第9話 新しい薬種商
天正五年、弥生。
雪解けの水が沢を勢いよく下り始め、日光山の門前町にもようやく春の賑わいが戻ってきた。参詣の客や行商人が行き交い、久しく静かだった通りに、賑やかな声が戻っている。
坂本屋の土間にも、冬の名残を洗い流すような陽気が差し込んでいた。弥作がようやく山へ上がれるようになり、底をつきかけていた薬棚も、少しずつ埋まり始めている。
「伊助、その黄連が終わったら、当帰の量り分けを頼むよ」
「はーい、お春ねえさん」
伊助は黄連の根を手際よく仕分けながら、通りをちらりと見た。
「おーい、伊助。今日はやたら賑やかだな」
裏口からのんきな声がして、悠真がひょいと顔を出した。すっかり春めいたというのに、相変わらずあの奇妙な軽装鎧を着込んでいる。
「悠真か。町の連中が戻ってきたんじゃ、賑やかになるのも当然じゃろう」
「ヒマなら手伝えとは言わんのか」
「お前に薬草の仕分けなんぞ任せたら、全部台無しになるわ」
「ひでえな、それ」
軽口を叩き合いながら、二人はふと通りの向かいに目を留めた。
空き地だった一角に、真新しい幌をかけた荷車が二台並んでいる。深編笠を被った手代たちが、揃いの浅黄の半纏で忙しく荷を下ろしていた。
「なんじゃ、あれは」
「知らねえけど、えらい量だな」
看板が掲げられる。「薬種 近江屋」。太い墨文字が、まだ湿って光っていた。
伊助は積まれた薬草の束を目で追い、小さく眉をひそめた。
(品はまとまっておるが……刻み方が粗い。乾きも甘い。数を揃えるための量産じゃな)
そう見立てはついたが、口には出さなかった。
「近江屋……」
伊助は呟いたが、それ以上気にはしなかった。
(まぁ、春になればいろいろ湧いてくるものよ)
そう高をくくった。最初は、それくらいの感覚だった。
———
最初の違和感が、はっきり形を持ったのは数日後のことだった。
「ただいまー……」
重い足取りで戻ってきたのは弥作だった。背負い籠は、いつもより明らかに軽い。
「おう、弥作。今日はどうだった」
宗吉が帳場から声をかけると、弥作は渋い顔で籠を下ろした。
「……それがよ。山の連中が、あっちこっちで近江屋に持ってっちまってな」
「近江屋?」
「ああ、向かいに店出したあの連中よ。買い取り値を二割も上乗せしてやがる」
宗吉の眉がぴくりと動いた。
「二割増し……そりゃ、ふらつく奴も出ますねぇ」
宗吉が渋い顔で呟く。
「うちに全部持ってきてくれりゃあいいが、みんな冬を越して懐が寒い。責められねえよ」
弥作は目を伏せ、ぽりぽりと頭を掻いた。
「弥作……お前、うちとの付き合いを——」
「宗吉、よせ」
奥から出てきた清兵衛が、静かな声で制した。
「弥作の言う通りだ。誰だって生活がある。高く買ってくれる方へ持ち込むのは、商いの筋だ」
「旦那……すまねえ、本当にすまねえ……」
弥作は何度も頭を下げながら、逃げるように店を出ていった。
伊助は薬棚の陰から、そのやり取りを黙って見ていた。
(近江屋……仕入れの根っこを、先に押さえに来たか)
客を奪うだけならまだ耐えようがある。だが仕入れ先まで奪われれば、坂本屋は薬そのものを作れなくなる。
———
近江屋の主人が坂本屋を訪ねてきたのは、それから間もなくのことだった。
「これはこれは、坂本屋さん。突然の出店でご迷惑をおかけしてます」
四十がらみ、太鼓腹に笑い皺を貼りつけたような男だった。近江屋喜右衛門と名乗り、上方や京にも店を構える大店だと語った。
「早速ですが……坂本屋さんさえ宜しければ、薬草の買い取り、うちで一手に引き受けましょうか」
宗吉の笑顔が、わずかに固まった。
「うちが少し高く買い取り、まとめてさばく。坂本屋さんは薬を仕立てることに専念すればよろしい。悪い話ではないと思いますがねぇ」
(根っこを、全部持っていくつもりか)
伊助は拳を握った。
「ご親切はありがたいですが……」
宗吉が慎重に言葉を選ぶ。喜右衛門は、にこにこと笑みを崩さない。
「もちろん、すぐに決めろとは申しません。ただ、門前の薬草採りの連中には、もう話を通してありますんでね」
にこやかに、そう言い残して去っていった。
静かになった土間に、重い沈黙が落ちた。
「……親父」
新吉が口を開いた。
「このままだと、根っこが本当に無くなるぞ。買い取り値を上げるか、近江屋と手を組むか、何かしないと——」
「簡単に手を組める相手ではない」
清兵衛がきっぱりと言った。
「根を全部預けたら、あとはあちらの言い値で薬を買うことになる。値を吊り上げられたら、それで終いだ」
「けど、このままじゃ——」
「新吉」
宗吉が珍しく鋭い声で遮った。
「外を見てきた奴が、一番に膝を折るな」
新吉は悔しそうに唇を噛んだ。
———
その夜。
伊助は寝床でひとり、暗闇を見つめていた。
(近江屋の商いを崩す手立てはある)
景久の頭の中には、近江屋すら知らぬ調合の知識が山ほど詰まっている。それを坂本屋の新しい看板に据えれば、客は必ず戻ってくる。
(だが、それをやればどうなる)
十歳の小僧が、いきなり名薬を作り出したとなれば、どう言い訳しても誤魔化しきれない。化け物と疑われるか、その知恵目当てにさらに厄介な者が寄ってくるか。どちらにせよ、この店の平穏な日常は終わる。
喉の奥がひりつくような感覚を覚え、伊助は寝床を出た。水を飲みに土間へ向かうと、行灯の灯りがまだ揺れている。
「宗吉さん、まだ起きてるんですか」
「ああ……伊助か。お前も早く寝ろ」
宗吉は帳簿を閉じ、苦笑いした。
「なあ、伊助。お前、あの近江屋の店、見てきたんだろ。どう思った」
「品物は多い。値段も安い。だが、長くは続かんと思う」
「なんで」
「あれだけの量を維持するには、相当な仕入れが要る。高値で買い続けるには、それだけの元手が要る。元手が続く間は強いが……」
伊助はそこで言葉を止めた。
「続きは?」
「……儂には、まだ分からんことが多い」
「今『儂』って言ったろ」
「言っとらん」
「言った」
「言っとらん言っとらん」
宗吉は小さく笑った。
「十歳の小僧が、なかなか難しいことを言うな」
「近所のじいさんが、商売の話が好きだったんです」
「そのじいさんは万能だな」
「うるさいです」
軽い言い合いのあと、宗吉は行灯を消し、伊助も自分の寝床へ戻った。だが、胸の奥にわだかまるものは、消えなかった。
これまでこの店で起きたことは、山の獣や、人の病、冬の雪。どれも、この山と町の内側で片が付く話だった。
だが今、店の外から、大きな流れが押し寄せてきている。
坂本屋の日常が、音を立てて崩れようとしていた。




