奇跡なんて簡単に起きるわけない
「ミヤビ、今回もまだ後ろにいて。慣れるまでそれでいいから」
はっと、息が止まった。
鼓膜を震わせたのは、聞き覚えのある硬い声。
目の前に立っていたのは、モミジだった。彼女の瞳には、見慣れた、そしてつい先ほど失われたはずの深い疲弊の色が宿っている。
「……っ、あ、え……」
「どうしたの? 顔色が悪いけど……」
モミジが怪訝そうに眉を寄せる。
ミヤビ……大雅は、自分の両手を狂ったように見つめた。
ある。左腕がある。指を曲げれば、自分の意思通りに十本の指が動く。ドレスの袖は引きちぎられていないし、黒と赤のフリルは風に小さく揺れているだけだ。
左目をそっと触る。溢れ出ていたドロドロとした黒い液体も、脳を直接殴打するようなあの激痛も、すべてが嘘のように消え去っていた。
(過去に……戻った……?)
確かに戻ったのだ。あの地獄のような全滅の瞬間の、数分、数秒前。怪人が出現し、魔法少女たちが飛び込んでいく、その直前の静寂へと。
ガチガチと、奥歯が勝手に音を立てて震えだす。
過去に戻れた安堵よりも、先ほど味わった死の恐怖が、細胞の一つ一つに刻み込まれたかのように大雅の肉体を支配していた。心臓が早鐘を打ち、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。
腕が千切れる感覚。目が潰れる衝撃。仲間たちが一瞬で肉塊に変えられた、あのぐちゃりとした視界。
脳が拒絶反応を起こし、膝ががくがくと震えて力が入らない。
「戦闘、始まるよ。位置について!」
いつの間にか大雅は木の後ろに隠れていて、リフトは裂け始めていた。モミジが鋭く叫び、他の魔法少女と共に前方へと身を躍らせた。
大雅は、冷や汗でじっとりとしたステッキを握りしめたまま、辛うじて立ち上がった。
(逃げちゃダメだ。ここで後ろに隠れていたら、またみんな死ぬ。俺も死ぬ。あの経験を、無駄にしてたまるか……!)
必死に自分を奮い立たせ、大雅はモミジに指示された木の陰から、気配を殺して這い出た。せめて、少しでも彼女たちの後ろに立ち、何が起こるのかを把握しなければならない。
その瞬間、大雅の視界の端に、ノイズ混じりの半透明なウインドウがパチパチと音を立てて出現した。
『システムエラー:因果律の不整合を検知』
『これより、現在の時間軸を基点としてセーブしますか?』
【はい】 / 【いいえ】
文字が、バグったように点滅している。
セーブ。これはゲームの機能なんかじゃない。自分の命を、この絶望の瞬間に縛り付けるための、呪いの針だ。
大雅は残った右腕、いや、今はまだ無事な右手を伸ばし、狂ったように【はい】の文字を押しつぶした。
『セーブしました』
その直後、視界の先で、リフトがバキィッと凄まじい音を立てて引き裂かれた。
そこから、あの紫色の不快な液体が、雨のように周囲の草木を濡らしていく。
「グルアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
地を割るような咆哮。いくつもの人間の腕が複雑に絡み合った異形の怪人が、重厚な金属音を響かせて暴れ狂う。
一回目の時間軸と、全く同じ光景。
モミジたちが叫び声を上げながら突撃していく。
(今度こそ……今度こそ、俺が止める……!)
大雅は物陰から飛び出し、怪人の背後に向けてステッキを突き出した。
あの時、枢木に強制された、あるいは期待に応えるための台詞ではない。大雅自身の執念を込めて、魔力を練り上げる。
「当たれえええええええ!!」
指先から、真っ赤な炎が爆発的に膨れ上がる。しかし、それは大雅の叫びとは裏腹に、怪人の強固な外皮に届く前に霧散した。
威力が足りない。それどころか、突然放たれた不発の魔法は、怪人の注意を完全に大雅へと向ける結果となった。
「え――」
怪人の巨大な、無数の腕が一斉にしなる。
世界から音が消える。
直撃。
今度は、胸部が陥没する音がした。
「がはっ……!」
骨が砕け、肺が破れ、口から大量の鮮血が噴き出す。地面を転がりながら、大雅は壊れたウィンドウに向かって、血塗れの指を伸ばした。
(戻れ……っ、戻れ……!!)
パチン、と視界が弾ける。
「ミヤビ、今回もまだ後ろにいて。慣れるまでそれでいいから」
モミジの声。
大雅は地面に膝をついた。喉の奥に、先ほど吐き出したはずの血の味がべっとりと残っている。
ハァ、ハァ、と過呼吸気味に息を吸い込む。
「ミヤビ? 本当に大丈夫?」
「だい、じょうぶ、です……っ」
声が震える。
今度、大雅は攻撃を仕掛けるのをやめた。まずは敵の動きを、あの全滅をもたらした一撃の正体を見極めなければならない。
リフトが割れる。紫の液体が飛び散る。怪人が吼える。
モミジたちが突っ込んでいく。
大雅は木の陰から、凝視した。怪人のどの腕が、どのように動いて、彼女たちを肉塊に変えたのか。
一際巨大な右側の腕の塊が、不自然に膨張する。
(あそこだ!)
その腕が振り下ろされる瞬間、大雅はモミジに向かって叫んだ。
「モミジさん、右!! 上から来ます!!」
「えっ!?」
大雅の声に反応し、モミジが間一髪で身を翻す。凄まじい風圧と共に、モミジがさっきまでいた地面が陥没した。
一回目、成功。モミジを救えた。
しかし喜んだのも束の間、怪人の別の腕が、大雅の死角から鞭のようにしなって飛んできた。
避ける間もなかった。
今度は、下半身が千切れ飛ぶような衝撃が全身を貫いた。
「あああああああああああああああああ!!!!」
肉を咀嚼されるような音を聞きながら、大雅は涙と血に塗れた目で、またウィンドウを叩いた。
パチン。
「ミヤビ、今回もまだ後ろにいて。慣れるまでそれでいいから」
頭が割れそうだった。過去に戻るたびに、死んだ時の記憶と衝撃が脳内に蓄積されていく。
三回目。大雅は、モミジへの指示を出しつつ、自分の死角をカバーする動きを取った。
モミジは避けた。大雅も、迫り来る腕を紙一重で躱す。
しかし、今度はモミジが、怪人の吐き出した紫色の体液を浴びて、皮膚をドロドロに溶かされながら絶叫した。
「いやあああああああああああああ!!」
「モミジさん!!」
助けようと踏み出した大雅の頭上から、押しつぶすような質量が降ってくる。
パチン。
「ミヤビ、今回もまだ後ろにいて――」
四回目、失敗。五回目、失敗。六回目、七回目、八回目……。
何回目か、もう数えるのも忘れた。
大雅の精神は、急速に摩耗していった。
怪人の動きは、少しずつ見えてきている。一回目の攻撃はこう、二回目はここ、三回目はあの角度から体液を飛ばしてくる。それをすべて頭に叩き込み、自分と、そして先輩たちの動きをパズルのように組み替えていく。
しかし、完璧に躱したと思っても、ほんの数センチの足の踏み込みの差で、誰かが死ぬ。あるいは、自分が死ぬ。
魔法少女のドレスは綺麗なのに、その内側にある自分たちの肉体は、あまりにも脆く、簡単に壊れて、肉の塊となる。
「う、ぷ……ッ、あああぁ……!!」
十回目を数えた、その戦闘の直前。
モミジに声をかけられた直後、大雅はたまらず木の陰に駆け込み、胃の中のものをすべてぶちまけた。
吐くものなど、もう何もないのに、胃液と血の混ざった苦い液体がボタボタと口から溢れる。
全身がガタガタと震えて、ステッキを持つ右手が自分のものじゃないみたいに感覚を失っていく。
「ミヤビ……!? あなた、本当に体調が……」
「触ら、ないで……っ! 大丈夫、だから、大丈夫……っ」
モミジの手を拒絶し、袖で乱暴に口元を拭う。
死ぬのが怖い。痛いのが怖い。
さっき、自分の首が真後ろに折れた時の、あのゴキリという音と、視界が天地逆転した恐怖が、まだ網膜の裏側に張り付いている。
けれど、ここでやめたら。
ここでそのまま死を受け入れたら。
妹は、どうなる。
先輩たちは、自分たちは、魔法少女を正義だと思っている国民は、この世界は。
あの海が見える場所で、二人で暮らす約束は、誰が果たすんだ。妹は幸せになれるのか。
運営の道具として、ただ消費されて、すり潰されて死んでいくだけの人生なんて、俺は絶対に認めない。
「……もう一回だ。何回だって、やってやる……!」
大雅の瞳から、完全に感情が消え失せていく。
代わりに宿ったのは、狂気にも似た、執念の光だった。
十五回目。
怪人の右腕の重撃をモミジに回避させ、同時にモミジを背後から突き飛ばして紫の体液から遠ざける。
二十回目。
別の一人が怪人に捕らわれるのを、大雅は魔法を使ってヘイトをこちらに向けさせて相殺した。
「ミヤビ……あなた、どうしてそんな動きが……っ」
黄色の髪の少女が驚愕の声を上げる。当然だ。彼女たちにとっては初めての戦闘の、開始数十秒の出来事。しかし、大雅にとっては、すでに何時間も、何十回も戦い続けている、見飽きた戦場なのだから。
三十回目。
敵の攻撃パターンは完全に頭に入った。
どこに立てば当たらないか、どのタイミングで誰に声をかければ全員が生存できるか。その完璧なルートが、大雅の脳内で一本の細い光の糸のようにつながり始める。
しかし、大雅自身の体力が保たない。
大雅の魔法少女としての肉体は、戦うたびに、ループを繰り返すたびに、内側からミシミシと軋み音を立てていた。
四十回目。
ついに、怪人の動きが完全に止まる瞬間を見切った。
すべての攻撃を躱しきり、怪人が次の咆哮を上げるためのタメを作る、わずか三秒の隙。
そこに、残ったすべての魔力を叩き込めば、勝てる。
だが、その瞬間、大雅の身体の感覚がふっと消えた。
魔力の過剰な行使と、何十回もの死のフィードバックによって、脳の伝達回路が焼き切れかけていた。
ステッキを構える腕が、言うことを聞かない。
「……あ」
隙を見せた大雅の胸部を、怪人が容赦なく貫通した。
パチン。
「ミヤビ、今回もまだ後ろにいて――」
四十五回目。
大雅はもう、モミジの声に返事すらできなかった。
ただ、機械のように立ち上がり、木の陰から出る。
口の端からドロリと漏れる、黒い液体。
それは、過去に戻っても完全に消えなくなっていた。大雅の人間としての、そして魔法少女としての境界線が、ループの代償によって急速に崩壊している証拠だった。
自分の名前すら、時折思い出しにくくなる。
(俺の名前は、なんだっけ。……ミヤビ、いや、違う。俺は……そうだ、大雅だ)
ただ、必ず覚えているのは、世界を、妹を救うという本能だけ。
四十九回目。
完璧な立ち回りだった。
怪人の攻撃が空を切り、紫の液体は誰にも触れずに地面の草木だけを溶かしていく。
「アキさん、伏せて! モミジさん、そのまま右へ三歩!!」
大雅の、しゃがれた、少女のものとは思えないほど冷徹な声が森に響く。
二人は大雅の指示通りに動いた。怪人の放った最大の猛攻が、虚空を激しく穿つ。
完璧な隙が生まれた。
大雅は、残ったすべての力を、その華奢な両腕に込めてステッキを突き出した。
「今だああああああ!」
大雅の絶叫とともに、ステッキの先端から、これまでの頼りない火種とは次元の違う、禍々しいまでの黒い炎が噴射された。
それは光を吸い込むような暗黒の劫火。
怪人の巨大な身体が、4人が放った魔法とその炎に包まれた瞬間、音を立てて炭化していく。腕の塊が、ボロボロと崩れ、風に溶けて消えていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
静寂が、森に戻ってきた。
怪人は、完全に消滅した。
全員がほぼ五体満足で、息を切らしながら突っ立っている。誰も死んでいない。誰も、傷ついていない。
「嘘……ミヤビ、あなたが、やったの……?」
モミジが、信じられないものを見る目で大雅を見つめる。
安堵と、そしてどこか恐怖の入り混じった表情で、お互いの手を繋ぎ合おうとしていた。
全員が無事だった。大雅が求めた、完璧なハッピーエンド。
「……あ」
しかし大雅は、その場に一歩も踏み出すことができなかった。
彼女たちの周囲には、戦いを生き延びた、幻想的なまでの魔法の輝きが満ち溢れている。
けれど、大雅の足元にあるのは、怪人を焼き尽くした黒い煤と、紫色の液体だけだった。
彼女たちは、手を繋ぎ合い、涙を流しながらお互いの生存を称え合っている。
その光り輝く天国の輪の中に、大雅の居場所は、どこにもなかった。
大雅が立っているのは、何十回もの死の記憶に塗れた、底なしの地獄の側だ。ガラス一枚隔てた向こう側の光を、ただ血の気の引いた顔で見つめることしかできない。
世界を巻き戻し、運命を書き換えた。
けれど、その代償として、大雅は完全に人間からも、魔法少女からも、遠く離れた化け物へと、一歩足を踏み入れていた。
孤独だ。
ふと、大雅の後ろの影が、不自然に揺れた。
あの白い光はどうなったのだろう、と大雅は空を見上げる。




