12話 西の果て
アナスタシアの祈りが向けられた西の果て。
そこでは、血よりも昏い紅に染まった戦場を、一人の男が文字通り〝命〟を粉砕しながら突き進んでいた。
皇国軍が誇る重作業用歩行潜甲――敵国語で『ゾズィア・レグラン』、王国語で『穿甲機』と呼ばれる機械兵器が、地平を埋め尽くすように面制圧の陣を敷いている。
深海の凄まじい水圧に耐えるべく設計されたその装甲は――かつての王国軍であれば、歩兵や騎馬が束になっても傷一つつけられない絶望の象徴だった。
しかし地上へ引きずり出されたその巨体は、泥を掻く姿が滑稽なほどに鈍い。
王国兵たちはいつしかそれを、皮肉を込めて『鉄蟹』と呼ぶようになっていた。
その鉄蟹の群れの中を、丈の長いフードで身を隠した複数の「影」が、獣の速度で疾駆する。
王国の放った『新兵器』にとって、敵の自慢する厚い装甲は中身の詰まった缶詰とさして変わりはない。
影の一人は泥濘をもろともせず跳躍し、一機の鉄蟹の頭部に食らいつく。
特殊な膂力が宿る尖った指先を装甲の隙間にねじ込み、強引にハッチを引き剥がした。
金属が悲鳴を上げ、剥き出しになった操縦席へ――驚きと恐怖が詰まったその首元に、トレンチナイフを突き立てる。
隣接していたもう一機が、動かなくなった味方機ごと男を叩き潰そうと巨大な鉄腕を振り上げた。
だが、その腕が振り下ろされるよりも早く、男は脇下を走る蒸気パイプを素手で引きちぎっている。
「――ッ!」
噴出した高圧の蒸気を、身を翻してかわす。
視界を遮る白煙の中。退路上にいた敵歩兵を彼は駆け抜けざまに処理した。
ナイフが脇腹を切り裂き、鼻腔を濃い血の匂いが突き抜ける。
フードの中が歪に蠢く。男は肩を押さえたあと、頬についた血を手のひらで雑に拭おうとして……けれどべたつくそれはただ赤の範囲を広げただけだった。
鉄蟹の陣列に、ドミノ倒しのような動揺が広がっていく。
敵兵たちは――あまりに小さく、あまりに速い死神を包囲すべく、二機の鉄蟹を前進させた。
一機が深海の岩盤さえ粉々に砕く重厚な腕を、凪ぎ払う勢いで振り回す。
蒸気と油圧によって加速されたその一撃は、常人の反射神経では回避不能な速度に達していた。
やった――。
必殺を確信し、敵操縦士の口角が上がる。
その瞬間だった。
――ガゴォン!と、凄まじい衝撃音とともに、操縦席の中で鮮やかな赤い花が咲いた。
後方、約八百メートル地点からの――王国が誇る星読みと錬金術の粋を集めた――長距離狙撃。
男は、敵が腕を振り抜く直前の、弾丸が空気を切り裂く高音の風切り音を聞いていた。
彼がわずかに身を引き、回避したその隙間を、味方の弾丸が寸分の狂いなく突き抜けたのだ。
残されたもう一機が、相棒を失い硬直する。
だが、その男に次なる疑問を抱く時間は残されていなかった。死神はすでに、その機体の小窓に指をかけている。
彼が手をかけた瞬間、ナイフによって相手が相棒と同じ結末を迎えることは、もはや確定した事実だった。
血と脂で汚れたナイフの刃が、硬い装甲を削った拍子に呆気なく折れた。
男はそれを躊躇なく投げ捨てる。代わりとして、沈黙した鉄蟹の側面に備え付けられていた歩兵用の長柄斧をひったくった。
もとはと言えば、潜入してきた歩兵を叩き落とすための防衛用武装だ。
重く取り回しの悪いその凶器も、彼の腕にあれば羽毛のように軽快に唸りを上げる。
戦場はもはや軍隊同士の衝突ではなく、フードを被った数人の不気味な影によって一方的な解体作業場へと変貌していた。
男が駆ければ、後方の狙撃手がその軌道を王立天体審理府仕込みの高速計算で補完し、進路上の障害を精密射撃で排除する。その連携に言葉は不要だった。ただ、弾丸が空気を切り裂く高音だけが、彼の鼓膜を心地よく震わせる。
――ああ、なんだ、これは。
男は思う。心臓が、信じられない速さで脈動していた。
視界は異常なほどに鮮明。飛び散る泥のひと粒、敵兵が放つ銃弾の軌跡、爆発の炎のゆらめき――そのすべてが緩やかに流れて見える。
嗅覚はさらに研ぎ澄まされ、火薬の焦げた匂いと、新鮮な血の鉄臭さが、かつてない芳醇な香りとして鼻腔を抜けていく。
それは――愛馬に跨り騎馬をしていた時に感じていた慢性的な恐怖、それによる不快な興奮ではなかった。
生涯経験したことのない、純粋で残酷な高揚――。
「は、はは、」
喉から漏れ出たのは、人間の言葉ではない。獣の咆哮に近い――愉悦を孕んだ笑い声。
周辺の機械兵器を無力化されて、それでも撤退は許されない敵歩兵が、口端に泡を溜めながら何か叫んでいた。
男にとって酷くゆっくりと、正面から突き出された数本の銃剣。
重なり合うそれらを長柄斧の一振りでまとめて撥ね飛ばす。
勢いそのままに石突で敵兵の胸を突き崩し、返りの刃で首を刈り取った。
一歩踏み出すごとに、泥が赤く染まる。
一振りごとに、鉄の塊が、肉の塊が、ただの物体へと成り果てる。
壊していいのだ。この、忌々しい鉄蟹も、自分を〝怪物〟と見て震える者たちも。
ここではすべてが許されている。王国の勝利という大義名分のもと、彼はただ頭の中に満ちる破壊の衝動を、その鋭い爪と牙――もとい、武器へと預ければよかった。
その高揚の絶頂で、男の脳裏に一瞬、艶やかな黒髪が浮かんだ。
雪によく映える黒。シンプルに編み込んでまとめ上げていた。その細いうなじ。
皮肉なことに、戦場に来てから愛するようになった妻。
……ああ、私は今、すごく……。
自分は今、かつてないほど「生きている」と感じている。
誰かを守るためではなく、ただ壊すことに心酔している自分。
その事実が、狂おしいほどの喜びとともに、底知れぬ嫌悪感を同時に連れてくる。だが、戦場はその矛盾を考える余裕すら与えてはくれない。
皇国軍の歩兵大隊が、死兵となって突撃してくる。
彼らは叫んでいた。神へ、あるいは皇帝への忠誠を。
男はそれらを、文字通り紙を破るようにして蹴散らした。
手にした斧が敵の盾を砕き、肉を断ち。やがて柄が折れれば――今度は落ちていたサーベルを。
それも脂で滑るようになれば捨てて、男はその拳を固く握りしめた。
鉄蟹の列はもはや見る影もなく、炎上する残骸が不格好な墓標のように並んでいる。
周辺にいた敵兵のあらかたを片付け、周囲に動くものがなくなった頃……戦場には妙な静寂が訪れていた。遠くで響く砲声だけが、ここが地獄の続きであることを教えている……。
やっと動きを止めた男は、思い出したかのように血を滴らせる両手を見つめた。
全身を包む熱はまだ引いていない。
むしろ――もっと、もっと壊したいという飢餓感が、腹の底で渦巻いている。
その時、ヒュゥゥッ! と、戦場の騒音の隙間を縫って高く細い音が響いた。
人間には聞こえるか聞こえないかの、超高周波。王国の――男の上官が使う、特殊な犬笛の音。
「…………」
その音を聞いた瞬間、死神の瞳に灯っていた黄金の狂熱が、すっと引いていった。
それは撤退の合図であり、同時に兵器としての帰還命令だ――と、特殊条件下で超活性させられていた本能の隙間で理性が囁く。
作戦終了。戻らなければ。
高揚は急速に冷めていき、代わりにひどい疲労と、吐き気を催すほどの血の匂いが彼を襲う。
さっきまで芳醇だと感じていた香りは、いまや鼻を突く死臭でしかなかった。
男は地面に転がっていたフードを拾い上げ、深く被り直す。
まるで、自分のしでかした惨劇を、自分自身の目から隠すかのように。
彼は戦果を確認することもなく、ふらふらと足をもつれさせながら歩き出す。
あとに残されたのは、かつて鉄蟹と呼ばれ恐れられた鉄の残骸と、泥に混ざり合った無数の命の欠片だけ。
この日。王国の新兵器――のちに第九旅団付属・特務作業班と呼ばれる隠密強化部隊が積み上げた戦果は、王国の想定をはるかに超えていた。
わずか数名の新兵器によって、皇国の誇るゾズィア・レグランで編成された一個小隊は文字通り全滅。歩兵大隊の戦列は再起不能なまでに蹂躙され、その凄惨な死に様は生き残った敵兵たちの精神を永久に閉ざした。
王立天体審理府の観測員が淡々と記した『作戦成功』の四文字。
その裏で、数十の命を高揚のままゴミのように処理し――今は泥濘のなかで独り、吐き気に耐えながら走る男がいた。
血まみれで戦場を駆ける男の名は、ジュリアン・ヴァルデリウス。
アナスタシアが「健やかであれ」と願った、彼女の愛しき伴侶、その人であった。




