50話 目覚め
森の中を走っていた。
そこは戦場ではなかった。木漏れ日で斑になった剥き出しの根っこを飛び越えて、着地の勢いのまま、また走り出す。
少し開けた草原へ出て、風と一緒になって前へ前へ進む感覚はひたすらに楽しい。
どこまででも行ける。あの光り輝く街のそばへも、遠く雲を被った白い山へだって――。
けれど、なぜか次の瞬間には暗い檻の中にいた。
脱出しようともがいている間に動けなくなって、真っ暗になる。
そして――手榴弾を受けたときみたいに体中熱く、痛くなった。
灼熱が無遠慮に腹を割り、内側をかき回す。喉は潰れ、叫びは泡となって消える。
やめろ、それは私の――痛い、痛い!
もうやめてくれ――何を、どこへ、赤、赤、なんだ――ここは何処だ?
どうして――何が起こっている?死んだのか? ――死んだのにどうして終わらない?
腕も足も、感覚がないのに、どうしてこんなに痛い。苦しくて、熱くて、痛くて、痛い、痛――
「……ぃ゛……いたい……」
「お!目が覚めましたね。良かった良かった。分かりますか~ジュリアン・ヴァルデリウス大尉~」
ジュリアンは、呼びかける声も、身体を揺さぶる不快な感触も、すべて暗闇の奥へ蹴り飛ばしてきたはずだった。
だが、それでも全身を焼くような痛みだけは無視できず……ついに意識が完全に覚醒する。
「……ゆる、さない……」
夢の中で、ジュリアンは何故か絶大に怒っていた。
理由はもう思い出せない。
「え?! やっぱり撤収の時一度転んだのバレてました? だって重いんですもん。腕はもともと折れてたんですからね。僕のせいじゃないですよ」
「……――お゛、オスカー、か……、……? 目がよく、見えない、ゔぐ、ぁッ、なんだ、目が、」
へらへらとした口調。大尉たる自分にここまで慣れ慣れしいのはあの眼鏡野郎しかいない。
そう思って何気なく瞼を開く――けれど、眼球から頭の中まで突き刺されたかのような痛みに驚いて、ジュリアンはぐっと顎を引く。
本当は手で覆いたかった。しかし泥のように重く腕はすこしベッドから浮くだけだった。
「落ち着いてください。二か月ぶりの光ですから、まだ瞳孔が――眼球は無傷ですが、とにかくまだ慣れてないんです」
その言葉は突き刺す痛みと共に、頭の奥深くまで素早く届いた。今、なんて――
「二か月? 今、何日だ?」
「王国歴百八十九年、八の月二十三日。夏至星もとっくに三の環まで堕ちて、」
「八の月?! わ、私は――ッぃ゛た、」
オスカーの声を遮って、ジュリアンは無理やり起き上がろうとした。
けれどほんの少し背を丸めただけで腹の傷が開いたかと思うほどの灼痛に見舞われ、またベッドに逆戻りする。
「ああもう、急に起きたらそりゃ痛みますよ。肩も腕も酷かったんですから」
「本当に……そんな、季節が、変わるほど……」
「はい。骨折などの大きな損傷は、感染症の恐れもなく順調に回復傾向。なんですが、意図的に昏睡させてました」
「起きた時、私じゃないかもしれないから、か……」
「野獣を相手に記録をとるのは、死ぬほど骨が折れますからね。……おかえりなさい、大尉。人間のままでいてくれて、本当に良かった」
大怪我を負った適合者が獣に呑まれぬよう、石ごと昏睡させる。それがこの部隊のやり方だった。
それでも、きっと五分五分だったのだろう。
ジュリアンは目が痛まないようにしっかり瞼を閉じたまま、それでも鼻につく火薬の匂いを感じ取っていた。
オスカーが銃を持っているのか、部屋のどこかに備えてあるのか。処分の備えだけは万全なのだろう。
と――そこで、ジュリアンの頭の中に天啓の勢いで白い封筒のイメージが下りてきた。
「……ッそうだ手紙! ――ッ゛ぅぅ゛ぐッ」
「まったくもう。お腹もまだ相当痛むでしょうに。安静にしててくださいよ。なんですか、手紙ですか?」
「そうだ、ぅぅ゛、手紙が来ているだろう……ッヴァルデリウスから、」
「大尉人気者なんで、色んなところから来てますよ、ええとヴァルデリウス、ヴァルデリウス……あった」
「読んでくれ。今」
「――え! でもこれヴァルデリウスの、夫人からですよ。いいんですか」
板張りの床を叩く、困惑を含んだ軍靴の音。
「いいから、読め、二か月も返せなかった。今すぐ返事を書いて、無事を伝えなければ」
ジュリアンは静かに息を吸って答える。
確かに恥ずかしいし、アナスタシアの心が詰まった手紙は自分だけが独占していたい。
それでも背に腹は代えられなかった。
「返事……て、無理でしょうその腕では」
「ああ、だからお前が書くんだ」
「えぇッ!……嫌ですよ、そんな私生活に顔突っ込みたくないですよ。簡易電報でも飛ばしたらどうです。大尉の名前を出せば、明後日には、」
「上官命令だ。オスカー・ハミルトン軍曹」
ジュリアンが鋭くそう命令すると、駄々っ子のようだった彼の雰囲気が一気に冷たいもの変わる。
「――はぁー……。分かりましたから、二度とその苗字で呼ばないでください。まったく……あの投資家気取りの強盗の姓なんて、こんなことになるなら死んでも貰わなかったんですからね……」
苦々しい声、絶望色のため息。『ハミルトン』。その名を与えられ、引き換えに全てを奪われた男は、毛羽だった馬の尻尾を苛立たしげに揺らす。
「だが――平民が姓を受けるのは天才の証なのだろう。私は、その頭脳を信頼している」
「……、……まぁ? 大尉のおっしゃる通り僕は天才なので否定はしませんが……」
間もなく封筒を裂き、紙を広げる乾いた音がして。
「……では、読みますよ。――あ、『愛する、リアン様へ』……あー、ええと『〝黒塗り〟が近づき、こちらは過ごしやすい日々が続いております』」
初手の『愛する』に咳き込み、文章内で無残にも潰された黒にもつまずきつつ、オスカーは音読を続ける。
「『いつの日か、貴方様と』……ここは大きく潰されていますね、『と、今はただそればかりを願っております』」
「……、……」
せっかく未来を願ってくれたのに。何を願ったのかは分からない。
ジュリアンは、黒塗りが愛の証だなどと思っていた過去の自分自身を殴り飛ばしたい気持ちになった。
やはり、無粋なものは無粋で、許されないことだ。愛する妻の望むもの一つ、夫として知ることが出来ないなど。
「――『〝黒塗り〟のお話を聞いて、思わず笑みがこぼれてしまいました』」
「……」
苛立ちの中に微笑ましさが強制的に混ざりこむ。けれど、こちらを元気づけようとする健気さに心が締め付けられるようだった。
そのあとに続く穴だらけの近況報告。ぼんやりとしか思い出せない生家の中で、たくましく生きる我が家族。その中心の、小柄な女性が笑っている……。
「『その前途に、確かな勝利とご武運がありますように。貴方様のアナスタシア』……はい。これで全部です」
はぁ。とオスカーが一仕事終えたあとのようなため息をつく。
ジュリアンは読み上げが始まった瞬間から思っていたことを口にした。
「……男の声で聴いても全然楽しくなかった……」
「僕も楽しくないですよ!」
「は? 良い手紙だっただろう。文字も綺麗に並んでいたはずだ」
「はぁーッ! 僕に惚気ないでくださいよ面倒な人ですね!」
自分の頭の中で、朧げでもアナスタシアの声が聞こえるのが嬉しくて楽しかったのに。
少々高めとはいえ喉仏の張り出た眼鏡男の音読など、代用品にもなりはしない。
ジュリアンは許される程度に礼を省略し、オスカーはそれに律儀にひと騒ぎしたあと。
「 ……それで、返事はなんて書くんです。僕も暇じゃないんですよ。本当は覚醒時の石英脈動を記録したら出ていくつもりだったんですから」
そう言いながらオスカーは――今までジュリアンのベッドのそばで立って音読していたので――机に座り直し、便箋を広げる。
引き受ければ、きちんとやる。それがこの男の軽口を無礼だと吐き捨てられない、憎めない所であった。
「……そうか。それはすまない……では、書き出しはこうだ。……『親愛なるアナへ』――」
二か月も不安にさせてしまった。父や弟からの手紙でも散々黒塗りされたせいで、思い返せば長い間領内の詳細な状況は把握できていない。
ジュリアンは瞼の裏で愛する領地を思い出す。
あんな白ばかりの僻地。物資は一番に入ってこなくなると考えた方がいい。
農業が得意な土地でもない。飢えや疫病、領民同士の軋轢に巻き込まれていないだろうか?
心配だ――。
今。ジュリアンは大尉としては失格なほど、この二か月間の戦況のことなんて気にしていなかった。
土地がいくらか焼けようと、自らの体がさらに獣に呑まれようと関係ない。
今の彼にとって、何よりも優先すべきはアナスタシアだった。




