第14話 外への道
天正五年、葉月。
薬草の入荷はほとんど止まり、坂本屋の薬棚は見るも無残に空いていた。客は日に日に減り、宗吉の顔から笑みが消えて久しかった。
悠真の噂も、門前町では静かに広まっていた。「坂本屋に出入りする、得体の知れない怪力の若者がいる」という話は、酒の席の余興程度には語られている。だが、近江屋の背後にいる商いの連中にとって、それは大した脅威ではなかった。悠真はただの一人、しかも徒党を組んでいるわけでもない。腕の立つ用心棒が一人増えたところで、金の流れそのものを止める力にはならないのだ。彼らが本当に恐れていたのは、坂本屋そのものではなく、その店が持つ、山の薬草採りたちとの古い繋がりだけだった。
「旦那、もう時間がありません」
その夜、宗吉は清兵衛の前に正座した。
「近江屋の後ろにいる連中と、話をつけてきます。悪い話ではないんです。向こうは、坂本屋に店を畳めとは言っていない。薬の仕立てはこちらに任せる。ただし、薬草の仕入れは全部向こうを通せ、という条件で——」
「それは、向こうの言い値で仕入れるということだ」
「今よりはましです。今のままでは、来月の飯代もない」
清兵衛は、しばらく黙っていた。
「お前がそこまで決めてきたのなら、もう止めん。だが、宗吉、これだけは分かっておいてくれ。これは坂本屋という店が決めたことではない。お前一人が、店を背負って決めたことだ。そのことだけは、忘れるな」
宗吉は深く頭を下げた。
「……肝に銘じます」
———
伊助は、その翌朝、宗吉が早くに出かけていく背中を見送った。
(宗吉さんは悪くない。ただ、追い詰められた)
それだけは分かった。誰かを責める気にはなれなかった。だが同時に、これで坂本屋は、中立でいられなくなった、とも思った。薬草の仕入れを外の勢力に握られれば、次は薬の値段を握られる。その次は、客を誰に売るかを握られる。坂本屋という店の名前だけが残り、中身は別の何かになっていく。
宗吉が戻ってきたのは、昼を過ぎた頃だった。その顔には、安堵とも後悔ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。
「……話をつけてきました」
清兵衛は何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。お春は台所に引っ込んだ。お常は縫い物の手を止めなかった。
坂本屋は、その日から、少し違う店になった。
———
天正五年、葉月の末。
宗吉が取引を結んで以来、薬草の入荷は戻ってきた。だが、仕入れ値は以前の一割増し、二割増しと、じわじわと上がり続けていた。清兵衛の読み通りだった。
「新吉、足利へ行ってくれ」
清兵衛がそう言ったのは、ある朝のことだった。
「足利に、古くから薬種を扱う商家がある。うちとは昔から付き合いがある。直接頼めば、仕入れの道が開けるかもしれない」
「足利……」
新吉が呟く。
伊助の手が、薬草の束の上でぴたりと止まった。
(足利……儂の……)
喉の奥から、何かが上がってきそうになった。名前も、顔も、はっきりとは思い出せない。百年生きた記憶の中で、足利という地名だけが、妙に重い。まるで、そこに何かを置き忘れてきたような感覚だった。
だが、それを口に出す言葉を、伊助はまだ持っていなかった。
「どれくらいかかる?」
「往復で十日は見ておけ」
新吉は少し考えてから、頷いた。
「分かった。行ってくる」
その夜、伊助は縁側に腰を下ろし、山の方を見上げていた。足利。その名前を、頭の中で何度も繰り返した。
(……足利か)
それ以上は、考えなかった。考えたくなかった。掘れば、何か大事なものに触れてしまう気がした。
裏口から悠真がひょいと顔を出した。
「なんか暗い顔してるな、伊助」
「別に」
「嘘つけ。何か引っかかってるだろ」
「……悠真、お前、最近、神域にいにくくなってきてるんじゃないか」
悠真は縁側に座り、肩をすくめた。
「まあな。弥作さんのおかげで、直接見た連中からはそこまで詳しい話は広がってねえけど……門前町じゃ、酒の席の余興くらいには噂が回ってるらしい。宗厳さんも、そろそろ心配してる」
「日光を離れることを、考えてるか」
「……考えてないわけじゃない。だが、行く理由がない」
「行く理由がなければ、留まるか」
「留まる理由もないけどな」
二人はしばらく黙っていた。
「新吉さんが足利へ行く」
「足利か。遠いな。……お前、足利って聞いて、なんか顔が変わったぞ」
「気のせいじゃ」
「気のせいじゃないだろ」
「気のせいじゃ言っとる」
悠真は伊助の横顔をしばらく見ていたが、それ以上は聞かなかった。
「まあ、いいや。とりあえず、今日は帰る」
悠真が立ち上がりかけた時、伊助が静かに言った。
「……もし、ここを出ることになったら、どうする」
「どこかに行く理由ができたら、行くんじゃないか。今は、まだない」
「そうか」
「お前は?」
「……まだ、分からん」
その夜、二人の前に、「外へ行く」という選択肢が、初めてぼんやりと姿を見せた。




