42話 愛する人へ
愛馬の揺れに身を任せながら、ジュリアンは目を閉じた。
書き出しは、そう。『麗らかな陽光が霜麻を照らしている頃だろうか』……。
しかし……戦車の黒煙が、まだ書いてもいない便箋まで黒く染めていく。
どうせこれも、あれも、彼女には届かない。ならばせめて、真実を書き殴ってやろう。
――〝同居人〟の声で眠れない日がある。そういう時は薬で押さえるのだが、薬の副作用による酷い頭痛にも悩まされる。
ジュリアンの口端が上がる。そうだ、書いてやれ。どうせ伝わらない……。
私たちの間で、まさか消さざるを得ない言葉を書いて送った。その「黒」だけで愛の証明になっているなんて、流石の検閲局も見破れまい。
――君はきっと私の変貌ぶりに驚くはずだ。以前より少しばかり身長も伸びたし、他にも、色々……。
次にペンを持てるのは、何十時間後か、あるいは何日後か。
その時、自分がまだ『ジュリアン・ヴァルデリウス』を名乗れる状態でいられたなら。その時は、ただ一行。
「……ああ、そうだ。それだけは、絶対に……」
――愛している、アナ。
深くにしまい込んだ手紙を上から撫でて、その温もりを確かめるように強く押さえる。
それから数時間後。
時刻は夕方になろうかというところでやっと、強化兵専用の野戦病院に負傷兵を送り届けることができた。
甲車とその護衛には「そのままの速度で進み、二時間後に予定地で合流せよ」と指示を飛ばし、ジュリアンだけ先に馬を走らせる。
一時間ほど進むと、地平線の端。
夕闇に溶けかかった丘の裏側に、先遣隊が設営した隠密キャンプの影が見えてきた。
久々に、排ガスを吸わずに長距離を走れて上機嫌なウェグ。
前足を蹴り上げるようにして少し暴れる愛馬を宥めて細木に繋ぐ。
小さく薄汚れたテント布を掻き分けると、そこには偵察任務を終えた四人の男たちが、まるで折り重なる屍のようにひしめき合っていた。
一晩中、泥を這って包囲の穴を探し続けた疲労と、無理やり神経を昂ぶらせた薬の反動だろう。
「総員、起立! 大尉殿だぞ!」
カイル曹長が地図から顔を上げ、低いが鋭い声で活を入れる。
隅で横たわっていた二人が、泥に汚れた顔を上げて震える腕で身を起こそうとした。
彼らにも、ジュリアンとは形が違う獣耳が頭頂に鎮座している。
「いい、曹長。寝かせておいてくれ。――私の方が、狭いところへお邪魔した形だ」
「しかし……」
ジュリアンが制すと、這い出そうとしていた兵士は糸が切れたように再び泥まみれの毛布に沈んだ。
彼ら五人のうち、二人は馬の適応者だ。偵察の足として、また重い無線機を背負って走り回り、体力を使い果たしているのだろう。
力なく垂れた尾は、泥にまみれて重く湿っていた。
だが、テントの最奥、光の届かない隅に蹲る二人は違う。
彼らは豹の適応者だ。横たわることもなく膝を抱えて、爛々と輝く瞳だけを闇のなかでこちらに向けている。
その細く長い尾が、苛立ちを隠せない蛇のように、時折ピチピチと乾いた音を立てて跳ねた。
「……、……」
彼らは言葉を発しない。豹の適応者は、石による精神汚染が最も早いのだ。
ジュリアンは彼らの視線から逃れるように、中央の木箱に広げられた地図の前へ慎重に身を沈める。
「どうだ」
「概ね良好です。作戦通りに進められるかと。予定より侵入地点が南になりましたが……」
書類に何やら書き込んでいたカイル曹長――彼はジュリアンと同じ、狼の適応者――だけが、立ちあがり敬礼をしていた。
目の前まで来たジュリアンに分かりやすいよう、地図上のマークされたところを指で示す。昨夜の偵察の結果を速やかに情報共有する。
「ならば、作戦開始までの三時間は皆の休息を最優先する。二時間後に補給甲車が到着することだけ知っておいてくれ――あと、怪我人や副作用が特に酷い者はいるか」
「負傷者ゼロ。副作用は……俺以外全員。ですかねぇ……新しい活性剤、合わないやつ多いんで……補給甲車の到着が待ち遠しいです」
「そうか……野戦病院から軍曹も乗ってくるから、処置してもらおう。お前も――休め。無理するなよ」
「了解しました。あ、あとこちら、お願いします」
ブロンドの髪を短く切りそろえた男は、爪先の中にまで泥が入って黒ずんだ手で、先ほどまで色々と書き込んでいた書類をジュリアンに手渡す。
それは『作戦決行承認決裁綴』で、ジュリアン大尉の署名があれば、今夜の決行が決まるものだった。
強化部隊が『第九旅団付属・特務作業班』として結成された頃、平民生まれのカイル曹長の文字は読めたものではなかったが、今ではこうして、総司令に提出できるほどの綺麗な文字と正しい文法で書類を作成することが出来ていた。
自分より若い――エドワードと同じくらいの年齢の、この青年も今夜の作戦に参加する。
偵察の時に大きな危険がなかったとはいえ、決して安全ではない作戦に。ジュリアンのサイン一つで突撃させてしまうのだ。
大尉になってから、数回こうやってサインをしてきて、もう三人死んだ。
この作戦が上手くいけば、きっと終戦が近くなるはず。何度もそう思ってサインをしてきた。けれど、毎回こうやってペンを受け取ると、とてつもない無力感に襲われる。
ジュリアンは逃げ出したい気持ちでいっぱいになりながら、背の低い木箱に対して腰を折り、一文字ずつ刻みつけるようにペンを走らせていく。
カイル曹長を含めた大人五人がひしめき合うテント内は、テントの中は、生温かい体温と泥臭さ、それに薬品臭で満ちていた。
外の冷気が嘘のように、生温かい体温と泥臭さ、それに石の駆動を助ける劇薬特有のツンとした化学臭。
書き終えた書類をカイルに託し、ジュリアンは逃げるように外に出た。
すっと息を吸い込む――けれど爽快とは程遠く。薬の副作用による頭痛が、側頭から少しずつ忍び寄ってくるのを感じていた。
それがひどくなって思考が鈍くなる前に、やり残したことがないか考える。
負傷兵の収容、薬と物資は手配した。休む指示も出して――ことが動き出すのは甲車が到着する二時間後。
ならば、とりあえず二時間は自分自身も休める。
「……、……アナ……」
しかし睡魔は遠く遠くにいて……せめて眠くなるまで、手紙を書こうとジュリアンは思い至る。
すっかり落ち着いて地面の枯草を食んでいるウェグの鞍袋から筆記用具を取り出して、近くの木箱へ腰かけた。
――親愛なる、アナへ――。
………
……
…
「――い、――大尉、本部に『準備完了』の最終報告を入れます。返信、ありますか?」
カイルの声に顔を上げる。手には封蝋まできっちり終わった手紙。いつからこうしていたのだろう。とジュリアンは驚いて辺りを見回した。幸い、補給甲車はまだ到着していない。
「あ、あぁ、これを、伝令便の袋に。宛先はヴァルデリウスだ」
「また手紙ですか? いいなぁ。俺も、戦争終わったらきれーで可愛い嫁さん欲しいです。大尉、紹介してくださいよ」
「……当てがないし格も合わない……が、考えておいてやる」
「やった。では大尉、行ってきます」
「ああ。頼む」
夕日は山奥へ沈み、残り火が黄昏時を薄暗く染めている。
その中で、馬を使わず地を蹴って走っていくカイル曹長の背中は、人間離れした速度で瞬く間に小さくなっていった。
あの走り方は――活性剤を使っている。
万が一にでも馬を失わず、作戦時刻までに確実に帰ってこれるように。
「あ――あいつ……ッ」
ジュリアンは今日一番、憎々し気に呟いた。
そもそも昨夜の作戦が終わって、鎮静剤は打ったのだろうか?
打たずに自然沈下を待っていたとしても、活性剤を入れる間隔が早すぎる。
あれでは今夜の作戦中、更にもう一本を体内に流し込むことになるだろう。
平民出身のカイルをこの地位まで押し上げたのは、劇薬への異常な適応力と、それによって積み上げられた凄惨な戦果によるものが大きい。
それが、あの青年にとって危うい自尊心を植え付けている。「俺だけは大丈夫だ」と言わんばかりの、あの清々しい笑顔。
嫌いではないが――ジュリアンは暗澹たる気持ちになった。
作戦承認書にサインをして、三人死んだ。そのうち一人はジュリアン自らが『処理』したのだ。
薬でも発作を抑えられなくなり、異形から戻れず、狂って四つ足で野を駆けるようになれば――人としての尊厳ある死すら与えられず、王国に還ることさえも叶わない。
あいつは本当に、分かっているのだろうか。
私にまたあんな真似をさせるつもりか。一度殴って教えた方がいいのか。
ジュリアンは精一杯の力で拳を握り締めた――。




