第13話 悠真の力
文月に入って、山の緑は一段と濃くなり、蝉の声が遠く近く響くようになっていた。
近江屋が、山へ荒くれ者を入れ始めたのは、その頃からだった。
「境を越えたら、次は籠ごと叩き割るって言われた」
若い薬草採りが、震えながら坂本屋に駆け込んできた。背負い籠には、今日採れた根が半分も入っていない。
「怪我は?」
「……押さえつけられただけだ。だが、弥作さんたちが今日、奥の沢に入ってる。あそこは近江屋の連中が目をつけてる場所で——」
伊助は立ち上がった。
「悠真を呼んでくる」
山道を登ると、すぐに悠真が見えた。今日も暇そうに木の幹に背中を預けていた。
「おーい、伊助、何かあったか」
「弥作さんたちが危ない。奥の沢に近江屋の荒くれ者が入ってる。来てくれ」
「分かった」
二人が沢へ向かうと、遠くから怒鳴り声が聞こえてきた。
「ここは近江屋が押さえた場所だ。さっさと出ていけ!」
「こっちは昔から入ってる沢だ! 誰かに押さえられるような場所じゃない!」
弥作の声だった。斜面を下りると、弥作を含む薬草採りが五人、荒くれ者の七、八人に取り囲まれていた。荒くれ者たちは手に棒や農具を持っている。弥作の顔には、すでに血が滲んでいた。
「弥作さん!」
伊助が叫んだ。荒くれ者の一人が振り返り、伊助と悠真を見た。
「なんだ、ガキと若造か。邪魔するなら一緒に——」
その言葉が終わる前に、悠真が動いた。一歩、二歩。それだけで間合いが詰まり、地を蹴る音さえ遅れて届くほどの速さで、その姿は荒くれ者たちの目に一瞬の残像しか残さなかった。先頭の男の腕を取ると、そのまま軽く捻った。ぐぎ、という鈍い音と、男の悲鳴が重なった。
「痛い痛い痛い!」
「痛いだけだ、折れちゃいねえよ」
悠真は男を放し、残りの荒くれ者を静かに見渡した。その立ち方が、いつもと違った。山で熊を蹴り倒した時も、雪崩から伊助を抱えて走った時も、悠真はどこか余裕があった。だが今は、三年間の死線をくぐり抜けた者の、冷たく静かな気配が、全身から滲み出ていた。
「お前ら、七人か八人いるな。全員同時にかかってくれば、俺も少しは手こずるかもな。だが、一人ずつなら、今みたいになる。帰れ。今日のところは、それだけでいい」
誰も動かなかった。荒くれ者たちは顔を見合わせ、それから一人、また一人と、斜面を下りていった。
「……悠真、お前」
弥作が、震える声で言った。
「あの動き、普通じゃない。いったい何者だ」
「通りすがりの若造だよ」
悠真は肩をすくめた。だが、弥作も、他の薬草採りたちも、その答えでは到底納得できないような顔をしていた。
伊助は、悠真の横顔をじっと見た。
(やはりお前、この世の者ではないな)
これまでも薄々確信していたことが、今日はっきりと固まった。あの動きは、戦場で積み重ねた経験がなければ出てこない。人間の世界で、十六年を生きただけの者には、絶対に身につかない気配だ。
悠真も伊助を見た。
(伊助の奴、今日の俺を見て、何かを確信した顔をしてる)
お互いに、何も言わなかった。言わなくても、分かっていた。
———
夕刻、坂本屋の裏手で、伊助は悠真に声をかけた。
「今日のこと、弥作さんたちが口外する前に、広まるだろうな」
「そうだろうな。あのまま放っておくわけにもいかなかったし」
「お前も今日、何か確信しただろ」
「……ああ。お前のことを、この世の者ではない、と思う。それだけじゃ」
「それだけか」
「それだけじゃ。儂も人のことは言えんからな」
「今『儂』って——」
「言っとらん」
「……分かった、今日は追わない」
悠真は小さく笑い、それから真顔に戻った。
「噂が広まったら、俺はここにいにくくなるかもしれない」
「じゃろうな」
「お前は?」
「儂も……そうかもしれん」
二人は並んで、暮れていく山を眺めた。




