49話 軋轢
彼女の顔は真っ赤になって、くしゃくしゃに歪んでいる。
その瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れて。
「――ッ『そうですか』ってなんだ、どうしてそんなに冷たいんだッ!」
怒鳴られたことで、目の前が一瞬遠くなる。感情が揺さぶられ、心臓が生きていることを思い出したかのように暴れ出した。
「前はあんた、一緒に泣いてたじゃないか!」
「ヒルダッ止めな、」
怒鳴り声を聞いて、先に作業に向かおうとしていたマルタさんが飛んできた。
彼女の肩を押さえ、優しく顔を覗き込む。
「……、……涙で腹は膨れません。皆で冬を超えるためです。今年は本当に人が少なく、」
「ああ分かった! 分かったよ! ……あんたもッ――いつか、分かる時が来るだろうさ!」
「ヒルダ! 奥様に当たるんじゃない!」
「当たってない! 人として冷たすぎるって言ってんだよ!」
「奥様が指揮してくれなかったら、皆共倒れだって分かってるだろ。冷静なのは当然だろうに!」
声が遠い。
目の前では言い争いが――わたしを起点とした言い争いが起こっているのに。
彼女が何に怒っているのか考えることが出来ない。集中できない。
朝日に照らされて建物の裏にできた影。
その黒緑を眺め続けてしまう。
水の中にいるみたいだった。
「だって、だってエルゼは、あんなに辛そうで――昨日だって眠れてなかったんだ! それを――ッ!」
「昨日も一昨日も、あんたは奥様のスープを飲んだだろう! 恩を返そうとは思わないのかい、ヒルダ! 奥様に謝んな!」
そこで、一気に思考が開ける。
あ――だめだ謝罪は。
村人同士に謝罪を強いる関係は、断裂を生む。
「――い、いいんです。大丈夫です。わたしの言い方が、良くありませんでした。ヒルダさんが怒るのも分かります。ごめんなさい、ヒルダさん。けれど……皆で、一人も欠けずに冬を超えるためなんです。どうかお願いします」
問題の発端であるわたしが少しだけ頭を下げると、とにかく言い争いはおさまった。
けれど彼女の怒りは収まらず、最後に真っ赤な目で一睨みされてしまう。
何やら説得か、とりなしか――しようとしているマルタさんと一緒に、時折大声を出しながら石畳の道を下っていく。
二人を見届けたわたしは、霜麻畑の近くに在る漬け込み場に向かいながら、白い手袋を外作業用の軍手にはめ直した。
自分でも冷たすぎると、どこかでは理解している。
けれど……あの戦死報告を聞くたびに、作業できる人がさらに少なくなって、想定される未来が黒く滲んでいくたびに――だんだん自分の感情が擦り切れて、心が小さく固いものになっていってしまったのだ。
明日が怖かった。
冬が怖かった。
軍人の靴音が怖かった。
そして休養中の家から、張り裂けるような慟哭が響くことも。
けれども誰にも言えなかった。だってわたしはまだいい方で、何も失っていないから。
いい方だから、ヴァルデリウス男爵夫人だから、誰よりも動き、誰にもできない判断を下さなければならない。
軍手の嵌った指先を握り締める。
植物が腐っていく、なんとも言えない酸っぱい悪臭が鼻を付いた。
収穫してまとめてあった麻束を抱え、特別な漬け汁の入った木製のタライの中に並べていく。
大丈夫だ。怒鳴られるのが、わたしだけなら。
一番回避しないといけない未来は、領民同士で争うこと。
それだけは、この極限の中、絶対に許してはいけない。
わたしの旦那様は、まだ生きているのだ。だから、まだ大丈夫……。
その「大丈夫」を、一日に一回、祈るように唱えながら夏の納品を完了させ、爪の間に泥を溜めてジャガイモの収穫を終えた。
山が燃えるような朱に染まり、朝晩の冷え込みが厳しくなって、スープの具が徐々に少なくなっても――わたしはまだ、そう信じていた。
けれど秋が深まり、穀星が西の稜線へ没しても、旦那様からの手紙が届くことは無かった。




