15話 積もる焦り
冬特有の、群青の夕方。どうして見えていたのかと思うほど、辺りは暗い。
「え、ええ。いいわ。報告してちょうだい」
今日の生産と、対価として渡した金額などがまとまった帳簿を手に持ったエルザは、わたしが立ちあがる前に衝立の中に入ってきて、紐でぶら下がったランプの光量を上げた。
そしてわたしの隣に立つ。寒いのもあるし、収支報告なんて大声でしたくないというのもあるのだろう。わたしは構うことなく、またペダルを踏む。
「まず今日の生産数ですが――」
今月のノルマと、そのために必要な束数、昨日の生産数と今日の生産数と……エルザの声が頭の中でずらりと並んでいく。その数字を足したり引いたりしながら「間に合うのか」「余分はできそうか」という内なる問いに答えを出していく。
エルザの結果報告も合わさって……わたしは相変わらず手の中の白糸の細さの維持に悪戦苦闘しながら、それでも了解の意味を込めてこくりと頷いた。そして、その計算が出てから判断しようと思っていた項目をエルザに問いかける。
「冬の配給分の備蓄はどう?」
――ああ、また麻束を引き出しすぎた……。
「予定通りです。問題ないかと」
「じゃあ――生産棟の薪の残量は?」
――ッ! 今度は少ない。今にも切れそうな糸がそのまま糸車に吸い込まれてしまった。
「その件は……すみません。確認しておきます」
「明日でいいわ、よろしくね……あ。共有井戸の藁巻きは?」
――なんてじれったい。どうしてうまく出来ないの。どうして、マルタさんみたいに繊維が揃わないの。
穏やかな言葉とは裏腹に、胸の奥にはどす黒い悔しさが溜まっていく。
「確か一昨日の予定だったと思うけれど。報告を受けていないわ」
彩雲糸を作り始めてもうすぐ十日になる。
それなのにいつまで経ってもこんなに下手じゃ、領地を守れない。皆を飢えさせてしまう……ふと、エドワード様の震える背中を思い出す――それから、姉さまの期待を裏切りたくないと焦って――。
領地と領民を守る。
戻られた旦那様に、「おかえりなさい、リアン様」と胸を張って言えるよう頑張ると決めたのに――!
扱く指に、ペダルを踏む足に力が入る。
どんどん前のめりになっていることにも気づかずに……今思えば必然として、それは起こった。
「はい。それにつきましては、――奥様ッ!!」
「――あ、」
気が付いた時には、やかんの口の真正面に指先があった。
糸を持つ親指と人差し指。それから輪になった手のひらにぶわりと蒸気がぶつかって……焦りで引き延ばされた時間の中。
わたしは確かに、皮膚の内側を通る血液が瞬間的に沸騰するようなボコボコとした衝撃を感じた。
視界が白く明滅して――手についた蒸気が冷えたのだろう。ほんの一瞬冷たかったけれど――その後。
手が、指先が、自分のものではない巨大な熱塊になったかのような錯覚を覚える。
いつも根性で堪えている反射は今回もきちんと働いてくれたけど、それはあまりに遅すぎた。
咄嗟に引き寄せた指先は真っ赤になって、びくり、びくり、と、血が通るたびに死にかけの川魚みたいに震えている。
「奥様!!」
爛れた手を、何も考えずにぼーっと眺めていた。するといきなり体が揺れて、指先が膨張したみたいに痛く、熱くなる。エルザに火傷した方の手首を掴まれて、少し血が集まったのか――部屋の隅にある彩雲糸用の大桶まで引っ張られて……。気が付いた時には、エルザの腕ごと極寒の大桶に突っ込まれていていた。
「あ。あ、ごめ、えるざ」
「、大丈夫です。奥様、あとで薬を塗りましょう」
エルザはわたしよりずっとしっかりしていて、甘やかさない姉みたいな人だ。
わたしがまだずっと幼かったころ――社交のレッスンでミスしたときに慰めてくれたのと同じように、隣に座って肩を抱いて、頭をくっつけて必死に慰めてくれている。
固い床に膝を付き、切り刻まれたみたいに痛むはずの冷水に、わたしと一緒に手を突っ込んで――。
「ね。大丈夫、大丈夫ですからね」
恐らく私が泣くと思っているのか、それ用の優しく柔らかな言葉を――まるで自分が怪我したかのように矢継ぎ早に唱えている。
けれどわたしはそれらを正確にとらえ、感謝することができていなかった。
頭の中には熱を帯びた耳鳴りばかりがあって……思うのは、今日はもう出来ない。明日は何束作れるだろう。という絶望で塗りたくられた暗い予想ばかりだった……。




