ながい夢のはじまり
大雅はいつの間にか、病院のベッドの傍に立っていた。目の前には母と、小さな命。その場にいる、というよりも、別の誰かの視点で一緒に行動しているようなイメージだ。
看護師さんに薦められて、義父が恐る恐る小さな命を抱く。大雅はそれを、自分がここにいることに申し訳なく思いながら笑顔で見ていた。
「お兄さんもどうですか?」
「え?いや、俺は……」
「抱いてあげて」
母が弱々しく言った。それにつられるよう、大雅は頷く。そして、赤ん坊をゆっくりと腕に抱いた。
肌が柔らかかった。
これが生命の起源であり、生気のない顔で電車に乗るサラリーマンも、理不尽に怒鳴る教師も、馬鹿みたいに失敗する自分も、みんな最初はこうやって誰かに慈しまれていたと思うと、胸が詰まるようだ。
純粋な水源、静かな森、太陽のきらめき。そのどれもが似合う。
母も、義父も、その目は赤ん坊に向いている。大雅はその視界に一ミリも入っていない。
大雅は赤ん坊を抱く手に力を込めた。
この子は、大切にしようと決意した。見返りはいらない。この純粋な命を愛して、愛して、そうしたらもう忘れてしまった感情を思い出せるのだろうかと思った。
地球で一番、幸せな子にする、大雅は一人でそう思う。
「この子の性別は?」
大雅がそう尋ねる。
「大雅くんの妹です。名前は―――」
名前のところは、ノイズになって聞こえない。
「―――」
「そうです」
妹の名前を呼びたい。そう念じると、他者には伝わるようだった。
ズキ、と頭が痛む。
景色が変わる。寝室のようだ。
「―――、お兄ちゃんと一緒に寝る」
「ええ……」
母の困った顔がこちらに向けられる。ああ良かった、未来で自分は、家族四人で暮らせているのか。
布団の中で、妹は饒舌に喋る。
「わたしね、今日幼稚園の先生にほめられたの!走るのがはやいねって」
「そっか。―――はすごいね。頑張ったね」
「うん!」
その笑顔を愛しいと思った。
また、景色が変わる。
妹は小学1年生になった。妹は赤いランドセルを背負って、大雅は高校三年生になった。
家に帰ると、妹が息を切らしながら大雅に駆け寄ってくる。
「あのねっ、これ、四葉のクローバー!」
「わ、すごい!よく見つけたね」
「あのね、あのね、四葉のクローバーを見つけたら幸せになれるって聞いた!私の幸せはお兄ちゃんにあげようと思って、だから、お兄ちゃんにあげたくて……」
「本当に?お兄ちゃんに?」
「うん!」
「ありがとう。でもクローバーは―――が持ってて。気持ちだけ、受け取っておくから」
妹は笑っていた。彼女の幸せを、自分にくれると。大雅は報われたような、心に光が灯ったような気持ちで、泣きそうになった。
なのに、ぎゅっと胸が痛む。この後は不幸だと、まるで悪魔が笑っているような。
頭がズキ、と痛む。もうやめろよ、と大雅は叫びたくなる衝動を抑えた。このまま幸せな日々だけ見せて欲しい。もう怖いのは嫌だ。辛いのは嫌だ。
夜であった。
街灯の儚い光が、大雅の足元を照らす。
公園のブランコに、大雅は座っていた。この公園には大雅一人しかいない。なのにずっと騒がしく感じる。
母と喧嘩して、家を追い出されたのだ。この頃母は気性が荒い。でももうすぐ帰らなけらばならない。そうしたら、きっと機嫌のよくなった母が、何事もなかったかのように大雅を家に入れてくれるのだろう。
肉体の主ではなく、未来に来た大雅はその背景を瞬時に理解する。冷たくなってきた風が大雅の体をわずかに震わせた。
「あれ?貴方、こんな時間に一人でどうしたの」
大雅はゆっくりと顔を上げる。そこには、大雅と同じ年くらいの少女がいた。
「あ、いや……ちょっと一人になりたくて」
「ふうん」
少女は黙って大雅の隣のブランコに座る。しばし沈黙の時間が流れた。
「……私ね、今日嫌なことがあったの。頑張ったのに、失敗して。たくさんの人に、失望の目を向けられた」
「それは……辛いね」
「そう、とっても辛い!でもそれが私の使命だから、我慢しなきゃいけないんだ」
少女は明るく笑った。そして、ブランコをこぎ始める。
「貴方も辛そうな顔してる。私もずっと一人だから、つい声かけちゃった」
大雅は何も答えなかったが、少女につられるように、ブランコをこぎ始めた。
「……毎日、何かが欠けている気がするんだよ。大切なものはできたけど、一歩踏み出すきっかけがないというか」
「へえ、私と似てるね」
少女は地面を蹴った。それに合わせて、ブランコも大きく揺れる。
風を受けて笑う彼女は、とても眩しい。
少女が、鎖から手を離した。え、と声を出す大雅とは対照的に、少女はそのままくるりと回って砂の上に着地した。
大雅は本能的に立ち上がる。少女は前を向いたままだ。
「信じられないかもしれないけど、私、魔法少女なの。正義のヒーローなんだけどね、たまにはその使命から解放されたくなっちゃう!」
少女が振り返る。大雅は「信じるよ」と声を振り絞った。「俺は、物事はまず信じるようにしているんだ」
「あはっ、何それ」
少女が月をまっすぐ指さした。
「私、ルカ。貴方の名前は?」
「大雅」
「じゃあ、私を信じてくれた大雅くんに、特別に見せてあげる」
「何を?」
少女が目を瞑り、聞き取れない言語で何かを呟く。
光だ。公園全体が光に包まれ、大雅は動けない。
「魔法少女は正義である」
いつの間にか、目の前に魔法少女が立っていた。どこか少女の面影を残し、可愛らしい衣装に包まれている。
「秘密だよ、この夜のことは」
「……うん」
「じゃあ、私は行かなきゃいけないから。大雅くん、頑張ってね。私も頑張るから」
魔法少女ルカの訃報を聞いたのは、そのあとのことだ。
頭が痛む。誰かの悲鳴がこびりついて離れない。
曇りだった。大雅は妹と手を繋いで歩いていた。買い物の帰りなのだろう、大雅が持っている鞄はふくらんでいる。
あ、と妹が声を上げた。
「ちょうちょさん」
はっと気付いたときにはもう遅い。妹が道路のほうへ飛び出していく。交通量の少ない道路には、今だけ向こう側から車が走ってくる。
大雅は足がすくんだ。体が動くことを拒否していた。怖いのは嫌だ。痛いのは嫌だ。
それでも。
失うのはもう、嫌だ。
大雅はすっと目を開ける。鞄を投げ捨て、道路に向かって走る。
自分の命なんてどうでもいい。自分は彼女を、彼女を、世界一幸せな人にするのだと決めたのだから。愛されるべきなのは、彼女のほうだから。どうせ死ぬなら自分がいい。
ずっとヒーローになりたかった。
誰かに称賛されたかった。誰かに認めて欲しかった。褒められたかった。頑張ったねと言ってほしかった。
大雅の日常は、妹が生まれてから少しだけ変わった。
寂しくなんかなくなった。妹の世話で頭がいっぱいで、嫌なことは忘れることができた。心に空いた穴は、広がっていない。自分には使命ができた。母も義父も、以前より優しくなった。
どれも妹のおかげである。
自分が彼女を幸せにすると決めたのに、自分がもらってばかりだ。
「―――!」
名前を呼ぶ。恐らく人生で最後の言葉。走馬灯はない。
妹が振り返った。どこか怖がる表情をしている。
強烈な風。太陽の日差し。人気のない道。熱気を帯びたコンクリート。居眠りをする運転手。向こうに見える一輪の向日葵。歪む視界。
水が、ぽちゃんとはねた。
頭が冷水を浴びせられたように覚醒する。自分は何をしようとしていた?死ぬ?妹を残して?
妹を幸せにできるのは、自分一人だけだ!
自分と妹が共存する未来があったっていい。そう思わないか。
何もかもがスローモーションに見える。頭にはある言葉が浮かぶ。
あの夜の魔法少女のように、自分にだって、誰かに正義だと誇れる力があったっていいだろう。
大雅は太陽をきっと睨み、喉の奥から、人生を変える言葉を叫んだ。
「縺セ縺サ縺?§繧?◆縺吶¢繧上◆縺励≠縺ゅ♀繧鯉ス舌≧縺?ス弱○縺?℃縺ゅ≠?舌≧縺?>??↑縺?∞縺翫>? !!!」
轟音が響いた。視界が白く染まる。




