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最果てより、愛をこめて。  作者: すの
第四章:兆し
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22話 祈り


 倉庫の中は、相変わらず独特の香りで満ちていた。発酵した植物の酸っぱい匂いと、乾いた土埃のような空気。

 漬け込んで柔らかくし、秋に乾燥とスカッチングを終わらせた霜麻が、奥にうず高く積まれている。その手前に、逆さに打ち付けられた釘がにょきにょき生えている大きな梳き台があった。


 霜麻は――麻という植物は、叩いただけでは表面の木のような堅い部分は取れない。

 髪にそうするのと同じように、荒櫛(ハックリング)を固い不純物が取れるまで繰り返し、残った繊維につやが出るまでひたすら整繊(コーミング)するのだ。


 手前の一束を近くまで持ってきて、荒櫛用の太めの釘が付いた梳き台へ叩きつけるようにして梳いていく。

 左手で掴み、右手は添えるだけ。体を捻るように大きく動かして、ガツン、ズザザ、と木質の欠片が飛び散り繊維が引っかかるのもお構いなしに引っ張って……数十回も繰り返せばパシン、シュルル、と音が軽くなっていった。

 手ごたえが無くなる代わりに、麻束は驚くほど白く、すべやかになる。

 十数束の荒櫛が終われば、隣の梳き台――先ほどのものよりも釘の感覚が狭いもの――を使って仕上げの整繊作業に入った。


 掛けて、引き抜く。掛けて、引き抜く。

 先ほどまでの作業よりも力もいらない単純作業。


 外は曇り模様だった。けれど光が入るということは、雲が薄いということ。

 足の感覚が怪しいほど冷えているけれど、今日は夜まで雪が降ることは無いのかもしれない。

 天井付近にある窓から薄い光の梯子が下りていて、わたしが撒き散らした細かい繊維がキラキラと瞬いていた。


 掛けて、引き抜く。掛けて、引き抜く。 


 ――選ばれた今の私は、かつてないほどに強く、鋭敏だ――

 肩にわずかな銀を添え、石を宿しただけで――戦うための存在へ、生まれ変わったかのよう――。


 覚えるほど読み込んだ旦那様の手紙の内容が、頭の中に滑り込んでくる。

 想い人が選ばれ、そこで……一応、笑えている、らしいこと。

 それは妻として誇りに思うし、心から嬉しいと思う。

 戦場を「御しやすい」ともおっしゃっていた。想像するまでもなく壮絶なその土地で。

 その頼もしさに、わたしの旦那様は素晴らしい人なのだと、窓を開けて叫びたくなる衝動もわたしの中に確かにある。


 それでも――冬でもないのに二か月近く届かなかった手紙がようやく届いたのに――それでも、『嬉しい』の隣には常に小さな『不安』が付きまとう。

 コンメルタスで見た、命の果実水。あれが、戦場で使()()()()()()()()()()()()


 魔法に至るための錬金術。永遠に水と熱を吐き出し、疲れた兵士を一瞬で回復させる技術。

 わたしの大切な人は、どんな力を与えられてしまったのだろう。


 ――もうすぐ帰るよ、アナ。


 ぼやけた男の輪郭が、誰の声でもない低音で優しく囁く。

 誇らしい。その一方で、不安も拭えない。わたしはその声を妄想するだけで、胸の奥がぎゅっと収縮して息を止めてしまう。

 堪らない気持ちが頬を染める。こんなに寒い倉庫なのに、顔だけが熱かった。

 

 掛けて、引き抜く。掛けて、引き抜く。

 必死に整繊を繰り返しながら、早くお帰りになりますように。と光の梯子にずっと祈っていた。


………

……


 その日の夕方。山から下りてきた警備隊の一団の中のバルトさんとガウスさんを見つけ、丁寧にお礼をした。

 バルトさんにはこっそり危険手当として――あの薬草は、比較的近場とはいえ崖際にしか生えないから――手のひらに収まるサイズの、封蝋された小瓶を手渡した。中身は、屋敷の蔵に眠っていた強い酒精だ。

 商店でももう買えない、小瓶とはいえ薬と同義の酒に、彼は「奥様、そんな」と狼狽えていたけれど。それでも「これからもよろしくお願いね」と未来の分まで天秤に乗せれば、ようやく受け取ってくれて――子供たちと同じような、照れたような微笑みを見せてくれた。


 白い息を吐きつつ、山歩きで疲労がうかがえるけれど比較的元気そうなガウスさんは、わたしが声をかけるとニッコリ笑ってくれて――けれどわたしがまだ包帯を巻いていることに気が付くと「まだまだ肉を食わんといかん。ルーカスに早よ鹿を獲るよう言いつけたんだがね」と顔を傾けて心配してくれた。


「それで……奥様。その手じゃあ、まだ糸は紡げんな?」

「はい。そうなのです……出来るだけ早く、糸車を回したいのですが……」

「あぁ! 止めなされ、止めなされ。いいか。傷ちゅうんは癖になる。ほれ、俺の……ここを見ろ」

 

 そう言ってガウスさんはこんなに寒いのに袖をまくった。男らしい体毛に覆われた腕の中程には蚯蚓腫れになっている細長い傷跡がある。そのうちの半分は瘡蓋で覆われていて、傷自体は浅そうだけれど痛々しい。


「ッ見ました、あの、寒いですから仕舞って、」

「はは、こんなもんどうともないわい……ともかく。俺が言いたいのはだな。さっきの傷は、俺がガキんときに付いた針の引っかき傷だった。でも、場所が悪かったんか、力を籠めるとすぐ裂けちまう。中々治らんで……こんな歳になっても、まだ不意に裂けよるわい」

「そんな、……一体何年……」

 

 子供のころから、齢六十を超えてなお治らない傷――わたしが目を見開くと、ガウスさんは少し悪戯っぽく笑った。

 ……だから本当はどうなのか分からないけれど。けれども治りかけの瘡蓋を剥がし続ければどうなるか。とにかく早く、きちんと治ってほしい……。そんなガウスさんの心配はしっかりと届いた。


「だから、ちゃんと治るまで糸車には近づくんじゃない。在庫管理も俺がしっかりしてやるから。あの衝立の中に入るんじゃないぞ」

「ふふ。大げさですよ」

「大げさなもんかね。その、女子(おなご)なんだから、……いいな。無茶するんじゃない。」

「……はい。それでは、お言葉に甘えます」

「よぅし、いい子だ……ぁ、不敬だっ、でしたか。奥様。申し訳ない」

「ふふ。いいんですよ。いい子になろうと、つい最近心に決めたばかりなんです」


 男爵夫人の目の前で腕とはいえ肌を見せ、不敬度合いで言うなら結構な重罪な気がするけれど。

 でもわたしは、静かで張りつめた貴族の社交場とは違う、この村のお構いなしのコミュニケーションが大好きになっていたのだ。


 ガウスさんの言う通りにしていたつもりはなかった。でも整繊だけでも忙しく、どれだけ扱いても冬の間になくなるのではと思うと安心できない。何日も倉庫に直行し一日中籠ってひたすら整繊をして……だからそのあとの一週間、なんだかんだで衝立の中に入ることは無かった。


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