いつ死んだんだっけ、沈め
数週間が経過した。
魔法少女になってからの生活は、皮膚にこびりついた泥のように、洗っても決して落ちることはなかった。
朝、鏡の前に立つ。そこにはよく知った男の顔がある。しかし、それが自分であるという感覚は、日に日に希薄になっていった。
SNSで魔法少女ミヤビについて検索する。それは、自分という存在がまだ世界に繋ぎ止められているかを確認する、唯一の、そして最も有害な自傷行為だった。
『ミヤビちゃん、MV以降音沙汰ないけど』
『運営の出し惜しみかよ。早く実戦で見たい』
『あの儚い感じ、今の魔法少女に足りないものを持ってるよね』
画面の向こうの、顔も知らない誰かの期待という名の呪い、大雅はそれを、毒だと知りながら飲み込み続けた。自分が魔法少女として完璧に振る舞えば、妹の安全は保障される。運営は申し訳ないと言いながら、実際は大雅が魔法少女としてどれだけ価値を生むかしか見ていない。
「……いつか、こうなるのは分かってた」
メッセージが来ているスマホを消し、大雅は立ち上がった。
ついに、また戦闘に駆り出される日が来た。
◆◆☆◆◆
現場は、手入れのされていない森だった。
錆びついた鉄塔が、黄昏時の空を墓標のように突き刺している。潮の匂いが鼻をつく。胸の奥が少しだけ痛んだ。
「ミヤビ、今回もまだ後ろにいて。慣れるまでそれでいいから」
魔法少女のショートカットの少女……モミジが、厳しい表情で告げる。彼女は前回、ミヤビのために運営に食ってかかってくれた少女だ。彼女たちの瞳には、やはり疲弊の色が濃い。
「……ありがとうございます」
ミヤビは頷き、木の陰に身を潜めた。
戦闘が始まる。
リフトがばき、と音を立てた。そのまま高速で空に広がっていく。そのたび紫色の液体が草木を濡らした。
耳をおさえたくなるような咆哮。今回の怪人は、これまでのものとは格が違った。巨大な、いくつもの人間の腕が複雑に絡み合ったような、生理的嫌悪感を催す異形だ。それが重厚な金属音を立てて暴れ回る。
アキを含む4人の魔法少女が飛び込んでいく。
爆音。火花。絶叫。
誰かのステッキが折れて、ミヤビのところまで飛んできた。
スマートフォンが震える。本部からかと思って開くと、なぜかSNSの通知だった。震える手でそれをタップする。SNSのトレンドには、既に現場の動画がアップされていた。
『ミヤビはどこだ?』
『戦ってないじゃん。やっぱり偽物か』
『期待はずれ。あんな綺麗な顔して、結局どこかで見てるだけかよ』
……行かなきゃ。
脳裏に、枢木の「君が世界を救うんだ」という声が響く。妹の笑顔が、ノイズ混じりに再生される。
ミヤビは、安全な物陰から一歩、外へ踏み出した。
「私は、誰かを……幸せにしたい」
空虚な台詞を呟きながら、ステッキを握りしめる。
その瞬間だった。
「……え?」
魔法少女は、一人を除いてみんな倒れていた。例外である黄色の髪の少女は、ただ真っ赤だった。地面に膝をついていた。
みんなミヤビのほうを向いていた。みんなぐちゃぐちゃだった。誰なのか判別できない少女が、ミヤビに向かって『逃げて』と言ったような気がした。
黄色い髪の少女の叫び声が聞こえたのと、世界が音を失ったのは同時だった。
鈍い、肉が潰れるような音。
ミヤビの視界は真っ黒に染まった。
左目に、焼けるような熱さが走る。いや、熱いのではない。何かが、ドロリと溢れ出している。それは涙ではなく、眼球の奥から噴き出した、得体の知れない黒色の液体だった。
「ぁ……あ……?」
感覚が消失し、地面に叩きつけられる。
信じられない光景が視界に入った。
とてつもない違和感、自分の左腕があるはずの場所には、何もなかった。
ドレスの袖が引きちぎられ、そこにあるべきはずの白い細腕が、根本から消失している。断面からは、赤と、何かが噴き出していた。
特徴的だった片方のツインテールも、衝撃で根元から焼き切られている。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい」
遅れてやってきた激痛が、脳を直接殴打した。
かつて経験した書き換えの痛みさえ温情に思えるほどの、純粋な破壊。
人間としての器官が損なわれ、同時にミヤビという存在も崩壊していく。
「あ、あああ……っ!」
残った右腕で地面を這う。
怪人が、ゆっくりと歩み寄ってくる。最後の一撃。それは、この苦痛から解放されるための希望にしか見えなかった。
(……これで、終わるのかなあ)
視界が白濁していく。
怪人の巨大な拳が振り上げられたその一瞬、走馬灯のように、記憶の断片が溢れ出した。
あの日の決意。
誰かに称賛されたかった。誰かに認めて欲しかった。褒められたかった。頑張ったねと言ってほしかった。
妹を幸せにするという自信。
あの日、妹と交わした約束。
「海が見える場所がいいな」
「約束だよ」
まだやっていないことがたくさんある。
妹と一緒に、美味しいものをたくさん食べたかった。
誰にも邪魔されない場所で、ただの兄妹として笑い合って暮らしたかった。
たまには、気まぐれでもいいから、一瞬でもいいから、誰かに愛してもらいたかった。
自分の人生を、こんな場所で、こんな展開で終わらせてたまるものか。
(戻れ……戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ……!過去に戻れ!)
こんなときに戻れなくて、何が過去に戻れる魔法だ。
大雅は、残った右目で、空に浮かぶ壊れたウィンドウを睨みつけた。
システムが、バグを起こしている。
魔力の核が、限界を超えて明滅する。
こんな結末、俺は認めない!!!
その瞬間、耳の奥で、優しくて懐かしい子守唄が聞こえた気がした。
母親の歌声ではない。もっと根源的な、自分を肯定してくれる温かな響きだ。
視界から色が消え、すべてが真っ白な光に包まれる。
全身を苛んでいた激痛が、スッと引いていく。
冷たい草の感触が、柔らかくて、温かい布の感触に変わっていく。
頬をなでる、穏やかな潮風。
鼻をくすぐる、お日様の匂いがする洗濯物。
「……たいがくん、おきて」
誰かが呼んでいる。
自分を、ミヤビではなく大雅と呼ぶ声。
目を開けると、そこには眩いばかりの青い空が広がっていた。
しかし、その視界の端には、今まで見たことがないくらい綺麗な女の人が立っている。
白いワンピースがまっすぐな黒髪に映えているとか、スタイルが良いとか、顔が見えないとか、そんなことは全く関係ない。この人はやわらかくて、泉の透き通った水みたいで、自分が生まれた理由だった。
彼女は泣きそうな笑顔で、大雅の残った右手を、そっと包み込んでいた。
「よく頑張ったね」
その声が、静かに脳裏に響いた。
……世界が、巻き戻り始める。
それは救済か。それとも、更なる地獄の始まりか。
大雅は、真っ白な光に包まれながら、深い意識の底へと沈んでいった。




