にいた時から使っていて、なんだかんだ基礎的なことが書いてあるし、思い入れもあって嫁ぐときに持ち込んだ教科書を開く。
去年の、ちょうどこの頃。火傷をしたわたしに、子供たちがユキヒカリ草の花束をプレゼントしてくれたことを思い出したのだ。
ただ飾って枯らしてしまうのは忍びなくて、わたしはその一部を押し花にしていたから。
元々分厚い花弁を持つユキヒカリ草の花は、圧縮されて乾燥し少し茶ばんでいたけれど。
それでも、これならおそらく欠けずに届いて、何の花かは伝わるはず。
急いで机に戻り、署名で閉じた便箋のその下に書き加える。
追伸
貴方様のおかげで、故郷ヴァルデリウスは、変わらずここにあります。
わたしやお義父様、エドワード様がずっと守っておりますから。




