第10話 山の境界
天正五年、卯月。
日光山の斜面は萌え出す若葉に覆われ始め、冬の白さはもうどこにも見当たらなかった。参詣の道も、山道も、人の行き来がいよいよ盛んになっている。
だが、坂本屋の懐だけは、春めく気配とは裏腹に冷え込んでいた。
「今日も北の沢は近江屋の連中に先を越されたよ」
弥作が籠を担いだまま、渋い顔で戸口に立っていた。
「まだ足、本調子ではないんじゃろう。無理せんでもよかろうに」
伊助が水を差すと、弥作は苦笑いした。
「無理しなきゃ、うちの取り分がなくなるんだよ。近江屋は当帰一貫、百五十文で買い取ってる。うちは百二十文だ。そりゃ、みんな根こそぎ持ってっちまう」
三十文の差。一日に三貫も採れれば、九十文の違いになる。伊助は頭の中でさっと勘定し、小さく唸った。
(それだけあれば、確かに乗り換える者も出てくるじゃろうな)
「今日はもう少し奥まで入る。手前の方はもう掘り尽くされとる」
弥作はそう言い残し、山へ足を向けた。伊助はしばらく考えてから、その後を追った。
裏山の入り口で、いつもの声がかかった。
「おーい、伊助。お前も山か」
悠真だった。相変わらずの妙な鎧姿で、暇そうに木の枝を杖にしている。
「弥作さんが心配でな。ついていく」
「ヒマだから俺も行くわ」
「頼んでおらんが、まあいい」
二人は並んで山道を登っていった。若葉の匂いと、湿った土の匂いが混じり合う。
「にしても、近江屋のやり方、あくどいな」
「値を上げて人を引きつけておるだけじゃろう。あくどいというより、ただ強い」
「強いのと、あくどいのって、そんなに違うか?」
「違うじゃろう。強さは長くは続かん。金を積み続けられる間だけの話じゃ」
悠真は「そういうもんか」と気の抜けた声で頷いた。
———
沢を一つ越えたところで、怒鳴り声が聞こえた。
「ここは俺たちの縄張りだって言ってんだろうが!」
「知らねえな。山守の爺さんから印形をもらったのはこっちだ」
伊助と悠真は顔を見合わせ、足を速めた。
斜面の上、弥作が三人の男たちと睨み合っていた。男たちは見慣れぬ揃いの半纏を着ている。手には、確かに何か紙切れが握られていた。
「弥作さん!」
「伊助、下がってろ」
弥作は小刀を握ったまま、一歩も引かない構えだった。だが、体格ははっきりと男たちの方が上だ。腕を捻り上げられれば、ひとたまりもない。
(まずいな……)
伊助が声を上げようとした瞬間、するりと悠真が前に出た。
「はいはい、ちょっと待った」
「なんだお前、関係ねえだろ」
「まあ聞けよ。その紙、見せてくれよ」
男の一人が渋々差し出した紙には、震えた筆致で境の場所と、赤い印判が押されていた。
「山守の爺さんの印か。……なるほどな」
悠真はそれを眺め、それから男たちを見た。
「お前ら、近江屋にいくらで買い取ってもらってる?」
「なんでそんなこと——」
「別に隠すことでもねえだろ。百五十文くらいか?」
男たちが顔を見合わせる。図星らしい。
「一日でどれくらい採れる?」
「……二貫か三貫だ」
「じゃあ、一日で三百文か四百五十文ってとこか。悪くねえな」
悠真は腕を組み、のんびりとした調子のまま続けた。
「でもよ、近江屋って店、出来てまだ一月かそこらだろ。上方の大店が、なんでわざわざこんな山奥の薬草採りに、そこまで金を積むんだ?」
男たちは黙り込んだ。
「今は気前がいい。だが、坂本屋みたいな古い店を潰し終えたら、その値、そのまま続くと思うか?」
「……知らねえよ、そんなことは」
「知らねえよな。俺も知らねえ。でもよ、値が落ちた時、真っ先に切られるのは、後から雇われた余所者の方だろうな。地元の連中とは違って、義理も何もねえんだから」
じりじりと、男たちの勢いが削がれていく。弥作は驚いたように悠真の背中を見ていた。
「まあ、今日のところは、その印がある沢はお前らにやるよ。その代わり、印のねえ場所——今まで誰も手をつけてなかった谷は、うちらにも開けてくれ。それなら喧嘩にならんだろ」
男たちは互いに目を見交わし、しばらく渋っていたが、やがて一人が舌打ちをして頷いた。
「……今日はそれで手を引く。次に印のある場所に入ってきたら、容赦しねえからな」
そう言い残し、男たちは斜面を下りていった。
「……お前、なんも殴らなかったな」
弥作が呆けたように呟いた。
「殴ったら、話がこじれるだけだろ」
悠真はあっけらかんと答え、頭の後ろで手を組んだ。
———
その日の夜、坂本屋の裏手で、伊助と悠真は並んで縁に腰掛けていた。
「昼間は驚いたぞ。殴りもせず、あの連中を退かせるとは」
「殴った方が早かったけどな」
「早いだけが正しいわけではなかろう」
「うん、それは……今日、ちょっと分かった気がする」
悠真は膝の上で手を組み、ぽつりと続けた。
「あの場で殴ってりゃ、あいつら一発で黙らせられた。だけど、そうしたら、余所から人集めて仕返しに来るか、俺のことをどこかに売り込むかのどっちかだ。前にいた場所じゃ——」
そこで、悠真は言葉を切った。
「前にいた場所では、どうだったんじゃ」
「……いや、いいや。とにかく、力でねじ伏せると、その後がずっと面倒になるってことだけは、よく分かってる」
伊助はそれ以上聞かなかった。聞いても、はぐらかされるだけだと分かっている。
「戦って勝てる話ほど、戦わん方がいいこともある、ということじゃな」
「そういうことだな。……お前も、なんかそんな感じか?」
「儂も似たようなもんじゃ。分かっておっても、迂闊に使えば——」
「今『儂』って言ったろ」
「言っとらん」
「もう何回目だよ、それ」
「数えるな」
悠真は小さく笑い、それから山の方を見上げた。
「近江屋、今日だけじゃ終わらねえだろうな」
「じゃろうな。値を落とせば人が離れる。値を上げ続ければ、いつか続かなくなる。どちらにせよ、長くは持たん」
「その『いつか』が来る前に、坂本屋が潰れちまうかもしれねえけどな」
伊助は黙り込んだ。否定できない話だった。
「……とりあえず、今日はもう休むぞ」
伊助はそう言って、店の中へ戻っていった。悠真はしばらく夜空を見上げていたが、やがて肩をすくめて、自分もゆっくりと神域への道を戻っていった。
山の境は、今日だけは、かろうじて保たれた。




