33話 温熱配給
優しく背中を叩かれて、工房への道を進む。
雪が降っていて薄暗い朝の道は、けれど真っ赤になった目を冷やしてくれるみたいだった。
生産棟に着いたわたしは皆との挨拶もそこそこに、作業前の皆を集め、いつかのように木箱の上に乗った。
「皆、聞いてください」
自分の声が驚くほど静かに、そして鋭く響く。
「昨日、わたしたちはかけがえのない歯車を一つ失いました。……ミーナのことです」
その名前を口にした瞬間、工房がわずかに揺れた。わたしは皆が息を整えるのを待つことなく続ける。
「彼女の死は、この領地にとって大きな、あまりにも大きな『損耗』です。二度と、このような損失を繰り返してはなりません。子供たちには今一度厳命してください。許可なく、子供だけで山へ入ることは一切禁止です。もし山菜や実を持ち帰ったとしても、必ず大人の確認を経てから口にすること。これは、男爵夫人としての命令です」
一拍、間を置く。隙間から流れてくる冷たい風が、熱を持った目蓋を撫でていく。
不思議な感覚だった。損耗評価のときも、朝も、あれだけ泣いたのに……ミーナのことも話しているのに、今は一切涙の気配がない。
領民たちの顔は全員わたしに向いて、傾聴の姿勢がとられていた。それが少しだけ嬉しい。
「現在、我が国は戦争の中にあります。冬の厳しさと飢えは、皆の心と体を確実に削っていくでしょう。けれど、このヴァルデリウスの歯車をこれ以上失うわけにはいきません。ですから、明日から毎日、この場所で『温熱配給』を行います」
ざわっ、と空気が動いた。「おんねつはいきゅう」と数人の口が動く。
「各自、明日からは器を持ってここへ集まりなさい。糸を紡ぐ者も、まだ紡げない子供たちも、昼の時間にここに来れば温かいスープを一人一杯ずつ提供します。皆が春まで、健康に、確実に回り続けるための燃料として、わたしが倉庫の食糧を買い取りました。糸束の支払いは変わりません。これは、あなたたちが生き抜くための権利です」
大盤振る舞いすぎると、お義父様は難しい顔をなさるかもしれない。
でも、好きにさせてもらうためにかけなしの私財で買い取ったのだし。
「冬の閉ざしが明けるまで、あと少しです。共に、踏ん張りましょう。では、作業開始。本日もよろしくお願いします」
木箱の上で頭を垂れると、少しのざわめきと共に皆が散っていく。わたしは木箱から降りて小さく息を吐いた。
こうやってみんなの前に立つとき。
社交ほどではなくても――すごく緊張して声が小さくなったり、どもったり、息が続かなくて声が擦れたりしていた。でも今回はそれが一切なかった。
言うべき言葉がすらすらと頭から口へ流れていく、別人になったのような感覚。
「奥様。格好良かったねぇ」
そう声をかけてくれると同時に、包帯の巻かれた手で肩を叩いたのはマルタさん。
エルザの報告によると、昨日は本当にきちんと休んだらしい。けれど、もう出てきて大丈夫なのだろうか。
「ありがとうございます、マルタさん。もう大丈夫なのですか。熱は、」
「ああ。この通り体は元気さ。……でもま、手はちょいと痛むけどね。奥様みたく、倉庫で梳櫛でもやりつつ現場を見るよ」
「そうですか。でも梳櫛は、わたし結構頑張りましたから、ストックがあるはずです。ほどほどで大丈夫ですよ」
「そんなことよりも奥様。あの、お、おんねつ……あー、スープが出るやつ! 明日から楽しみだね」
「ふふ。はい。屋敷のベルトラムが作って持ってきてくれますから、きっと美味しいですよ」
格好良かったと誉められた高揚のまま、二日ぶりに自分の作業場――衝立の中に入る。
そこは二日前とほとんど変わらなかった。
投げてしまった彩雲糸は――エルザが整えてくれたのだろう。少しだけ揃えられて、でもまだその場にある。
事件の直前に思い出していた旦那様と、泡を拭いて死んでいったミーナが脳裏をよぎって……意識して頭の中から消した。
もう、こんな悲しい理由で誰も死なせない。
フシュ、フシュ、と糸車を回し、ぱちゃちゃ、と水音を立てながら糸をかせ上げる。
手順さえ守れば、作り手の心境なんて関係なしに虹に煌めく糸が紡ぎ上がっていった。
衝立の向こうのざわめきを心地よく聞きながら、明日からはこの時間ぐらいにスープをみんなで飲む――。楽しみな未来に口角を上げた瞬間。香ばしいような、美味しそうな匂いがして、咄嗟に裏口を見る。
すると奥からザギュギュ、ザギュギュ……と雪を踏み固める音がして……ひょっこりとベルトラムが顔を出した。
「ベルトラム?」
「へへ……おくさまぁ、任せてもらったのが嬉しくて、作っちゃいました」
熊のように大きな体を、迷い込んだ犬みたいに小さくしながら。
その手には木箱――保温のために色々なされた鍋があって、ほかほかと美味しそうな湯気を立てていた。
「あら……」
「あ! 明日から、って分かってたんですよ! だからほら、皆の為に屋敷からありったけの器持ってきたんで……明日の予行練習、てことで、ダメですかね……?」
せっかくどもらず、格好よく皆に説明できたのに。大した計画ではないけれど、計画が狂った。
これは人を歯車に例えがちな我が国においてあまり許されたことではない。
しかしここで追い返すなんてことも、人の道ではない。
わたしは、「まったくもう。仕方がないですね」なんて言いながら、笑顔でベルトラムを工房に招き入れた。
案の定「あれ? 今日からなの? 明日じゃないの?」という視線の中、マルタさんや――合流したエルザにも手伝ってもらって、皆を整列させてスープを振舞った。
工房の所々から立ち上る湯気、皆の安心したような笑い声。いつまでもふうふうと匙に息を吹き付ける子供たちの愛らしさ。
何事にも代えがたい充足感が、胸と腹に満ちていく。




