51話 化粧
まだ夜の色が残る早朝、パチリと瞳が開く。
昔から朝は苦手で、エルザによく叱られていたのに。
でもこれが大人になるということなのか、一度目覚めてしまえば心臓が嫌にドキドキとして、目が冴え渡っていくようだった。
起き上がり、鏡台に置いてある蝋燭に火をつけて髪を梳かす。
項が露わになるよう――けれど自分で髪を完全に上げることが出来ないので――低い位置で静かにまとめ上げた後、鏡を見る。
すると、こめかみのあたりが不気味に内側に湾曲し、頬骨の下に影が出来ていた。
肌は青白いを通り越し、唇まで土気色……まるで亡霊のような自分自身と目が合った。
寝起きで、暗い部屋。
下からぼんやり照らされているからとはいえ、もう少し元気そうな顔は出来ないの。
鏡の中の自分に叱られている気がした。
言い訳をするように口角を上げてみる……しかし、やはり寝起きだからだろうか。上手く動かない。
口紅を手に取って、唇に薄く塗りつける。指先に残った赤を頬に乗せ、トントンと塗り広げた。
それから目の下を重点的に、おしろいで土気色を塗り潰していく。
「まぁ、少しは、上手になったかしら」
引き出しに化粧道具を仕舞いながらそう呟いてみる。
昔、青白く華奢で儚い令嬢に憧れて――それに成れば、社交の場でただ座って居るだけで済むと思ったのだ――粉砂糖菓子のようにおしろいを自身に叩きまくり……やはりエルザと、そして姉さまに呆れられた少女時代を思い出す。
そのころに比べれば、化粧らしい化粧が出来ている気がした。
ヴァルデリウス男爵夫人たる自分がやつれ果てていれば、ただでさえ困窮する領民の不安は爆発しかねない。
スープを配るその姿は、白く、健やかで、気高くあらねば。
在庫状況など関係なく、「大丈夫だ」と、要として領民に示さねばならない。
「よし」
さあ今日も頑張ろう。
たとえ旦那様から手紙が届かず、生死すら定かでなくとも。
旦那様が何度も手紙に書き連ねてくださった「帰る」の言葉を信じて、私はうっすら青みがかった早朝の森へと入っていく。
腰に獣除けの鈴と、手にはランタンを持ちつつ冷水を汲み、薪ストーブを抱えるようにして糸車を回して汗だくになったころ。
朝日はすっかり上りきり、わずかに空いたままの裏口から見える秋空は吸い込まれそうなほど高く青かった。
「奥様。おはようございます」
「おはよう。エルザ」
衝立の向こう。目覚めの一杯――というより、朝の一杯を持ってくる。
彩雲糸に必要な冷水確保のため、メイドよりも早く起き、暗い早朝から動く。
そう決めたときに――獣の危険性やわたし自らが動く必然性など散々議論したうえで――このタイミングで一休みしつつエルザと情報交換することになったのだ。
ともに座り、わたしだけでなくエルザも煎り豆茶を飲みながら、今日復帰予定の戦報療養者のすり合わせをする。
「……今日から復帰する戦報療養者は二名。マーガレットとハンナよ。でもハンナは、父親も弟も亡くして……だから無理に重労働をさせるつもりはないわ、一応叩き作業からだけど、もし大人数との作業が無理そうなら屋敷の洗濯に回すかもしれない。シーツの洗濯って今日よね?」
「はい。そうです。ではその心づもりをしておきます。ですが――奥様。彼女らよりも今の奥様の方が、よほど療養が必要に見えますよ」
悲しそうなエルザに眉を下げられて、わたしは少し悔しい気持ちになる。
荒れた頬に触れ、少しだけ唇を尖らせて。
「……今日は上手くおしろいが叩けたと思ったのに。もう少し下地の紅を塗る範囲を増やした方がいいのかしら……」
「そういう意味では……」
「あ。お昼のスープを飲めば、血色は少々戻るでしょう。皆そうだもの。だから大丈夫よ」
「……、……はい」
カップに口をつけ、煎り豆茶を啜る。
でも――その香ばしい一口は長く口の中をさまよっていた。
最近は何を口にしても喉奥でつっかえ、上手く飲み込めない。
細かく波打つ薄黄金色をソーサーに戻し、ようやく胃の中に煎り豆茶が落ちてゆく。
「姉さま……ベネディ商会が、そろそろ来ると思うのよね」
秋の納品も近い。いつ来てもおかしくないし、いつ来るか分からないからここ最近はいつも厚化粧気味なのだ。
前回の夏の納品は十二束。でも今回は……もし明日以降に来るのなら十四束は出せるかもしれなかった。
一年間紡ぎつづけたおかげで、彩雲糸を紡ぐのが早く、上手になってきたから。
十四束も紡げたなら……手に入れられる木箱は七箱になる!
夢想しつつ視線を戻すと、エルザはまだ眉を曇らせていた。
そんな風に見られると、わたしも同じような困り顔になってしまう。
そりゃ毎日満腹とはいかないし、疲れているし、それを隠す厚化粧は痛々しいかもしれない。
けれどこればかりは仕方のない消耗だと思う。
化粧が出来るだけマシ、何も失っていないだけわたしはまだ大丈夫。
領民の方が、守るべき皆の方が、もっと辛いのだから。
「せめて奥様。お茶を。唇を濡らすだけではなく、きちんとお飲みください。朝から水すら口にしていないのではありませんか。何か飲まないと、人は飢えるよりも早く倒れるそうですよ」
「ああ……ええ。飲むわ……」
けれども、こうも心配されては、要として安心させるために無理やりにでも今飲むしかない。
コクリ、コクリと喉を鳴らせば、狭い食道をお茶の塊が通っていく。
「では搬入補助の、予定者を決めておきますか」
「……、うーん、……いえ、最悪石畳の上に置いたままにするわ。あとで自分で、」
「なりません! またその大事な白手袋に穴を開けるおつもりですか。奥様一人で持てるわけもないのに。本当に倒れますよ」
「……まだ大丈夫よ……」
「商会がお帰りになられてから考える、でよろしいのではありませんか。在庫管理さえ奥様がしてくだされば、誰が運んでも良いのですし」
「……そ、そうね。そうしましょう」
なんて話をしていたからだろうか。
その日の昼過ぎに、ベネディ商会の馬車が落ち葉を踏みしめやってきた。




