第12話 薬草の争奪
天正五年、水無月。
日光山の山道は緑に覆われ、参詣客の足音が絶えることなく続いていた。だが、坂本屋の薬棚は、春よりもさらに寂しくなっていた。
弥作が籠を担いで戻ってきたのは、日が西に傾いた頃だった。
「……今日も少ないな」
宗吉が帳場から覗き込み、渋い顔をした。籠の底に、当帰の根がわずかに入っているだけだ。
「仕方ねえんだよ」
弥作は疲れた顔で腰を下ろした。
「近江屋が、個別に話をつけ始めてる。一度あそこと専属の契約を結んだら、他の店には卸せなくなる。当帰一貫、二百文まで値を上げてきた。若いのは、みんなそっちへ流れちまった。俺みたいな古い付き合いのある奴だけが残ってるが……俺一人で採れる量は知れてる」
「二百文……」
宗吉は帳簿を閉じ、腕を組んだ。
(仕入れを根っこから断ち切るつもりか)
伊助は薬棚の陰から、その会話を黙って聞いていた。景久の頭の中では、すでに先の展開が見えている。薬草が入らなければ薬が作れない。薬が作れなければ客は来ない。客が来なければ、坂本屋は店としての体を保てなくなる。
だが、それを口にすることはできない。
「弥作さん、近江屋の話を断ってくれてありがとう。本当に助かってる」
お春が静かに言うと、弥作は頭を掻いた。
「義理ってもんがあるからな。だが……正直、いつまで耐えられるかは分からん」
———
その夜、清兵衛と宗吉の声が、奥の間から漏れてきた。
「もう少し待ちましょう。近江屋は長くは続かない。そう見ている者もいます」
「待てるかどうかの問題だ、宗吉。今月の仕入れ代、どこから出す」
清兵衛の声は、いつになく低かった。
「薬草が入らなければ薬が作れない。薬が作れなければ、客は来ない。来月の飯代がどこから出るか、お前、本当に分かって言ってるか」
宗吉は黙り込んだ。
伊助は寝床の中で、その声を聞きながら天井を見上げた。
(清兵衛さんの言う通りじゃ。正しくても、時間切れになれば意味がない)
景久として、近江屋が長続きしないという見立ては今も変わらない。だが、坂本屋が近江屋より先に潰れれば、その見立てはただの正論になる。
(儂には、何もできんのか)
指先が、布団の上でぎゅっと握られた。
———
翌日、お妙が町から戻ってきた時、その顔には珍しく険しさがあった。
「宗吉さん、聞いてください。近江屋の後ろに、上方の大きな商いの連中がいるらしいんです。坂本屋だけじゃなくて、この辺りの薬種屋を全部押さえるつもりだって、噂が出てます」
「全部……?」
「値を吊り上げ続けられるのも、そのためだって。最初から、坂本屋を潰すこと自体が目的なんじゃないかって」
土間に、重い沈黙が落ちた。
「なぜ、うちが……大店でもないのに」
宗吉が呻くように言うと、清兵衛が静かに答えた。
「うちが古株で、山の薬草採りたちと一番太い繋がりを持っているからだ。うちを潰せば、弥作たち山の人間は行き場を失い、近江屋の言い値で働くしかなくなる。それに、うちは本宮から町へ下る道筋の、ちょうど真ん中に店を構えている。ここを押さえれば、山からの仕入れも、町への売り先も、両方まとめて手に入る」
「見せしめ、ということですか」
「そうだ。一番厄介な坂本屋を金で干上がらせれば、他の小さな店は恐れをなして勝手に傘下へ下る。向こうはそう踏んでいるんだろう」
(やはりそういうことか……)
伊助は籠の中の薬草を整えながら、内心でため息をついた。これは、ただの値段の争いではない。日光の山と薬の利権を根こそぎ奪うための、戦だったのだ。
———
「待つか、動くか」
その夜遅く、宗吉の声が、静かに問うていた。
「動けば、相手の土俵に乗ることになる」
「待てば、干上がる」
清兵衛は何も答えなかった。伊助は寝床の中で目を閉じた。坂本屋の内側で、初めて本格的な対立が生まれていた。どちらが正しいかではない。どちらを選んでも、何かが失われる。
その夜、坂本屋は、初めてそういう場所になった。




