55話 囁き
霜で地面が盛り上がり、ちょっとした水溜りが凍る。そんな、いつもと変わらない晩秋だった。
グッと冷え込んだある日――綿をちぎったような大粒の雪がはらはらと数枚零れ落ちてきたかと思ったら、その晩あっという間に吹雪になった。
審理府が新聞に寄せた算定表よりも、ずいぶん早い厳冬の到来。
旦那様が教えてくださった青い星とギアラ山の一本杉の位置関係からしても、早すぎる豪雪。
ここからの数日間、わたしは記憶が飛ぶほど忙しく過ごした。
あらゆるところに凍結防止の藁を撒き、各家庭に薪と炭を配り、雪をかく。
警備隊に人を回し、毎年雪が降る前には終わらせること。として決まっていたことを、雪で埋もれて動けなくなる前に大急ぎで終わらせて。
数日後。ようやく一息つけた晴れの日。
山も木々も家の屋根も真っ白になって、風が吹くたびに風花が舞う。
村の中はすっかり冬らしくなっていた。
けれどもその景色を楽しんでいる暇はない。
冬になってわざわざ冷水を汲んでこなくてもよくなっても、わたしの起床時間は変わらなかった。
誰よりも早く工房へ向かい、麻束の準備をして。必死に糸車のペダルを踏んで、一グラムでも多い糸の生産を目指す。
次の冬の納品は本当に生死が関わるほど重要だ。
きっと一刻も早く彩雲糸が欲しいのに、こちらの都合でぎりぎりのタイミングにしてもらっているし、わたしの背負っているものは大きい。
フシュ、カララ、と糸車が回る。
パチン、と薪ストーブが音を立てた。
ほの明るい衝立の中。一人になると、どうしても考えてしまう。
……生産棟の女性たちとの仲が、悪化の一途をたどっていること。
わたしはどうしたって持っている側で、失い続ける彼女たちに本当の意味では寄り添えなかった。
指示は聞いてくれるけれど、〝スープの分だけ〟と顔に書いてあるみたいに、笑顔が少ない。
そのスープだって……
『食材は本当に奥様が買い取ったものなのか』
『大旦那様の指示なのに手柄を横取りしているのでは?』
『だってあんな気弱な子が、いきなりおかしいじゃない』
『旦那様が死んで家から追い出されるのが怖くて、今のうちに慈悲深い奥様のフリをして味方を作っておきたいんだ』
なんて……根も葉もない噂で散々に悪く囁かれている。
「……、……」
どうしてそんな噂が立つのか、誰が言い出したのか、さっぱり分からなかった。「違う」と言いに行くことも――火に油を注ぐだけなので出来ない。
正しい事をしているはずなのに。皆を守りたいだけなのに。どうして睨まれるの……。
そう思うと肺がぐしゃぐしゃになるほど悔しくて、悲しい。
でも……例えば、わたしを巻き込んだ派閥争いが起こるよりははるかに良い。
だってわたしは、そういう社交にめっぽう弱いから。
貴族と平民。立場の違いで区切り、そこが……スケープゴートになっている限り、きっと工房の崩壊だけは免れる。
人間関係が苦手でも、それだけは勘で理解していた。
乾燥でねばつく目をこすり、糸で一杯になったボビンを掴む。
雪の浮いた冷水にボビンを沈め、水車式かせ上げ機でぐるぐると糸を巻き取っていく。
衝立の向こうでは、朝から集まりつつある女性たちの小さなざわめきが起こっていた。
すぐ後ろのことのようだったその声は、潜められているわけでもないのにずいぶん遠くから聞こえてくるようだった。
気温が上がることもなく、容赦なく冬は深まっていく。
その証拠に、警備隊の報告によるとめったに全凍結しない山中の池が真ん中までしっかり凍って、歩いて渡れたとのこと。
お義父様が言うには、二十年に一度あるかという大寒波が、この村を覆っている。らしい。
そういう予測は、王立天文審理府が星の動きを計算して各地に警戒を呼び掛けるもので、実際二十三年前の大寒波は前年から「警戒せよ」と書簡が届くなどしていたらしい。
でも、やはり……高度な計算ができる審理府は、噂の〝砲台〟の弾道計算の為に招集され、星を読んでいる場合ではなくなってしまったのかもしれない。
例年よりも早く雪に包まれ、ラフェンさんももう一週間は来ていない。
比較的温かいコンメルタスに、この豪雪の深刻さが届いているとは思えなかった。
……ギリギリを狙ったせいで、商会もここまで来られないかもしれない。
たどり着けなかったら……今ある食料でこの冬を乗り越えなければいけない。
冷え込みも厳しく、燃料だって例年より多く消費するだろう。
――どうしよう、どうしよう。
それならば糸なんて巻いている場合ではない。
斧か猟銃を持って、わたし自らが森に入ってでも何とかしなければ……。
と、半ば本気で考えていた――その翌日に商会はやって来た。
降り積もる雪はまだ軽かったのか、去年よりも盛大な雪煙を立てて。
馬のいない不思議な馬車が、蒸気の音と一緒に屋敷前の石畳に止まる。
その時の安堵といったら、雪まみれの車に縋り付きたくなるほどだった。
「お久しぶりです、アナスタシア様。想像より雪が深く、驚きました」
「ご苦労様です。ゴドウィンさん。もう、来てくださらないかと……思っておりました。良かった……」
「不安にさせてしまいましたね、申し訳ありません」
「ぁ、ですが、その、ベストタイミングでもあります。ありがとうございます」
「いえいえ。それでは始めましょうか」
「はい、納品分は……こちらになります」
白い手で差し出す今回の納品分の彩雲糸は十四束。つまりは木箱は七箱になる。
「失礼、そちらは端数ですか?」
「え、――ああはい、そうです。十……五束目ですね」
「もう一箱降ろしましょうか? 半箱分は、次回支払いということで」
「いっいいんですか! ――いえ、しかしそんな、借金のようなことは。姉さまに、」
「アデレナ様には、初期から端数分も調整して買い取るようにと言いつけられていました。いつも納品分のキリが良いので、お伝えする機会がなく……申し訳ありません」
「そ――、」
わたしはわずかに口を開けたまま、固まってしまう。
だらだら悩んでいる時間はない。
姉妹でも、一時的でも、貸し借りだけは踏み越えてはいけない一線に思う。
ならば一束分として半分中身を抜いてもらおうか? いや借金してでも、今、もう一箱欲しい。
というかそんなことが許されるなら、いっそ馬車の中身を全部置いていってほしい……。
駆け巡る思考の中、しかし答えは初めから決まっていた。
「では、次の納品で一束、お返しいたします。八箱降ろしていただけますか」
「承知いたしました。――おい、降ろしてくれ。八箱だ」
女性を待機させていないことを察しているゴドウィンさんが、警備として車の外にいた二人の男性に声をかける。
「受領書の、その、このことを書き加えておいてもらえますか。必ず返します」
「はい。大丈夫ですよ」
忘れはしないだろうけれど、絶対になあなあにはしたくなかった。
身内にとことん甘い姉さまなら「ま、いいわよそれぐらい」なんて言いかねないから、絶対に。
姉さまのお手紙には、わたしを労い、安心させ、同じく戦地へ行ってしまった夫を待つ妻同士、慰め合うかのような文言が並んでいた。
領内の女性たちとこういう話が出来ない分、脳内で花開く姉さまの声は心の隅々まで染みわたってくるようで……わたしは、不安と寂しさと安堵をごちゃまぜにした白い息が零れる。
それから――わたしにとって、何よりも大切な二枚目の小さな紙片を開いた。




