41話 荒野
轟音を立てて草原を蹂躙する戦車の後方、ジュリアン・ヴァルデリウスは愛馬の背に揺られていた。
鉄の箱から吐き出される煤煙が、戦地にあって皮肉なほど青い空を汚していく。
迷彩を兼ねている薄汚れたマントのフードを被り、彼は愛馬ウェグの首筋を撫でた。
ウェグはその黒いたてがみを揺らして不機嫌そうに一度だけブル、と鳴く。
選ばれた兵だけで構成された隠密強化部隊。
公式記録上は『第九旅団付属・特務作業班』。
基地内でその人ならざる影を見たものは『王国に還れない亡霊』と囁き、軍上層部からは忌々し気に「あの獣ども」と切り捨てる。
そして敵国からは――「グェル・バァト」。こちらの国の言葉に訳せば『夜闇の手』と、死神のごとく忌み嫌われている一団だ。
亡霊であり獣であり死神でもある彼らは、敵に見つからないようにゆっくり進み続ける。
数日分の物資と、この隊では必須の特別な薬、それから負傷兵を乗せた鉄皮補給甲車。
車内の熱気から逃れて天板で見張りをする兵が一人。その周りを囲む騎馬兵が二騎。ジュリアンは、最後尾の護衛を務めていた。
部下たちは時折、不思議そうに後ろを振り返る。
その視線を彼はフードの奥で受け流した。
先日大尉と昇進し、この小隊の最高責任者となった彼が後方を譲らない理由は、一つ。
彼は鞍袋から、出発の直前に滑り込んできた手紙を取り出した。
アナスタシア・ヴァルデリウス
女性らしい、細く整った筆跡。裏には、割られた男爵夫人の小さな印章があって、その隣には検閲局の封蝋が我が物顔でべったりとこびり付いている。
「はぁ……」
割られた封蝋が痛々しい。そう思いながら、彼は尖った爪先を封筒に差し入れて開封する。
愛するリアン様へ
お手紙、確かに受け取りました。
████████████████████████████████████████████████████████████████████
わたしも、貴方様が今どこにいらっしゃったとしても、せめて空から注ぐ陽光や風だけは、心地よいものでありますようにと願っております。
██████についてですが、正直に申し上げます。████████████████
恥ずかしながら、████████████████████████████████████████
翌朝になっても████████、エルザにも随分と心配をかけてしまったほどです。
けれど、リアン様のおっしゃる通りです。お二人があの場に████████████くださったのは、わたしへの期待があってのことなのだと、今はそう信じております。
身の引き締まる思いですが、同時に、家族の一員として頼りにされたことが、これほどまでに嬉しいのだと知りました。
貴方様のお言葉、本当に嬉しかったです。
わたしも、リアン様の胸にある████を、いつだって受け止めたいと願っています。どうか、リアン様も████思いを一人で仕舞い込まないでください。
たとえ、その言葉がわたくしの元へ届かなかったとしても、貴方様がそれを書き記してくださるだけで、わたしの心は貴方様と共にあります。
戦地では心休まる暇もないことと存じますが、どうかひとときでも、深く穏やかな眠りが貴方様に訪れますように。
貴方様を、そして私たちの未来の武運を祈ります。
貴方様のアナスタシア
馬の規則正しい足音と、戦車の鈍い駆動音。
ジュリアンの口角が上がる。本当に久しぶりに、頬の筋肉が動いた実感があった。
やはり。損耗評価という言葉とその周辺は通らなかったか。
いつもの書きぶりからして、丸ごと塗りつぶされているのは領内の状況報告だろう。
けれどそんなことよりもジュリアンの心を温めるのは、その容赦のない黒だった。
彼女は、思ったよりも賢い。
こんなことを書けば塗りつぶされると、もしかしたらあらぬ疑いを掛けられると分かっているだろう。それでも、真っすぐ正直に苦痛の記憶を書き連ねた。
自分がそう願ったからだ。その素直さが、愛おしくてたまらない。
「アナ、アナ……」
屋敷にいた時には一度も呼ばなかった愛称を、口の中で転がす。
厳しい冬だったはずだ。
それでも彼女の生活が、とりあえず守られている。
それだけでも、この戦地に立つ理由になると固く信じていた。
と、その時。焼き払われ、機械兵器に踏み荒らされた更地に風が吹く。
無情なそれはジュリアンの手の中の手紙を攫おうとして――咄嗟に手綱から手を離し、両手で手紙を守れば、強風はついに彼の歪な頭を晒した。
「――ッ゛!」
人の耳があるべき場所からは外れた、頭頂のほど近く。そこには、灰色の獣の耳が鎮座している。
「くそ、」
狼耳が風を感じたのか、ジュリアンの意思に反してぴくぴくと動き出す。
急いで手紙を深く仕舞い、またフードを被り直した。
肩が焼けるように熱い。
汗が噴き出て、喉奥から全力で唸り、吠えたい衝動に駆られる。
頭の中に、自分のものではない感情が流れ込む。
「獣の囁き」だった。
目の中が赤と黒の点滅で埋め尽くされて……やめろ、やめろ。うるさい。だまれ。
どうしてそんなに、怒りへと唆す――。
発作が始まってしまえば――今は一応作戦中で、落馬すればただでは済まない……だから、彼は腹回りに巻き付いた小さな医療袋の中から、針の付いた緑色の試験管を取り出した。
震える手で隊服のボタンを外し、胸元を――肩に近い鎖骨を露出させる。
「ぅ、ゔる、さい……ッ」
そこには、懐中時計のような大きさの金属が張り付いていて、その周りの肌は根付くように何本も筋が浮かんでいた。その金属は、半ば彼の体と一体化している。
真ん中の小さな穴に狙いを澄まして、試験管の針を突き入れた。
鎖骨奥に埋設された不完全な賢者の石。
その錬金術的拍動は超常の力を供給すると同時に、宿主の精神を獣性へと塗り潰していく不可逆の呪いを秘めている。
ジュゴ、と一瞬で薬剤が体の中に染みわたり、血管の中を異物が逆流していくような不快感ののち熱を持っていた石が冷えていく。
明滅を繰り返していた視界も開けて、ウェグの背と砂塵が良く見えるようになった。
ジュリアンの中には不快感も囁きもまだ残っているし、腕も手もどこかを殴り、引き裂いて壊したい衝動で満ち満ちている。
けれど、それは我慢できる範囲に収まっていった。
「――ハッ、は、はぁ、ぁ……」
ジュリアンはほんの少しのけ反って、浅くとも呼吸を繰り返す。
するとブルル、とウェグが頭を振った。手綱を持たなくていいのか。このまま進んで大丈夫なのか? と言わんばかりに。
「ぁ、ああ、ウェグ、すまない。大丈夫だ……」
空の試験管を手の中で割り砕き、枯草ばかりの草原に撒く。その手で、再び手綱を握った。
思いを、一人で仕舞い込まないでください――。
無粋な黒塗りの中でも、花の香りがしそうなほど綺麗な文字を思い出す。
もうずいぶん前から朧げになってしまった、愛する人の顔。
鎖骨には異様な金属がめり込んで、おそらく一生外れない。
薬で無理やり狼の力を引きだして、体の末端を化け物に変えながら……もう数十人はこの爪と牙で殺したんだよ。そんなことを全部全部正直に吐き出して、奇跡的に検閲されなかったとして。
アナは――ずいぶん変わってしまった私のことを怖がりはしないだろうか。
愛称で呼ぶことを許してくれた時と変わらず、愛してくれるのだろうか。
戦車の轟音が一層高音になった。
機械兵器が耕したでこぼこ道が終わり、少しだけ平坦になったから、スピードを上げたのだ。
たとえ愛されなくても、愛した人が――愛する国がこのまま蹂躙されるなんて絶対に許せない。
今は、それだけでいいじゃないか。
ジュリアンは愛馬に加速の指示を出しながら、そう自分に言い聞かせる。
「――行こう、ウェグ」




