第11話 お春の疑念
天正五年、皐月。
日光山の若葉はいよいよ濃くなり、参詣客の声も門前町に賑わいを増していた。近江屋との睨み合いは、まだどちらに転ぶとも分からないまま続いている。だが、坂本屋の土間には、それとは別の、もっと小さな緊張が積もり始めていた。
「伊助、この束、桂皮の量り分けをお願い」
お妙に渡された束を受け取り、伊助は秤に乗せる前に、指先で軽く撫でた。
(……これは桂皮ではないな。似ておるが、木肌の香りが違う。誰かが仕入れの時に取り違えたか)
いつもなら黄連の裏を確かめるふりでもして、遠回しに直す。だが今日は、お妙もお春も忙しく立ち働いていて、うまい機会が見つからない。
「あら、伊助、手が止まってるよ」
お春の声に、伊助はハッと顔を上げた。
「あ、いや、なんでもないよ、お春ねえさん」
適当な理由をつけて秤に乗せる。だが、その一瞬の迷いを、お春はしっかりと見ていた。
———
その夜。
店の片付けが終わり、宗吉と清兵衛は近江屋の一件で相談があるとかで、隣の部屋にこもっていた。お常とお妙は台所で洗い物、竹松はとっくに寝床に入っている。
土間に残ったのは、伊助とお春の二人だけだった。
「伊助、明日の丸薬、一緒に仕込んでくれる?」
「うん、いいよ」
乳鉢に当帰、川芎、芍薬、地黄の粉を入れ、蜜を垂らしながら練っていく。伊助の指先には迷いがない。秤も使わず、粉の量も蜜の量も、目分量でぴたりと合わせていく。
その手つきを、お春はしばらく黙って見ていた。
「……伊助」
「ん? なに」
「あんた、今日、桂皮の束、変だなって思ったでしょ」
伊助の手が、乳鉢の上でぴたりと止まった。
「え……」
「見てたのよ。ちょっと迷って、それから何も言わずに秤に乗せた。あんた、あの束が桂皮じゃないって、分かってたんじゃないの」
「……気のせいじゃ……気のせいだよ」
「気のせいで、あんなに迷う?」
お春は乳鉢を置き、伊助の正面に立った。
「ねえ、伊助。私、もう半年以上、あんたのこと見てきたのよ。狼毒の葉を見つけた時。弥作さんの足を治した時。水路の死骸に気づいた時。それに、時々見せる、あの目」
「……目?」
「そう。子供の目じゃない。何十年も、人の生き死にを見てきたような、大人の薬師の目。あんた、時々、そういう目をするのよ」
土間に、しばらく沈黙が落ちた。行灯の灯りだけが、二人の間で揺れている。
「……言うても、信じてはもらえまい」
伊助はぽつりと言った。
「信じる信じないは、聞いてから決めるわ」
「いや、しかし……儂は——」
「今『儂』って言ったわね」
「言っとらん」
「言った」
「言っとらん言っとらん」
「もう何回目よ、それ」
お春が呆れたように笑うと、伊助はぷいと横を向いた。だが、逃げ場はもうどこにもない。
「……薬のことは、多少、分かる」
「多少、じゃないでしょう」
「……分かる。かなり、分かる」
伊助はようやく認めた。行灯の灯りの下で、その顔からいつもの子供らしい笑みが消え、老成した、どこか冷たい目が覗いた。
「なぜそんなことを知っているのか。なぜ隠すのか——聞きたいのは、それじゃろう」
「そうよ」
「言えば、儂はこの店にはおられんようになる。だから、言えん」
お春は、その言葉をじっと受け止めた。すぐには何も言わなかった。
「……化け物だとか、憑き物だとか、そう思われるのが怖いの?」
「そうじゃ。十歳のガキが、大人の薬師も及ばぬことを知っておるなど、誰が信じる。信じられなければ疑われる。疑われれば、この店から出されるじゃろう」
伊助は膝の上で拳を握った。
「儂は、ここが気に入っておる。清兵衛さんも、お常さんも、竹松も……お前も。だから、隠しておるんじゃ」
しばらく、お春は何も言わなかった。乳鉢の中で乾きかけた薬を、指先で軽くつついている。
「……そう」
やがて、それだけ言うと、お春はふっと肩の力を抜いた。
「じゃあ、もういいわ」
「え?」
「あんたが何者でも、どこでその知識を身につけたのかも、私はもう聞かない」
伊助は面食らったように、お春を見上げた。
「聞かんで、どうする」
「聞いたところで、あんたが今より安心して暮らせるようになるわけじゃないでしょ。だったら、聞く意味がないわ」
お春は伊助の頭に、ぽんと手を置いた。
「あんたは、うちの店の伊助でしょ。竹松と喧嘩して、弥作さんに草の名前を教わって、私と丸薬を丸めてる。それが全部噓だっていうなら別だけど——違うんでしょ」
「……噓では、ない」
「なら、それで十分よ」
お春はにっと笑った。
「これから先も、伊助が自分から話したくなる日まで、私は何も聞かない。清兵衛さんにも、お常さんにも、何も言わない。それでいい?」
伊助は、しばらく言葉を失っていた。
百年生きてきた中で、こんな申し出をされたのは初めてだった。名声も、弟子も、薬の腕も、山ほど積み重ねてきたはずなのに、正体を暴こうとせず、ただ「守る」と言い切ってくれる人間には、一度も出会ったことがなかった。
「……お前、案外、大した娘じゃな」
「今更気づいたの、遅いわね」
お春はそう言って、また乳鉢を手に取った。
「ほら、手、止まってるわよ。とっとと仕込まないと、明日店に出せないでしょ」
「へいへい、分かっておる」
伊助は苦笑いしながら、また薬を練り始めた。
行灯の灯りが、二人の手元をゆっくりと照らしている。
(坂本屋の伊助、か……)
伊助は内心で、その言葉を何度も繰り返した。深山景久として生きた百年の間、誰もそんな呼び方をしてくれた者はいなかった。ただの「子」として扱われたことは、一度もなかったのだ。
その夜、坂本屋の中に、伊助の秘密を知って、なお黙って寄り添う人間が、一人できた。
小さな灯りの下で、二人はただ黙って、明日の薬を仕込み続けた。




