40話 春の手紙
覚悟を決めてからの一か月は、信じられない速さで過ぎていった。
村全体が、どこか焦っていたからだ。
森の中の雪は雨音を立てながらみるみる消えていき、土がぬかるんでくる。
春の陽気が漂い出した昼前。
わたしは今日も変わらず糸車を回し、彩雲糸を紡ぎ続けていた。
雪明かりとは違う、どこか黄色っぽい春の日差し。
工房裏手の畑では、霜麻の種まきが行われている。
日に温められた土の匂い。
先日行われた土還の儀を思い出す。
リネンに包まれたミーナはあの日――わたしが作ったハンカチや、ルカとテオから分けられたベリークッキーと共に、無事王国の大地へと還っていった……。
と、その時ふいに、ふいに、意識が現実へ引き戻される。
短い追憶を打ち切るように、男の足音が近づく。衝立の向こうでも、それがベルトラムだと分かった。
「はぁ、よいしょ。奥様、スープです。今日は豆のほかに、少しだけニンジンも入ってるんですよー」
塩は入っているが、冬の間は使っていた香草を今は使っていない。素材そのものの香りが強いスープを、工房の長テーブルの上に置いたベルトラムは、『衝立の奥は見てはいけない』の生産棟のゆるいルールを厳格に守り、大きめの声で衝立の中のわたしに声をかけた。
「ここ、置いときますねぇー!」
丁度手が離せなかったわたしも「ありがとう、ベルトラム!」と明るい声を意識して返す。
温熱配給――スープの集いは、冬が終わり春となった現在も続いていた。食材は価格高騰だけにとどまらず、そもそも量が入ってこなくなったから。
何もかもが、もう例年通りとはいかなくなってきている。
少し気を抜くだけで、黒塗りの手紙や、死の影をまとった旦那様の昇進を思い出してしまう。嫌な予感ばかりが頭蓋を掴んで離れなくなるのだ……。
胸をぎゅっと掴まれるような色濃い不安に、ペダルを踏む足が乱れたり、止まったりする。
いけない。こんなことでは……集中して。考えるなら動かせない過去の事よりも、いくらでも動かせる未来のことを考えなければ……。
――未来。たとえば、夏や秋、備蓄のこと。耕した畑の面積はどう考えたって足りない。
去年や一昨年から、食いでがあれば子鹿も狩っている。今年あたりから、そもそも獲物の量が少なくなるとエドワード様も心配なさっていた。
どうしよう。姉さまとの取引だけでは足りないかも。でも彩雲糸を他に売るなんて考えられないし……と、ぐるぐる思い悩んでいた、その時。
生産棟の女性陣や子供たちの華やかな声が、工房内にわぁっと広がっていく。
スープの匂いを嗅ぎつけて、畑から帰ってきたのだ。
わたしは糸車を止めて、衝立から出る。
その時には、男爵夫人に相応しい穏やかな微笑みが顔に張り付いていたと思う。
その日の夜。私室の机の上に旦那様から届いた手紙が置いてあったことで、わたしは〝嬉しい〟と〝苦しい〟を同時に味わっていた。
もちろん、旦那様の言葉はいつだって嬉しい。半年ほど返ってこなかったこともあったから、届くだけで……本当に踵が浮くほど嬉しい。
でも今回の手紙も――旦那様の印章はまたしても割られ、その横には当たり前のように、検閲局の封蝋が押してある。
前回の、黒く塗られた手紙を思い出す。
大切な言葉が、勝手な基準で蹂躙される不快感は――いくら王国のやることとはいえ――どうしても残ったままだった。大事なものの、その骨だけが抜き取られて送り返されるような。
けれども机の上の四角を見た瞬間わたしはペーパーナイフを握っていたし、ごたごた考えつつも流れるように手紙を開いていた。
親愛なるアナへ
暦の上では春だが、北の地はまだ冷えるだろうか。そちらに暖かい日が一日でも多く続いていることを祈る。
ミーナのこと、覚えている。そうか彼女は、まだ幼かっただろうに。惜しい命を失った。
君は、まさか██████に参加したのだろうか? ████████████████████あれは、██████████████
――いや、勘違いしないでほしい。██████████████████ただ、君のその美しい心に、████████████████████████████、心配でならない。
私も、かつては……██████████████████████████ ████████████。
だから、君にとってはとても、とても辛い経験だったのではないかと、胸が痛む。
しかし、その席に同席することを許したエドワードや父は、君の芯の強さを認めており、いずれにせよ君に深く期待しているということなのだろう。
君が始めた████████████████、きっとこの経験から端を発していることなのだろうな。
しかし、アナ。君の中に██████████████████があるのならば、どうかこの手紙に何でも吐き出してほしい。たとえ、届かなくても。
嬉しいことだけでなく、██████████████████だと、今の私は思うのだ。
御身、何卒ご自愛なされよ。
愛している、アナ。
君のリアンより
小さなろうそくの光の中、繰り返し読み返す。
見えない輪郭を、手触りだけで何度も確かめるかのように。
……相変わらずの容赦ない黒。
だけれど、ありがたいことにまったく分からないわけではなかった。
恐らく「損耗評価」という言葉は、お互い通過できなかったのだろう。
その周辺も領内のひいては国内の機密に関わるから、丸ごと黒いのも不本意ながら頷ける。
損耗評価の事も、その次の――恐らく感情を共有しようと提案してくださっているのも……本当に、文章の最後の一文が残っていてよかった。
とにかくわたしのことを心配して、心に手を伸ばそうとくださっている。そう理解していいだろう。
愛するリアン様へ
お手紙、確かに受け取りました。
まだ少し寒さは残りますが、山の馬車道が通れるようになり、早くも物流が再開いたしました。領内の状況については、どうか心配なさらないでください。
わたしも、貴方様が今どこにいらっしゃったとしても、せめて空から注ぐ陽光や風だけは、心地よいものでありますようにと願っております。
損耗評価についてですが、正直に申し上げます。とても、とても辛かったです。
恥ずかしながら、お義父様とエドワード様の前で涙を流しながら計算を続けておりました。
翌朝になっても涙が止まらず、エルザにも随分と心配をかけてしまったほどです。
けれど、リアン様のおっしゃる通りです。お二人があの場に同席を許してくださったのは、わたしへの期待があってのことなのだと、今はそう信じております。
身の引き締まる思いですが、同時に、家族の一員として頼りにされたことが、これほどまでに嬉しいのだと知りました。
貴方様のお言葉、本当に嬉しかったです。
わたしも、リアン様の胸にある苦しさを、いつだって受け止めたいと願っています。どうか、リアン様も苦い思いを一人で仕舞い込まないでください。
たとえ、その言葉がわたくしの元へ届かなかったとしても、貴方様がそれを書き記してくださるだけで、わたしの心は貴方様と共にあります。
戦地では心休まる暇もないことと存じますが、どうかひとときでも、深く穏やかな眠りが旦那様に訪れますように。
貴方様を、そして私たちの未来の武運を祈ります。
貴方様のアナスタシア
ペンを置いて、手紙を丁寧に二つ折りにする。
どれほど塗りつぶされてしまうだろう。けれど、でも、良いのだ。後ろ暗いやり取りなど何もなく、ただままならない辛さを二人で分かち合っているだけのことだから。
封蝋まできっちり終わった手紙を胸に押し当てる。
リアン様に、少しでもこの手紙から〝わたし〟を感じて欲しくて……わたしはしばらく、胸に抱いたまま動けなかった。




